「い、やっ! はなしてくださいっ!」
 
「ほー、か細い腕で反抗なんかしちゃって」
 
「無駄な抵抗すんな! 動けなくすんぞオラ!」
 
 
黄昏時の公園に、少女の悲鳴と男達の嘲笑うような声とが入り混じった歪な混声合唱が響いた。
 
退魔を礎とする武領総本山ではこの時間帯は『降魔ヶ刻』と呼ばれ、満月と並び称されるほど人の狂気が増幅する時間帯とされている。
 
不思議な事にこの時間帯は何所も人通りが少なく、誰もが自分が異次元に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。
 
魔と逢瀬を交わし、魔がその身に降りる。
 
森も、山も、自身までもが周囲との境界線を無くす赤い刻。
 
この時もまた例に違わず人通りは少なく、周囲に唯の悲鳴を聞き入れる人影は無かった。
 
 
「おとなしくしろよ。 どうせ誰も来ないんだからよ」
 
「来たとしても、潰すだけだけどな」
 
「恨むんなら相沢なんかの彼女になった自分を恨むんだな」
 
 
何時の間にか私は泣いていた。
 
恐かったから泣いたのか。
 
それとも、相沢さんと一緒にいる事を否定されたからなのか。
 
強い力で腕を引かれ耳元で怒鳴り声を聞かされてる状況じゃ、その答えは判らなかった。
 
それでも。
 
答えなんか判らなくても、私の眼から涙が止まる事はなかった。
 
まるで壊れてしまったかの様に。
 
大好きな人が助けに来てくれたその後でも、ずっと。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stand by Me 〜 Another story 〜
 
 
その7 『降魔ヶ刻』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
やっと見つけたプリンシェイクを、俺は手の中に二つ抱えていた。
 
一つは勿論唯の分。
 
そしてもう一つは俺の分。
 
甘い物が苦手な俺が、どうしてこんな甘そうな物を買う気になったのか。
 
まったくもって不思議な行動の理由を、俺は自身でも理解していなかった。
 
学食で初めて一緒に昼飯を食べた時の唯の台詞が、ボタンを押す間際にひょいっと頭に浮かんだ。
 
本当にただそれだけの事だった。
 
 
『相沢さんと……同じのが食べてみたかったんです』
 
 
まさか俺もそんな気持ちになってたってのか?
 
一瞬だけ思ってみて、照れくさくなった俺はその答えを即座に否定した。
 
そんな事は無い。
 
たまには甘い物もいいかなと思っただけだ、と。
 
 
それにしても、何時の間にこんなにも黄昏に染まったのだろう。
 
ふと立ち止まって空を見上げると、僅かの間に随分と街はその色を変えていた。
 
太陽の色は既に白くはない。
 
燃えるような夕焼けは、目に映る全ての物を血の様な赤い色に染めあげていた。
 
街を。
 
家を。
 
人を。
 
赤く
 
紅く
 
あかく
 
アカク
 
 
「ぐっ!」
 
 
急激な目眩に襲われて、俺はその場に跪いた。
 
眼球の奥を抉られるような感覚。
 
赤い紅いアカイあかい。
 
俺は今、確かに何かを思い出しかけた。
 
遠い記憶の中にしまわれている何かを。
 
だがそれを体が、本能が拒んでいるような感じがした。
 
思い出してはいけない、と。
 
 
自身の記憶なのに、何故に思うようにならないのか。
 
俺は自身に何を隠していると言うのか。
 
偽り。
 
隠蔽。
 
恐らくは都合の悪い事。
 
ふざけやがって。
 
『創られた』俺なんか要るか。
 
廻らせろ。
 
思い出せ。
 
お前は今何を見た。
 
何を見て思いを馳せたのだ。
 
赤い街。
 
赤い家。
 
紅 い ヒ ト
 
 
「ぬあぁっ!」
 
 
再び襲い来る不快感と痛みに立っていられず、俺はその場に跪いた。
 
妙に液状化した唾を吐き、眉間に深い皺を刻み、苦痛に苛まれながら。
 
しかし俺は確かに『それ』を感じた。
 
あえて喩えるなら、開放。
 
自分の身体がまるで自分の物じゃないような気がした。
 
荒くなる呼吸が凪いでいくと共に研ぎ澄まされていく感覚。
 
五感の全てが鋭さを増していく。
 
そして剥き出しの聴覚が捉えた音は、俺にとって最も聞きたくない類の物だった。
 
助けを求めるか弱い声。
 
確かに聞き覚えのあるその声。
 
ついさっきまでは、弾む様に唄っていたその声。
 
 
「……唯っ!」
 
 
俺は走り出していた。
 
既に吐き気は無い。
 
先程までの原因不明な事態を言及しようとする思考も、最早無い。
 
俺の耳に届いたその声が現実の物であったかどうかは定かではないが、それでも黙ってなんかいられなかった。
 
ただ唯が俺を呼んでいる、そんな気がして。
 
 
プリンシェイクは投げ出され、道端に死んだ様に横たわる。
 
長くなった影が石などの影と交わり、まるで魔物のような形の影を作り出していた。
 
全ての往く末を、嘲笑うかの様に。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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息を切らして唯が待っているベンチに辿り着いたとき。
 
その光景は真っ赤な夕日に照らされて、全てが血の中で行われているかのように其処に存在していた。
 
必死で抵抗し、泣きじゃくる唯。
 
その腕を取り、弱者を甚振る愉悦に歪みんだ面を見せる二匹の下等生物。
 
音は、聞こえない。
 
息すらも出来ない。
 
ただ目の前の光景が、あまりにも不可思議で。
 
何で唯が泣かなきゃいけないのか判らなくて。
 
二匹の生き物が唯に向かって何をしているのかも判らなくて。
 
俺がどうしてこんな場所から見ているだけなのかも判らなくて。
 
だけど一瞬の空白の後。
 
全ての歯車が噛み合った。
 
俺の中に、『魔』が降りた。
 
 
走る。
 
超前傾姿勢で、脚力完全開放。
 
一呼吸の間も無く、俺は一気に不良達との距離を詰めた。
 
気付いてこちらを振り向いたそいつが最初の攻撃目標。
 
もう一人の方を呼ぼうとしたその隙をつく。
 
狙いは両膝、両肩、そして喉仏。
 
躊躇いも戸惑いも慈悲も手加減も無い。
 
目的は、破壊!
 
 
『裏壱零零壱式 蒼星嵐武』
 
 
下段回し蹴りで両方の膝蓋骨を関節ごと砕き、相手の一切の動きを強制的に止める。
 
そのまま回転を止めずに、回し打ちの要領で肩の付け根を一本拳で強打。
 
最後の決めとして喉仏に拳を叩き込んだ。
 
悲鳴をあげる間も無く崩れ去る、『一匹目』
 
だがそこで俺は攻撃を止めなかった。
 
身体を低く沈め、前のめりに倒れてくる一匹目の顔面に打ち上げの掌打。
 
ぐちゃっと、手に『命有る物』を殴った嫌な衝撃が残った。
 
前歯で切れたのか、掌に鋭い痛みが走る。
 
それでも俺は止めない。
 
掌打の勢いで今度は後ろに倒れていく男とすかさず間合いを詰め、拳を強く握る。
 
爪が掌に食い込むほど強く握る。
 
そして地面と男の頭が触れるか触れないかの刹那。
 
覆い被せる様に、俺は上空から人中に拳を叩き込んだ。
 
 
が、ごっ!
 
 
先に触れたのは俺の拳。
 
次に地面。
 
はずむ頭。
 
鈍い音。
 
二重の衝撃を受けた男は鼻血を出し、血と泡を吐き、白目を向いて意識を失っていた。
 
 
二匹目。
 
一瞬でスクラップと化した一匹目の惨劇を見て恐れをなしたのか、この場から逃げようとして背中を向けていた。
 
だが、逃がさない。
 
逃がす訳が無い。
 
地面を強く蹴り、一瞬で男の正面に回りこむ。
 
驚愕した二匹目の男は、腕の振りも腰の回転も中途半端な牽制にもならない隙だらけの突きを打ってきた。
 
難なくかわし、男との間合いを超至近距離まで詰める。
 
がら空きの鳩尾。
 
肺腑、肝臓、肋骨。
 
全てに回復不能のダメージを与えるために。
 
俺は自身の体内に廻る『氣』を一気に、捻りを加えた双掌打と共に二匹目に叩き込んだ。
 
 
禁捨伍式 八掛双撞掌』
 
 
激しく、そして鈍い轟音と共に二匹目は十メートル以上吹っ飛び、花壇の煉瓦に全身を打ちつけて気を失った。
 
親父から禁止されていた技。
 
実戦で使ったのはこれが初めてで、それ故に初めて禁止されているその意味を知った。
 
その道を極めた物ならば、本来突き抜ける衝撃を相手の内臓に留めて置く事も可能なはず。
 
そしてそれを実際に行使した場合、殺人技になりかねない。
 
この技は、人を殺せる。
 
もっとも未熟者の俺は衝撃を突き抜けさせる事しか出来なかったが、もしも衝撃を内臓に留めて置く術を知っていたならば。
 
今の俺は、間違い無くそれを使っていただろう。
 
許せなかった。
 
唯を泣かせたこいつらを亡き者にし、自らにもそれ相応の罰を与える。
 
そうでもしなきゃ、本当に許せなかった。
 
唯を泣かせたこの馬鹿共を。
 
何よりも、唯を泣かせる原因を作ってしまった俺自身を……
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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夕暮れ時はとうに過ぎ、太陽は既に名残の光しか見せなくなって久しい。
 
辺りは刻一刻と暗くなり始め、空には一番星すら覗えた。
 
紫から青を濃くしつつある薄闇の中。
 
いつものような感じじゃなくて。
 
本当に心の奥底に『恐怖』と云う魔物が住みついてしまったかのような雰囲気で。
 
唯が、泣いていた。
 
俺は何も出来なくて、その場に立ち竦み。
 
ただ、自分を責める事しかできずにいた。
 
 
唯が襲われた理由。
 
泣いている原因。
 
それは全て俺にあった。
 
唯のような人畜無害な奴が、いくら一人でベンチに座っていたからって無条件に襲われる筈がない。
 
それに、俺は一匹目の男に見覚えがあった。
 
見た目にも不快な金髪。
 
思い出される、『あの日』。
 
唯と出会ったあの日に、桜花咲くこの場所で、飽きるまで殴り散らした奴だ。
 
恐らくは、俺への恨みから唯を襲ったのだろう。
 
 
俺なんかに付き合わなければ唯はこんな恐い目に遭わなくてすんだ。
 
俺なんかと一緒に居なければ、唯は涙を流さずにすんだはずだ。
 
 
唯と一緒にいて楽しかった。
 
隣りを往く奴が居るってのがとんでもなく嬉しくて、とんでもなく楽しかった。
 
少なくとも、俺は。
 
唯がどう思っているかを計る術を持ってはいないから、そっちは判らない。
 
ひょっとしたらしょうがなく一緒に居たのかもしれない。
 
作り笑いをしながら、俺の事を疎んじていたのかもしれない。
 
 
でも、俺は楽しかったんだ。
 
唯の笑顔が見られればそれで良かった。
 
声を交わしてくれれば、それだけで良かった。
 
でもそれは俺の自己満足に過ぎなくて。
 
本当に自分勝手な、唯の事をまったく考えてない行為でしかなくて。
 
 
結果として今、唯は泣いている。
 
奴等に強く握られていた腕は赤くなり、制服は着乱れて、嗚咽は留まる事無く。
 
 
俺と一緒に居る事によって唯は傷つく。
 
遭わなくてもいい恐い目にも遭ってしまう。
 
俺が気付かなかっただけで、学校でも『不良』と一緒に居る事で言われ無き中傷を受けているかもしれない。
 
それは過去形なんかじゃなく、多分、これからも起こり得る現実。
 
どうすればいい?
 
どうしたら唯は泣かなくて済む?
 
何よりもそう在ってほしいと願っている姿で毎日を過ごしてもらう為に、俺が出来る事は―――
 
 
考えついた答えはあまりにもありきたりで、役に立ちそうも無い一つの言葉だった。
 
だって俺は馬鹿だから。
 
馬鹿だから自分勝手に唯に近付いて、馬鹿だからその事がどんな結果を招くかにも気付かなくて。
 
それでも、唯にはいつでも笑顔で居てほしくて。
 
だから。
 
 
何もできない俺がたった一つだけ。
 
たった一つだけできる事はきっと、何もしない事でしかなくて。
 
それ以外に何も思いつかなくて。
 
俺は。
 
言いたくもない言葉を口に出すしかできなかった。
 
 
「……唯」
 
「ぅ…ひぅっ……」
 
「悪かった」
 
「ぁ、あいざわさんはっ、わるっ、なっ」
 
「もう二度と、俺は、お前に関わらない。 だからお前も、俺には二度と関わるな」
 
「ぇ、あ、あいざわさ……」
 
 
踵を返し、一度も振り向かず。
 
振り向けず。
 
俺は公園を後にした。
 
唯が呼んでくれるだけで特別な気がしていた、自分の名前。
 
誰が叫ぶよりも確かに響いていた、唯の声。
 
もう二度と呼ばれる事は無いだろうから。
 
俺の名を呼んでくれる事は無いだろうから。
 
背中越しにだけれど。
 
振り向いて返事を返してやる事は出来ないけど。
 
目を閉じ、耳を澄まし、風に消えそうな鈴の音を。
 
俺は、繰り返し心の中に響かせていた。
 
 
そう多分、これでいいんだ。
 
元々俺なんかと一緒に居るような奴じゃないんだ。
 
俺は、誰かを幸せに出来るような奴じゃなかったんだ。
 
何を勘違いしていたんだろうか。
 
こんなにも他人を傷付け、他人から疎まれ、何も創る事なんか出来ず、壊す事しか出来ない馬鹿のくせに。
 
誰かが傍に居てくれるなどと。
 
誰かの傍に居て良いなどと、赦されるはずもない事を望むだなんて。
 
 
唯にはもっと楽しくて、もっと幸せな日常の方がいいに決まってる。
 
俺なんかと一緒に居たって、あいつの笑顔が曇るだけだ。
 
お前はいつだってバカみたいに笑ってた方がいい。
 
世の中の汚い部分なんか何も知らずに、真っ白なままで。
 
そしてその為には、俺の存在が邪魔になる。
 
そう……これでいいんだよな。
 
もう望まないから。
 
一緒に居たいだなんて、そんな事は思わないから。
 
だからせめて、なぁ唯。
 
笑ってくれよ。
 
ずっとずっと、笑っていてくれよ。
 
遠くから見て、お前が笑ってれば、それだけでもう他には何も要らないから。
 
その笑顔の傍に、俺の居場所なんか無くていいから……
 
 
家に帰り、自分の部屋のベッドにうつ伏せに倒れる。
 
柔らかな布団の感触が俺を包み込んだ。
 
このままどこまでも落ちていけたらいいのに。
 
二度と覚めない眠りならいいのに。
 
夢の中で何時までも二人、笑っていられればいいのに。
 
 
誰もいない家で。
 
誰もいない部屋で。
 
思いが馳せるのは小さな少女の元にだけだった。
 
出会ってから一ヶ月弱しか経ってないはずなのに、こんなにまでも俺の心に深く刻まれたアイツ。
 
大切に思う。
 
誰よりも大切に思える。
 
だからこそ、俺は唯と離れなきゃならない。
 
 
「泣き顔より、笑ってた方が可愛いからな……」
 
 
呟いてみたら余計に愛しくなった。
 
こんな時俺は、自分が機械だったら良いと思う。
 
機械ならば楽だった。
 
『記憶』の中から『観空唯』の情報を、いとも簡単に『消去』できるのに。
 
簡単に。
 
ボタン一つで。
 
 
こんなにも自身を苛む感情を、全て消し去ってしまえると言うのに。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued . . . . .