朝。
 
日が昇ると同時に目が覚めた。
 
遮光ではないカーテンから差し込む白い陽射し。
 
窓を開けると五月晴れの名に相応しく、今日もいい天気だった。
 
それはいつも通りの朝。
 
誰に挨拶を交わす事も無く、暖かい朝食が待っている訳でもなく。
 
無言で制服に着替え、トーストすらしないパンを摘むだけの朝食を簡単に済ませた俺は学校に向かって歩きはじめた。
 
網膜を刺す日の光。
 
それを癒す木の緑。
 
一切合財が邪魔臭くて、かつ恨めしかった。
 
いっそ土砂降りにでもなってくれれば良かったのに。
 
何処までも晴れ渡る空を見ながらそんな事を思ってしまうほど、俺は荒んでいた。
 
いや、荒んでいたのではない。
 
恐らくは戸惑いと自己嫌悪が綯い交ぜになって混乱していたのだろう。
 
 
だってそれは、いつもの様にいつもの場所で。
 
昨日までと何も変らない姿で、俺を待っていたのだから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stand by Me 〜 Another story 〜
 
 
その8 『草薙 桜』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桜の木の下に立っている。
 
時間を気にしているらしく、公園の大きな時計をちらちらと見ている。
 
両側に結った髪を可愛いリボンで飾っている背の小さいそいつは、紛れも無くいつもの様に俺を待っていた。
 
 
「……何で居るんだよ」
 
 
眉間に鈍痛を覚え、思わず洩れる呟き。
 
昨日、俺は確かに言ったはずだ。
 
言いたかった訳じゃないけど、それでも。
 
自分の心を押し殺してまで、必死になって告げたはずだ。
 
『もう、二度と俺に構うな』、と。
 
なのに何でいるんだよ。
 
 
「あ……お、おはようございます」
 
 
俺の姿を見つけた唯は、多少戸惑いながらだが俺に挨拶をした。
 
一生懸命、『いつも通り』に戻ろうとして。
 
いつもと変らない朝を迎えれば、またそこからいつも通りの日常が展開される事を期待して。
 
だが、俺は挨拶を返さなかった。
 
それどころか、唯が居る事すら無視して歩き続けた。
 
本当は無視なんか出来ない。
 
どうしたって心は唯の方に向かってしまう。
 
今すぐ立ち止まって、振り向いて笑って、おはようって言って。
 
一緒に同じ風景の中を歩きたい。
 
声を交わし、視線を合わせ、存在を確かに感じたい。
 
 
しかし、それは叶わぬ願い。
 
叶えてはいけない、想い。
 
だから俺はあえて無視し続けた。
 
そうしないと辛いから。
 
せっかく決めた心が、揺らいでしまいそうだったから。
 
 
一言も発しない俺の横で、何かを話し続ける唯。
 
普段と違って速さを合わせられる事のない歩調に、それでも一生懸命についてきながら。
 
声が。
 
笑顔が。
 
雰囲気が。
 
違和感に気付かぬ様に演じ続ける唯の全てが、痛かった。
 
 
「えっとですね、昨日の夕ご飯がですね――――――――」
 
 
昨日までは笑って受け入れる事の出来た声。
 
だが今は。
 
唯の声を聞いていながら言葉を返してやれない。
 
存在すらも無視しなければならない。
 
それ以外に為す術を知らない自分に、怒りを越して吐き気すら覚えた。
 
無視し続けられる唯の痛みが手に取るように判る。
 
頼むから……
 
頼むからこれ以上お前の声を無視させないでくれ。
 
 
結局学校に着くまで唯は喋り続け、俺はその言葉を無視し続けた。
 
そして、遂に訪れる『その時』
 
校門を越える直前、今まで横を歩いていた唯の脚が止まった。
 
同時に消える、鈴の音。
 
あまりにも耳に痛い静寂と、存在感の喪失。
 
予期していた筈の喪失感。
 
しかし、俺は振り向いてしまった。
 
無視し切れなかった。
 
振り向いた俺を待っていたのは、何処までも圧倒的な現実。
 
必死に笑顔を創りながらしかし、止めど無く溢れる涙。
 
唯が。
 
泣いていた。
 
 
「わたっ、わたし……なに、か…あいざわさんに……嫌われっ、ような事…しちゃいましたかぁ?」
 
「……そんなんじゃない」
 
 
そういう訳じゃないけど―――
 
 
「―――言っただろ。 二度と俺に……」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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吹き付ける風が前髪を揺らす。
 
青が若干なりとも存在を近くしている。
 
俺は、屋上にいた。
 
校舎内には入ったが教室へは行かず。
 
恐らくは涙を流したまま立ち尽くしている唯をも捨て置いたまま、逃げる様にしてこの場所へと。
 
 
自己嫌悪。
 
その四文字だけが際限無く脳裏を駆け巡っていた。
 
泣かせたくないから俺は唯と距離をおく事にしたのに。
 
それなのに。
 
 
「泣いてた…よな」
 
 
たかが俺なんかの事で涙を流してくれる奴が居るだなんて。
 
そんなにまで俺の事を思ってくれる奴が居るだなんて。
 
厭われ、疎まれ、蔑まれるだけだった。
 
これからもずっとそうだと思っていた。
 
なのに。
 
俺の為だけに流された涙。
 
果てしなく罪悪感を伴いながらも、それでも俺は思ってしまった。
 
嬉しい、と。
 
だがしかし、今ここで俺が唯と元通りの関係に戻ってしまう事は出来ない。
 
どんなに願ってもそれは出来ない。
 
してはならないのだ。
 
 
自慢できる事じゃないが、俺は不良共にかなりの恨みを買っている。
 
これからも昨日のような馬鹿共が俺への怨恨を晴らす為に、『相沢祐一』と親しい間柄の奴を襲う可能性はかなり高いだろう。
 
その場合、唯はただ泣くだけじゃ済まなくなる。
 
最悪の予想なんてのはいつだって更新され続ける。
 
巻き込めようはずが、無い。
 
 
今までの俺はそんな事を気にする必要は無かった。
 
親しい友人。
 
大切な人。
 
そんなのはドラマの中だけに出てくるフィクションの産物だと思っていた。
 
守るべき者。
 
愛しい者。
 
鼻で笑って馬鹿にしていた。
 
自分以外の奴の為に命まで掛けられる訳が無い。
 
本気でそう思っていた。
 
 
多分、今なら信じられる。
 
今この状況で命がどうとかって話じゃないけど、それでも俺は。
 
自分の全身と全霊をもって、出来得る限りで唯の笑顔を守りたい。
 
本当にそう思った。
 
そう思ったから、あいつから離れる決意をした。
 
命を掛けられるくらいなら、唯の笑顔から離れて過ごす事くらい簡単なはず。
 
そのくらい、簡単に出来るはず。
 
昨日の夜にも思った役立たずの理論は、今ではただの強がりにすら聞こえなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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どのくらいそうしていただろうか。
 
来た時は日が逆側に位置し、チャイムが鳴った数は二桁を数えた気がする。
 
もう放課後なのだろうか。
 
校庭で活動を始める生徒の姿を見ながら、俺はぼんやりとそんな事を思った。
 
 
学校になど、来なければよかった。
 
どうせ授業を受けないのならば、家で寝ていても一緒だっただろう。
 
それどころか学校に来ようとした事によって、唯の泣き顔を直に見る事になってしまった。
 
少し前なら考えられなかった事。
 
何時の間に学校に行く事が普通になっていたのだろうか。
 
定時に起きる事も苦痛だったはずなのに。
 
制服に袖を通す事すら億劫だったはずなのに。
 
回りの目が煩わしいだけの学校なんて、大嫌いだったはずなのに。
 
 
そこまで考えて、俺は自分の思考に苦笑した。
 
気付けばまたこんなんだ。
 
辛くなるだけなのに、唯の事ばっかに思いを巡らせて。
 
良かった事だけ何回も何回も、まるで壊れたテープレコーダーみたいに胸に刻み込んで。
 
俺の存在なんて、半分以上が唯で構成【ツクラレ】されてたのに。
 
唯が居なくなっちまったら。
 
……っは。
 
何をまた、判り切った事を。
 
最初っから俺は空っぽだっただろ。
 
何にも持ってなかっただろ。
 
元に、戻る、だけだ、ろ。
 
 
「相沢……祐一さんですよね」
 
 
奈落へと続く思考の螺旋回廊をひたすらに降っていた俺の心を現実へと引き戻す、声。
 
僅かに感じていた涙の予兆を強引に薙ぎ払い振り返った先には、一人の少女が立っていた。
 
背中の中程までに伸ばした髪をポニーテールにし、奥嬢に吹く風に後れ毛とアンテナを靡かせ。
 
唯よりも少し高い目線から一直線に俺を射抜く眼差しには、紛れも無い怒りと不退転の意志が篭められていた。
 
声の調子と表情から完全に怒っている事だけは確かな様だったが、何しろ俺には初対面の女子に怒られるような事をした覚えがない。
 
それ以前に、今の俺には名も知らぬ女の相手をしている心の余裕なんてモノが無い。
 
したがって自然と口調が厳しくなるのも、勝手な理屈だがしょうがない事だと思った。
 
 
「そうだが……アンタは?」
 
「唯の親友です」
 
 
さらりと口に出された名前に、一瞬だけ動揺する。
 
彼女は確かにこう言った。
 
『唯の親友だ』、と。
 
だが俺は今までに彼女の姿を見た事が一度も無い。
 
親友ならば俺と唯が話している時、輪の中に入ってきても良さそうなものなのだが。
 
 
「俺はアンタを見た事が無い」
 
「当然です……不良は嫌いですから」
 
「なるほど。 で? 不良嫌いのアンタが、わざわざ屋上にまで出向いて、その不良に何の用だ?」
 
 
皮肉を交え、自嘲の意味も兼ね。
 
俺は冷徹に言い放った。
 
だが、それをまったく意に介さない様子で少女は言葉を続ける。
 
やはりと云う言葉を介在させる余地も無いくらい、その口調には怒気が含まれていた。
 
 
「唯の事、避けてるって本当ですか?」
 
「………」
 
「唯の事、泣かせたって本当ですかっ!」
 
「お前には関係が無い」
 
「ありますっ! 私は、唯の親友ですから」
 
 
微塵も逸らす事無く俺を射抜く、視線の薙刀。
 
不良が行うガン付けとはまったく異質なその迫力に、流石の俺もたじろいだ。
 
どうやら唯と親友というのは本当らしい。
 
じゃなければこんなにも真剣な表情は出来ないだろう。
 
こんなにも、本気で怒れはしないだろう。
 
 
「返答次第では、絶対に許しませんから」
 
 
しかし、俺だって遊び半分でやってる訳じゃない。
 
泣かせたくて、泣かせてる訳じゃない。
 
誰が好き好んでやるものか。
 
自身よりも何よりも、あいつだけは傷つけたくないと思うから。
 
そう思って選択した道が『間違い』だと言うのならば、その想いを許せないと言うならば。
 
教えてくれよ。
 
何処に在るのかも判らない、『正解』を。
 
 
「俺と一緒に居たら……あいつは不幸になるだけだ」
 
「は?」
 
「俺に恨みを持った不良に襲われたんだよ、唯が」
 
「知ってます。 さっき唯から聞きました」
 
「それならもういいだろ。 説明は終わりだ」
 
「それだけじゃ納得できないから、こうやって此処にあたしが居ます」
 
「これ以上俺なんかと一緒にいたら……判るだろ? 判れよ、頼むから」
 
 
これ以上は言わせないでくれ。
 
再確認なんかさせないでくれ。
 
泣かせたくない。
 
傷付けたくない。
 
不良の隣に居るのなんか、あいつには似合わない。
 
親友であるアンタが不良を嫌っているのならば尚更都合が良いだろう。
 
 
「……判りました」
 
「そ、っか。 ……あんたからも唯に言っておいてくれ。 もう俺に構うなって」
 
「その前に、ちょっと目を閉じてください?」
 
「あ? なんでだよ」
 
「いーからいーから」
 
「……こうか?」
 
 
言われた通り目を瞑る。
 
暗転した視界の中、背中を焼く西日と髪を揺らす風だけが世界の全てになった。
 
はてこれから何が起こるのだろうか。
 
そう思った瞬間。
 
何かが凄まじい勢いで風を切る音と彼女の怒声にも似た掛け声が、ほぼ同時に聞こえた。
 
ヤバイっ、と思った瞬間にはもう手遅れだった。
 
 
「さくらびーんたぁっ!」
 
 
ばっしぃっ!!
 
 
頬に焼けるような痛みが走り、はたかれた(らしき)部分が熱を持つ。
 
脳が激しく揺さ振られたが為に一瞬何が起こったか判らなかったが、言葉から察するに俺はびんたを喰らったのだろう。
 
目を開けて彼我の状態を確認すると、やっぱり俺が喰らったのはびんたの様で。
 
張り終わった姿勢のままこっちを睨み付けてる少女と俺の視線が、それはもう火花が出るくらいの勢いでかち合った。
 
って言うか痛い。
 
 
「……何故に俺が殴られねばならんのだ」
 
「貴方があほな事ばっかり言うからです」
 
「あほってお前―――」
 
「唯はですねぇ! 私と居る時、いっつもあなたの話ばっかりしてるんですよっ!」
 
「俺の話?」
 
「『今日は相沢さんと学食に行ったんだぁ』とか、『一緒に帰ったんだぁ』って」
 
「………」
 
「あなたの話をしている時が一番楽しそうなんですよ? あの娘」
 
 
唯が……俺の事を。
 
 
「さっき何か『俺と居たら唯は不幸になる』とかあほな事言ってたけど、あなたが避けてる所為で唯は今泣いてるんですよっ」
 
「そんなもん……すぐ忘れるさ」
 
 
そう。
 
俺の事なんか、すぐに忘れる。
 
忘れてしまえるもんなんだ、人間ってのは。
 
時間が埋めた俺の穴の上に、新たな『何か』が建設される。
 
人はそうして生きていく。
 
唯にはまだ見えてないだけだ。
 
俺の居ない世界に在る、俺と一緒に居る時よりも楽しい世界が。
 
そしてそれに気付いた時。
 
俺は。
 
唯の中に居る俺は。
 
風葬と云う形を持って完全なる死を向かえる。
 
それが、望みはしないが望まなくてはならない、今の俺の願い。
 
 
「今、すぐ忘れる、って言った?」
 
「ああ。 良くて一週間。 それ以上はもう、唯は、俺の事では泣かない」
 
「……バカにしてますか? あの娘の事」
 
「バカになんかっ―――」
 
「じゃあっ! あの娘は、そんなに軽い気持ちであなたと一緒に居たって言うんですかっ!」
 
「………」
 
「答えろ相沢祐一っ! アンタは一週間かそこらで唯の事を忘れられるのかっ! その程度にしかあの娘を必要としてなかったのかっ!」
 
 
違う。
 
忘れられる訳が無い。
 
忘れられる訳が無いんだ。
 
一週間。
 
一ヶ月。
 
一年。
 
どれだけ時間が経ったって、どんなにあいつが俺を嫌ったって。
 
例え世界がそれを赦さなくたって、誰が忘れられるものか。
 
初めて隣りを歩いてくれたんだ。
 
初めて手を繋いでくれたんだ。
 
この世界の中でただ一人、俺と同じ時間を過ごしてくれたのはあいつだけだったんだ。
 
それを。
 
忘却するくらいならば、死んだ方がマシだとすら思える。
 
 
声が好きだ。
 
指が好きだ。
 
結い髪が好きだ。
 
とぼけた仕草が好きだ。
 
俺を真っ直ぐに見てくれる瞳が好きだ。
 
上がったり下がったり忙しなく動く眉が好きだ。
 
唯が唯で在るその全てが、どうしようもないくらいに、好きだ。
 
 
でも。
 
でもっ!
 
 
朝から何度目かのループに陥る俺の思考。
 
それを見越したかの様に、唯の親友はふと静かな表情を浮かべた。
 
激情に駆られた時とはまた違う、けれどひょっとしたらそれよりも俺の心を揺さ振るような声で。
 
 
「逆恨みした不良が襲ってきたって、別にいいじゃないですか」
 
「よくなんか……ある訳ないだろ」
 
「いいんですよ」
 
「………」
 
「アナタが唯の事を守ってあげれば。 それで、いいんですよ」
 
「……まも、る?」
 
 
俺が。
 
誰かを。
 
守る?
 
 
「アナタが唯から遠ざかれば逆恨みした不良の所為で泣く事はなくなるかもしれないけど。
 そしたら今度は他の誰でもなく、あなた自身が唯の事を泣かせている事になるんですよ?」
 
「………」
 
「あの娘の事、泣かせたいですか?」
 
 
ぶんぶんぶんぶんっ!
 
下を向いて、眩暈が起こるくらい、思いっきり首を横に振る。
 
眼前の少女が、笑ったような気がした。
 
 
「それじゃあ、一緒に居てあげてくださいよ」
 
「……それで、本当にいいと思うのか?」
 
「何はなくとも、このまま唯を避け続ける事、泣かせ続ける事だけは『間違い』だと思いますから」
 
「そっ、か」
 
「はいっ」
 
 
情け無い。
 
まったくもって情け無い。
 
言われるまで気付かなかった
 
ずっと独りだった俺には、『誰かを守る』という当たり前のような感情が抜け落ちていたんだ。
 
『何かを』じゃなくて、その人自身を。
 
大好きだと思える人を。
 
俺がこの手で。
 
 
昨日の夜からずっと頑張ってた。
 
唯なんかいなくたって平気だと、自分自身に言い聞かせていた。
 
だのにこんなにも痛む、心。
 
送れそうにない、毎日。
 
どうあがいたって結局、俺の本心は『唯と一緒に居たい』だった。
 
どんなに嫌いになろうとしても、どんなに避けようとしても、それでも唯の事を気にかけてしまう。
 
泣かせたくなくて距離を置いた。
 
それなのに結局泣かせてしまっている。
 
どちらにせよ唯が涙を流すというのならば、俺は唯の傍にいようと思う。
 
そして、力の限り守り続けようと思う。
 
壊す事しか出来なかったこの力で、今度はあいつを守ってやりたい。
 
離れてる状況じゃ何も出来ないし、何より俺の方が先に壊れてしまう。
 
狂おしいほどの、愛しさ故に。
 
 
「ありがとう、おかげで吹っ切れた」
 
「どういたしましたー」
 
 
屈託の無い笑顔でぴっと陸軍式の敬礼をし、少女が応える。
 
今まで気付かなかったが、ちゃんと見てみると結構可愛い顔立ちをしていた。
 
まったく、こんな事にも気付かないほど俺は動揺してたんだな。
 
 
「そう言えば名前、聞いてなかったな」
 
「私ですか? 私は草薙桜っていーます」
 
「俺は…って、そうか、俺の名前はもう知ってたんだよな」
 
「相沢祐一さんですよね」
 
「上で呼ぶか下で呼ぶかどっちかにしろ。 それに、敬称は要らない」
 
「それじゃ祐一、で。 私も『さくら』でいいですよ」
 
「覚えておくよ。 それじゃ俺は泣き虫姫の所に行ってくる」
 
「唯なら多分、昨日と同じ公園に居ると思います」
 
「サンキュ、じゃあな桜」
 
「いってらっしゃいなっ」
 
 
桜の明るい声に背中を押されて、俺は屋上を飛び出した。
 
階段を一気に駆け下り、廊下も走り抜け、上履きのまま校外に。
 
ぶつかりそうになった人に詫びを入れ、怒声を上げる教師をシカトして。
 
ひたすらに、バカみたいに走り続けた。
 
 
公園で唯に会ったら何て言おうか。
 
とりあえずは、ちゃんと訊いておこう。
 
これからもお前の傍に居てもいいかって。
 
その所為で何かと恐い目に遭わせるかもしれないけど、それでも俺はお前の傍に居たいって。
 
口に出せば何処までも自分勝手な欲望。
 
大好きな人を危険に晒してまで、それでも一緒に居たいと願うワガママな馬鹿。
 
普通なら拒むだろう。
 
誰だって痛いのや恐いのは嫌いだし、進んでそんな目に遭いたいと思う奴も居ないだろう。
 
だから、そんなの嫌だって言われたらそれまでの話。
 
俺は決意した通り、二度と唯に付きまとう事はないだろう。
 
でも。
 
もし、唯が一緒に居る事を認めてくれたら。
 
こんな俺と、まだ一緒に居たいと思ってくれたのなら。
 
その時は。
 
 
一緒に居よう。
 
誰に呆れられても、少なくともお前が飽きるまでは、ずっと一緒に居よう。
 
まだガキだけど。
 
将来も、世の中も、何一つ『本当の事』なんて判ってないかもしれないけど。
 
それでも今、離れたくないっていう気持ちだけは嘘じゃないから。
 
唯の事が大好きだって、やっと気付いたから。
 
 
だから
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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桜の言葉通り、俺達が初めて出会った公園に唯は居た。
 
誰も居ないベンチにたった一人で座っている。
 
俯く、表情は見えない。
 
普段から小さい身体を屈めているため、いつもより更に小さく見えた。
 
身動き一つなく。
 
景色を見るでもなく。
 
ただ一途に『誰か』を待っている。
 
遠くから見た唯の姿に、俺はそんな印象を受けた。
 
 
待ち合わせ。
 
木のベンチ。
 
小さな少女。
 
 
痛みを感じる寸前。
 
瞬間的に感じた。
 
『来る』、と。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちゃんと待ってたんだな
 
約束だったから……
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
脳裏を過る『いつか』の光景。
 
それは昨日とほぼ同じ衝動だった。
 
ベンチに座る小さな女の子。
 
俺が来た事を見つけて、笑顔で手を振る。
 
酷く不鮮明な世界の中、そんな光景が見えたような気がした。
 
雑音【ノイズ】だらけの記憶。
 
思い出せない不快感。
 
いつもなら深く追求するところだったが、今はこんな煩わしいものに構っている暇なんか無かった。
 
『お前』なんて必要無い。
 
邪魔をするな!
 
 
深く呼吸をして自分を落ち着かせる。
 
明らかに走ってきた所為だけじゃなく、呼吸が乱れていた。
 
鼓動も速い。
 
緊張、とでも言えば今の状態を表現できるのだろうか。
 
今更ながらまったくもって情け無い自分の度胸の無さに、歯噛みするよりも薄い笑みが零れた。
 
どうにかして切っ掛けを見つけようと周りを見回して、俺は遥か遠くに自販機を見つけた。
 
それは確か、唯の好きな『あれ』を売っている自販機。
 
走ってその自販機の傍に行き、種類を確認する。
 
案の定と言うか何と言うか、この暑い最中に売り切れる事もなく、プリンシェイクはそこに在った。
 
昨日と違って、一本だけ。
 
別にご機嫌取りとかの意味は無く、俺はソイツを購入した。
 
「ガコン」と云う音が、俺の内奥にも響いた気がした。
 
 
急ぎ足で唯の座っているベンチに向かう。
 
自販機の位置からだとちょうど真後ろから唯に話し掛ける事になるため、すぐ傍まで行っても気付かれる事は無かった。
 
唯が鈍い所為もあるし、俺が気配を殺しながら近付いた所為もある。
 
背後に立ってはみたもののどう話し掛けたらいいか判らなかったので、俺は悪戯っぽくその頬に冷たい缶を押し付けてやった。
 
 
「ひやっ!」
 
 
びくっと飛び跳ね、小さく悲鳴をあげ、悪戯の主の方を見上げる。
 
そして、視線がぶつかり合う。
 
たった一日しか離れていなかったのに、凄く懐かしい気がした。
 
 
「あ、相沢さん?」
 
「やる」
 
「ど、どうも……」
 
 
プリンシェイクを唯に渡し、俺はその横に座る。
 
カシッと缶を開ける音が辺りに響き、それ以外には二人の間に音は無かった。
 
今までとは違う、気まずい静寂。
 
創り出してしまったのが俺ならば、やはり先に話し出すのは俺じゃなくてはいけないだろう。
 
真っ赤な目をした唯を見たら、その決意は尚更になった。
 
 
「なぁ」
 
「……はい」
 
「昨日、恐かったか?」
 
「きの、う?」
 
「不良に、変な二人組みにからまれた時だ」
 
「……はい」
 
「そっか」
 
「……はい」
 
「あいつ等は俺に恨みがあった。 だからお前を狙ったんだ。 俺達はずっとずっと、一緒に居たからな」
 
「………」
 
「お前は何も悪くない。 何も悪くないのに、俺と一緒に居るってだけであんな目に遭ったんだ。 それは多分、これからもあるかもしれない」
 
「そう、なんですか?」
 
「俺は嫌だ。 お前が笑っててくれないと嫌だ。 俺の所為でお前が狙われるなんて嫌だ」
 
「………」
 
「言ってくれよ唯。 そんなの迷惑だから、二度と近寄るなって」
 
「め、迷惑だなんて、そんな」
 
「じゃないとダメなんだ。 はっきり否定されないとダメなんだ。 俺は、馬鹿だから……
 馬鹿で、馬鹿で、どうしようもないから。 迷惑かけるって判ってても、それでも唯の傍に居たいだなんて、思っちまうから……」
 
 
凪ぎの時間。
 
とても静かな空気が流れていた。
 
どこからか烏の泣き声が聞こえてくる。
 
空はまた、赤く染まり始めている。
 
手持ち無沙汰な俺。
 
プリンシェイクの缶を持ったまま動かない唯。
 
お互いに無言の時間はそれほど長くもなかったのかも知れない。
 
時間にすれば、恐らくは一分にも満たない。
 
それでも今の俺にとって、その一分は途方も無いほど長く感じられた。
 
長い長い沈黙の後。
 
一つ、二つと呼吸をする音が聞こえてから。
 
唯が、ゆっくりと言葉を口にした。
 
 
「わたし、今日一日ずっと考えてたんです」
 
「………」
 
「なにか悪い事したのかなぁって。 わたし、なにか相沢さんに嫌われるような事しちゃったのかなぁって」
 
「そんなんじゃない。 お前は何も―――」
 
「そ、それでですね、いまっ、あいざわひゃんからのお話を聞いてですねっ、それ、でっ」
 
「唯?」
 
「わたし、嫌われてなかったんだなぁってっ、思ってっ……うれしくて、ですねっ、ほんろにっ、うれひくっ、て」
 
 
ボロボロと涙を流しながら話す。
 
殆ど言葉にすらなってない。
 
嗚咽に言葉を遮られ、それでも必死になって言の葉を紡ぐ。
 
その表情は、泣いてはいなかった。
 
笑ってた。
 
唯は、笑顔だった。
 
 
「な、なーんで泣いてるんでしょうねぇ……うれひいのに…相沢さんに嫌われてないって、わかって、うれひっ、のにっ」
 
「ああ、まったくだ……何で泣いてんだよ、お前は」
 
「わたしはですね、わらひはれすねっ」
 
「うん」
 
「どんなにっ、恐い目に遭ったってっ、相沢さんと一緒が……いっしょがいいですっ」
 
「うん」
 
「相沢さんが居なくなって……それで平和になったって……そんなのいりませんよぅっ」
 
「……うん」
 
「そんなのちっとも楽しくないですっ……相沢さんがそばにいてくれなきゃ、なんにも、ぜんぜん、たのしくないんですよぅ……」
 
 
そう言ってまた泣く。
 
正確には泣き笑い。
 
俺の制服の袖を握りながら、ぽろぽろと。
 
涙は頬を伝い、俺の服を濡らす。
 
俺の心までをも、潤す。
 
小さくて。
 
泣き虫で。
 
大好きな、唯。
 
 
気付けば俺は、小さな子供にそうする様に。
 
未だ泣きじゃくっている唯の頭をゆっくりと撫でていた。
 
それに安心したのか、唯も俺に身を任せてくる。
 
負荷と言うには余りにも軽い。
 
負荷と呼ぶには、余りにも愛しい。
 
 
「もう、どこにも行かないですよね……」
 
 
鈴の音が鳴る。
 
消え入りそうな声が、胸の中からりんと鳴る。
 
不安を帯びて。
 
期待を篭めて。
 
ほらまた一つ、りんと鳴る。
 
 
絶対の保証は無い。
 
ガキの俺には、まだまだ不確定要素が多すぎる。
 
この先にはどんな事が待ち構えているのか。
 
それを思えば、軽々しく『絶対』なんて言葉は口に出せない。
 
安易に約束なんか出来ない。
 
けど。
 
 
「俺の出来る限りは、何処にも行かない。 ずっと一緒にいる。 ずっと一緒にいような、唯」
 
 
卑怯だと言われるかもしれない。
 
だけど俺にとっては最大限の決意。
 
簡単に言ったんじゃない、『ずっと』の言葉。
 
篭められた意思に気付いたのか、言葉自体に納得してくれたのか。
 
俺の胸から顔を上げた唯は、何だか判らないけど最高の笑顔を見せてくれた。
 
 
「そばに、ずっと傍にいてくださいね」
 
「おうっ」
 
 
俺がそう答えると、またも唯は涙を流した。
 
さらりと、一雫。
 
それを道として、後から後から沸いてくる涙。
 
何が起こったか判らない俺は、それはもう阿呆みたいに焦った。
 
 
「ど、どうした? 俺はまた何か泣かせるような事を言っちまったか?」
 
「違うんです、違うんですよぅ」
 
 
困ったように手をぱたぱたと振る唯。
 
ごしごしと目頭を擦りながら、止まらない涙に苦戦しながら。
 
やっぱり泣き笑いの表情で。
 
 
「嬉しいんです。 ずっと一緒に居てくれるって相沢さんが言ってくれたのが……うれしいん、です」
 
「そ、か」
 
 
悲しくて泣いてるのではないとの事に、俺も安心する。
 
それと同時に、自分が言った事に対して少し照れくさくなってきた。
 
自分の気持ちに偽りはないが、真顔で『ずっと一緒に居る』なんて言ってしまった。
 
年齢が年齢ならプロポーズの言葉だ。
 
ぷ、ぷろぽーずだと?
 
専門職の坊主の事かっ。
 
 
「どうしたんですか? 相沢さん」
 
「ん、あ、いや、なんでもない。 それよりも早く飲んじまえよ、それ」
 
「あっ、そうですよね。 いただきますっ」
 
 
こんな時、素直に話題転換に従ってくれる唯はとてもいい奴だと思う。
 
プリンシェイクを飲む、横顔。
 
幸せそうに緩む。
 
こんな時の表情は、本当に幼いと思う。
 
本当に、可愛いと思う。
 
 
「相沢さん?」
 
「ん? どした?」
 
「このプリンシェイク、しょっぱいです」
 
「アホ、そりゃお前の涙だ。 っとに、泣きながら飲んだって美味しくないだろ?」
 
「あ、あはは、そうですよね」
 
「ああ―――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しょっぱい……
 
それはお前の涙の味だ
 
でも……おいしい
 
そっか、それはよかった
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「………」
 
「相沢さん?」
 
「……っち」
 
「ど、どうしたんですか?」
 
「う? あ、いや、え?」
 
「いきなりすんごい恐い顔してました。 どこか痛いんですか?」
 
「大丈夫。 なんでもないよ」
 
「そう、ですか?」
 
 
訝しげな表情をしながらも、それ以上の追求は無駄だと判断したのだろう。
 
唯は再びプリンシェイクを飲み始めた。
 
瞬時に綻ぶ顔に、俺もまた笑顔になりつつ。
 
しかし内心では決して穏やかとは言えぬ表情で。
 
俺は昨日から立て続けに自分を襲う謎の存在について、必死で思いを廻らせていた。
 
何が目的か、と。
 
断片的な記憶。
 
手探りで進もうとすれば自身を苛む、苦痛と不快感。
 
思い起こさせたいのか、閉じ込めておきたいのか。
 
意図がはっきりと判らないだけに腹が立った。
 
いっそ完全に無視する事が出来れば楽なのだろう。
 
だがいくら不快になろうと苛立とうと、それだけは決してやってはいけない事のような気がするのもまた事実だった。
 
完全に忘却しちゃいけない。
 
それは、『何か』に対する罪悪感。
 
罪を重ねる事への本能的な拒絶。
 
どうやら俺が忘れている『何か』は、いつかは思い出さなくていけない事らしい。
 
 
でもな。
 
今は『お前』の出てくる余地はない。
 
今の俺に『お前』は必要ないんだ。
 
 
「ふんぬっ!」
 
「うひぁっ」
 
 
唯が驚くほどの勢いでベンチから立ち上がる。
 
頭の中にかかっていた靄を振り払うように。
 
心奥に巣食う『誰か』に言い聞かせるように。
 
そして、呆気に取られた様子で未だベンチに座っている唯に手を差し出す。
 
 
「帰るか、唯」
 
「あ……はいっ」
 
 
今は、他に何も要らない。
 
すぐ傍に居てくれるこいつの笑顔だけで、充分だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued . . . . .