『あの日』から、もう何日が過ぎただろうか。
 
どれだけ時間が経っても何も考えられず、どんなに時が過ぎても何も考えたくなくて。
 
俺はその日も、朝からずっと屋上に居た。
 
 
本当は学校にも来たくは無かった。
 
許される事ならば、外界からの全てを遮断した暗闇の中で膝を抱えていたかった。
 
でも。
 
ひょっとしたら教室に行けば唯が居るんじゃないかと思って。
 
今までのは全部性質の悪い冗談で、教室にさえ行けば何事も無かったかの様に唯が笑ってるんじゃないかと思って。
 
僅かな願いを込めて教室の扉を開けた時、そこに待っていたのは、俺が望んでいた唯の笑顔なんかじゃなかった。
 
嘲り、蔑む、冷たい視線。
 
原型を留めないほどに引き裂かれた教科書やノート。
 
俺の机があった場所に散乱している、『何か』
 
不特定多数の中に紛れ込んだ人間の本性は、何所までも残酷に、俺と云う存在を全否定した。
 
それは比喩表現でも誇張でもなく、本当に全てを。
 
奴等は、否定した。
 
 
教室と言う場において、机と椅子と言う物は既にそれ単体での意味を飛び越えている。
 
それは明確に暗示された、一人の人間の『居場所』だった。
 
『それ』が無い者は教室に、いや、学校に居る事を許されない。
 
なんて滑稽な話だろうか。
 
ついこの間までは学校に居場所なんか求めていなかったはずなのに。
 
『あんな奴等』と群衆を蔑んで、群れる事に嫌悪感を感じていたはずなのに。
 
今は、学校に居場所が無いという事実がこんなにも胸を掻き毟る。
 
裂けるほど深く、この胸を抉る。
 
 
屋上に吹く風は、こんな時でも優しく俺を包んでくれた。
 
唯が傍で笑っていてくれた『あの頃』と、何も変わらない優しさで。
 
だが、今はそんな優しい風ですら俺の心を切り刻んでいった。
 
『あの頃』と変わらないから、唯が居た頃と何も変わらないから。
 
余計に優しく、余計に痛んだ。
 
それは、精神【ココロ】が原形【カタチ】を留めて置けないほどに。
 
 
実際には無い筈のその痛みに耐えられず、俺は抗う様に屋上に廻らされたフェンスを強く握った。
 
緑色にコーティングされた針金が掌に食い込み、ギシっと鳴く。
 
その時、不意に後ろの方で鉄製の扉が開く重い音がし、一人分の軽い足音がした。
 
学校指定の中履きが鳴らす、ぺたぺたと安っぽい音。
 
生徒立ち入り禁止の看板なんてモノは無視しようと思えば簡単に無視できる程度のものなので、別に人が来る事は何ら不思議な事ではない。
 
故に、俺はその侵入者を無視した。
 
そうじゃなくても今の俺は、『誰か』の存在を気に掛けていられるような状況じゃなかった。
 
何も要らない。
 
誰の声も欲しくない。
 
例えそれが―――
 
 
「ゆーいち」
 
 
桜。
 
お前の声でも、だ。
 
  
唯が消えてしまった『あの日』から。
 
『奴等』の身体を全てただの肉の塊に変えた日から。
 
隠したつもりでも隠しきれぬ『罪』が嗅ぎつけられ、俺が皆に奇異の目で見られるようになってから。
 
俺は、ずっと桜を避け続けていた。
 
咎人と一緒にいる事は、既にそれ自体が一つの『悪』として成り立つまでになっている。
 
近付くだけで疎まれ、その場に居なくても中傷される。
 
集団に埋もれ、匿名性を笠に着た残酷。
 
やっている奴等は自分達を『正義』だと思っているから、その行為には遠慮と云うものが無かった。
 
今ならきっと笑いながら俺を殺す事も出来るだろうし、それを『正しい事』として誇りに思う事すら出来るだろう。
 
 
そんな人間の負の部分に、どうして桜を巻き込めるだろうか。
 
そうじゃなくても、桜は周囲から『俺の友達だった奴』と云う目で見られているのだ。
 
だから、尚更。
 
俺との関係を、『事件』を切っ掛けに断ち切った事にすれば。
 
皆と同じように俺の事を、二重の意味で『人殺し』だと言って罵れば。
 
少なくとも桜が俺と同類に見られる事は無くなるだろう。
 
言われ無き中傷を被る事は無くなり、それどころか俺を公然と責める権利を持った唯一の人間となれる。
 
『あっち側』に、行ける。
 
だが、親友の身を案じての思考すら、今の俺には建て前でしかなかった。
 
 
「ね、祐一ってば。 無視しないでよ」
 
 
語り掛ける桜の口調は、あくまで明るい。
 
傷を隠す為か、俺に気を使ってか。
 
どちらにせよ、その明るさが、今は痛かった。
 
 
「……失せろ」
 
「ヤだよ、私は祐一の親友だもん」
 
「……失せろってんだよ」
 
「ヤです」
 
 
自分でも判るほど冷たい反応に、しかしあくまで桜は引こうとしなかった。
 
一言一句に篭る、不退転の意思。
 
一足毎に強く響く声に振り向きこそしなかったものの、確実に俺と桜の距離が縮まっている事だけは背中越しにでも判った。
 
 
「何でそこまで避けるの? 私の事嫌いになった?」
 
「もう……誰かと深く関わるのは御免だ」
 
 
桜を避け続けた本当の理由。
 
それは、俺の所為で桜が周りに疎まれるからとか云った殊勝なものではなかった。
 
もっと自分勝手に、もっと卑怯に。
 
ただ純粋に、痛いのが嫌だった。
 
失うのが嫌だった。
 
得る事が失う事の始まりだと言うのならば、俺はもう何も要らない。
 
二度と何も欲しない。
 
誰をも愛しいだなんて思わない。
 
例えそれが桜でも………もう、誰かと心を重ねるのは嫌だ。
 
 
「そんな事……言わないでよ」
  
「独りならもう、誰かを失って傷つく事も無い」
 
「そんな事言わないでよっ!」
 
「……桜?」
 
 
突然の叫びに、思わず振り向く。
 
その先に展開している光景が、どういうものかを予感しながら。
 
 
「あたしが……」
 
「………」
 
「あたしがいるじゃんかぁ………」
 
 
桜が泣いていた。
 
大きな瞳から涙をぽろぽろと流して。
 
そして、それを拭おうともしないで。
 
真正面から俺を睨むように。
 
強い眼差しに宿る光だけは決して失わずに。
 
 
桜を泣かせているのが俺の言葉だというのは判っていた。
 
当然だ、他の理由など何も無い。
 
俺が泣かせているのだ。
 
親友の桜を、泣き顔なんか見たくないと思っていた桜の笑顔を、俺が壊した。
 
ずっと大切にしていたモノが、いとも簡単に崩れていく。
 
次から次へと、音を立てて。
 
だがそれでも、俺の心は桜を受け入れようとはしなかった。
 
 
誰かを大切に思う事。
 
それは心を暖めてくれると同時に、大きな枷を自らに与えた。
 
大好きな人を大切に思えば思うほど、温もりは大きく、枷は重く。
 
そして暖かさに埋もれていた枷は、大切な人を失った時に初めて笑うのだ。
 
大きな口を開けて、酷く見下げ果てたような口振りで。
 
『幸せは所詮泡沫だ』と、醜く嘲笑うのだ。
 
今までの思い出が、笑顔が、その人の全てが。
 
抗い様の無い悲しみとなって訪れる。
 
大切な思いと同等に、時にはそれ以上に強く、大きく。
 
 
「消えるんだよ……」
 
「消え、る?」
 
「みんな消えていくんだ。 楽しかった事も。 嬉しかった事も」
 
「ゆうい―――」
 
「笑顔も! 泣き顔も! 歌声も! 手をつないだ感触も隣に居てくれた嬉しさも唯の全てが消えっ、て……」
 
 
俺の中で唯が『思い出』になっていく。
 
さらさらと指の隙間から零れ落ちていく一握の砂の様に、形を失っていく。
 
一緒に観た映画を語った時間も、俺の名前を呼んでくれた幼声も。
 
いつも隣りでひよひよと揺れていた結い髪も、見上げられる形でしか見る事のなかった笑顔も。
 
全てが『過去』になってしまう。
 
そして思い出になっていく記憶は、幾度も幾度も俺に『唯が居ない』事を認識させるのだ。
 
どこにも居ない。
 
この世の中の何処を探しても、唯にはもう二度と会えない。
 
覆せない事実は鋭利な鍵爪となり、判っているつもりで何処か逃げようとしていた俺の心を決して逃がそうとはしなかった。
 
 
『ユイハモウイナイ』
 
 
悲しみが俺を包み込む。
 
目頭が熱い。
 
『涙』の気配を瞬間的に感じ、フェンスの方に向き直り、空を見上げる。
 
そうする事で、俺は必死に泣く事を拒んだ。
 
男だからとか、桜の前だからとか、そういう理由じゃない。
 
ただ、一度泣いてしまったら。
 
もう二度と、泣き止む事ができない気がした。
 
もう二度と立ち上がれないような気がした。
 
 
今まで。
 
二年前の『あの日』まで、ずっと独りで生きてきたはずだった。
 
朝起きても、リビングに行っても、外出しても、夜になっても。
 
俺は独りだった。
 
独りには慣れていたはずだった。
 
寂しいだとか哀しいだとかは思わなかった。
 
だってそれが『普通』だったから。
 
気がつけば俺の周りには誰もいなくて、誰もが俺を嫌っていて、だから俺もそれが普通だと思っていた。
 
世界には、彩【イロ】なんて無いと思っていた。
 
 
だけど、俺は出会った。
 
本当は『出会った』だなんて劇的なもんじゃなく、もっと陳腐でそれ以下を探すのが難しいくらい最悪な初対面だったんだけど。
 
返り血を浴びた俺と。
 
勘違いまっしぐらの唯が。
 
桜花咲く公園で。
 
それでも確かに、二人は出会ったんだ。
 
 
思えばあの日からなんだろう。
 
俺を形作(ツク)る全てが変わった。
 
変える事ができた。
 
自然に笑えるようになったんだ。
 
喧嘩もしなくなった。
 
桜という友達だってできた。
 
世界に彩がある事にも気付いた。
 
人と話して、笑いあう事が楽しかった。
 
初めて、生まれて初めて本当に人を好きになる事ができた。
 
誰かに問われたって、胸張って言えるくらい。
 
気恥ずかしくて互いに気持ちを口に出せず、それでも俺たちはずっと一緒にいる事ができた。
 
何時までも笑っている事が出来るような気がしてたんだ。
 
当たり前の日常が当たり前に過ぎていく事に、疑問なんて感じなかった。
 
いつだって二人は一緒だったから。
 
二人でいれば、それだけで楽しかった。
 
唯が笑ってくれるだけで、それだけで俺達は無敵だったんだ。
 
きっとこんな毎日が、ずっとずっと続いていくと、本気でそう思っていた。
 
 
いつかは崩れる砂山を、必死になって作り続けているだなんて思わなかった。
 
 
二人過ごしたあの日々が。
 
こんなにもあっけなく壊れるだなんて。
 
思っても。
 
みなかったんだ。
 
 
空を向き続ける背中に、不意に誰かの体温を感じた。
 
誰かと言っても屋上には俺と桜以外には誰もいない。
 
疑う余地もなく、背中に感じている体温は桜の物だった。
 
まるで俺が何処かに行ってしまうのを必死に繋ぎ止めるかの様に。
 
強く、優しく、ぎゅっと。
 
ぎゅっと。
 
いきなりの感触に戸惑いながらも俺は振り向けずに、ただ少し震える声を返す事しかできなかった。
 
 
「……離せ」
 
 
聞こえたかどうかも判らないほど、脆弱な唇の震え。
 
これ以上喉を揺らせばその弾みで涙が零れる。
 
これ以上口を開けばその弾みで涙が溢れる。
 
泣くな。
 
泣くな相沢祐一。
 
涙を流す資格なんかお前には無い。
 
唯が居なくなったのはお前の所為だ。
 
お前の所為だ。
 
お前の所為だ!
 
唯が消えてしまったのだって消えてしまったのだって消えてしまったのだって―――
 
 
「私は、消えないよ?」
 
「っ――――」
 
 
声が、した
 
 
「祐一が望むなら……ずっと傍に居てあげる」
 
 
ぽつりぽつりと紡がれる、途方もない救い
 
 
「そりゃ……そりゃさ、私はこんなんだから、あんまし可愛くないから、何をどうしたって唯の代わりにはなれないかも知れないけど………」
 
 
ぎこちなく、たどたどしく、それ故に暖かく
 
 
「それでもっ。 それでも、祐一が傍に居て欲しいって時は、いつだって傍に居てあげるよ?」
 
 
赦しを
 
 
「春だって、夏だって、秋だって、冬だって」
 
 
願いを
 
 
「ねぇ。 私がさ、祐一の『居場所』になってあげるよ」
 
 
祈りを
 
 
「だからさ……泣いたって良いんだよ?」
 
 
そして、背中の体温が離れた。
 
温もりの喪失に恐怖を覚えて振り向いた先には、全くの笑顔が在った。
 
一歩の距離を後ろに下がった桜は、場違いなほど穏やかな風に吹かれながら。
 
自分の胸の前に両手を重ね。
 
涙一滴、零れ落ちる、だけど、笑顔。
 
その姿は何か大切なモノを守っているかの様に強く、果てしなく綺麗だった。
 
 
「女の娘の胸ってね、人を安心させられるんだって」
 
「何が……言いたい……」
 
 
精一杯強がって、言葉にもならない声を発する。
 
だが、その我慢は既に限界だった。
 
例えるならば、脆い堤防。
 
針の穴一つでも開いたならばすぐに決壊してしまうような脆さを持ったダム。
 
唇を強く噛むが、涙を堪える事ができない。
 
目の前の景色が歪んでいく。
 
涙に、抗う事が、出来ない。
  
 
「あんまりおっきく無いけどさ、今だけ貸してあげる」
 
「………思いっきり、なく、ぞ……」
 
「いいよ。 いつまでだって、泣いていいよ。 私はここに居るから。 ずっとずっと、私は消えないから」
 
 
いっそ罵倒された方が格好をつけられた。
 
唯が居なくなったのはアンタの所為だって、親友からの言葉を突き付けられた方が楽だった。
 
全ての責任を背負った気になって、傷付けばそれで赦された様な気になって、そうして悲劇の主役を演じる事もできた。
 
だが、桜はそれを許してはくれなかった。
 
あくまで優しく。
 
そして緩やかに。
 
俺の心を裸にした。
 
本当は誰よりも弱く、脆い俺の心を。
 
 
悲しかった
 
悔しかった
 
だって、だってそんなのってないだろ?
 
アイツはとんでもなく良い奴だったんだ
 
とんでもなく小さくて、とんでもなく可愛かったんだ
 
柔らかくて、暖かくて、それなのに何で
 
ウソだって
 
ウソだって言えよ
 
まだ、やってない事、いっぱいあって
 
一緒に行こうって、まだ、いってないとこ、いっぱい
 
だってそれなのに、もう、死
 
ついこないだまで笑ってたのに
 
生きてたのに
 
なのに何で
 
何で唯が
 
何で
 
何で何で
 
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでっ!
 
 
「う、く……ふっ………うぅ……うあぁぁ――――――――――!」
 
 
もう止まらなかった。
 
小さな振動から引き起こされる雪崩のごとく、涙は嗚咽を、嗚咽はさらに悲しみを。
 
無限連鎖の中、俺は桜の胸に飛び込み、思い切り泣いた。
 
本当は、俺よりも桜の方が辛い筈だ。
 
俺と出会う前から、桜と唯は親友だったのだから。
 
俺よりも長い間、唯と共に生きてきたのだから。
 
それでも桜は前を向いている。
 
そして今、俺を包んでいる。
 
どうしようもなく自分が情けない気がした。
 
本当は俺が桜の悲しみを包んであげなくてはならない筈なのに。
 
だがそれでも、俺の涙は止まる事がなかった。
 
 
「なんっ、唯が……なんでっ! だ、だって俺っ、まだ……まだ一回もちゃんっ、とっ、す、好きだって言ってなっ、て」
  
「大丈夫だよ。 あの娘はちゃんと判ってる。 祐一の気持ちなんて、口に出さなくったって判ってるからさ」
 
 
なぁ唯
 
頼むから、もう一回俺の横で笑ってくれよ
 
声を聞かせてくれよ
  
そのためなら何でもするから
 
俺が悪かったなら謝るから
 
もう二度と泣かせたりしないから
 
なぁ、お願いだから
 
 
「いっしょに居ようっていっ、言ったのに! なのに、あえないって! もう、も、ぅ、どこにもいなっ、あえないってっ!」
 
「一緒にいようよ、祐一。 ずーっと一緒にいよう? ね。 独りになんかしないよ。 大丈夫だから。 私がいるから。 祐一は独りじゃないからさ」
 
 
約束をしよう?
 
きっと。
 
ずっと。
 
二人、いつまでも離れないように。
 
ねぇ、祐一。
 
ずーっと、一緒に生きていこうよ。
 
楽しい時には一緒に笑ってさ。
 
そんで、悲しい時には一緒に泣いて。
 
「また明日」って言って別れて、次の日にも当たり前に「おはよう」って言って。
 
そうやって代わり映えのしない毎日をさ、「退屈だな」って言いながら、平凡に生きていこうよ。
 
もう何かに脅えなくてもいいから。
 
独りで泣いたりなんて、絶対にさせないからさぁ……
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 
 
 
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「ねぇ、祐一」
 
 
頭の上から、声が響く。
 
幾分か落ち着きを取り戻した俺は、桜の胸から顔を離した。
 
客観的に見たら結構情けない格好だったんだろうな、とか思いながら。
 
そうは言うものの、そんな事を考える余裕が取り戻されたのかとも思い、苦笑した。
 
 
「祐一、家で自殺しようとしたんだって?」
 
「なっ!!」
 
「祐一のお父さんから聞いた」
 
「何で親父が桜の電話番号なんて知ってるんだよ……」
 
「調べたって言ってたよ?」
 
 
わが親父ながら、無駄な所に力を注ぐ奴だと思った。
 
俺が自殺しようとした事なんて桜に知らせたら、それこそ余計な心配を掛ける事になるだろう。
 
出来るなら隠しておきたかったのに。
 
 
「それってホント?」
 
「ああ………本当だ」
 
 
あそこで親父が入ってこなかったら確実に俺は死んでいただろう。
 
未遂で終わらせる気はなかった。
 
あの時は本当に、死んでも良いと思っていたから。
 
死ねばもう一度、唯に逢う事が出来ると思っていたから。
 
 
「祐一が死んだら……どうなると思う?」
 
 
桜の表情が険しい。
 
疑う余地もなく怒っている。
 
 
「俺が死んだら……?」
 
「そうだよ」
 
「日本の総人口が一人分減る。 それだけだ」
 
「怒るよ!」
 
 
もう怒っている。
 
とは言えなかった。
 
 
「いい? 祐一が死んだらねぇ……祐一が死んだら………」
 
「桜?」
 
「祐一が死んだら……あたしが悲しむんだよばかぁ!」
 
 
目は完璧に怒っている。
 
だが、その瞳には涙が溜まっていた。
 
両手で制服の端を強く掴み、眉根を寄せ、顔中に不満の色を滲ませながら。
 
 
「今度自殺なんかしようとしたら、絶対に許さないから!」
 
「………」
 
「さっき『祐一の居場所になってあげる』って言ったけどさ。 あれ、半分は自分の為なんだよ」
 
「自分の為?」
 
「いつの間にかね、祐一が私の『居場所』になってたんだ……」
 
「俺が……桜の居場所に?」
 
「ん。 祐一は気付いてないかも知れないけど、祐一と一緒に居る時ってすっごく楽しかったんだよ」
 
「……そっか」
 
「それなのにさ……唯が居なくなっちゃって……その上祐一にまで居なくなられちゃったら私はどうすればいいの?」
 
「………ごめん」
 
「謝るくらいなら約束して。 もう絶対に、勝手に居なくなろうとしたりしないって」
 
「判った……頑張る」
 
「約束だよ?」
 
「ああ、約束だ」
 
「ね、ゆびきりしよ。 嘘ついたら針1000飲ますんだから」
 
「ゆ…び……」
 
 
 
 
  
 
 
ゆーびきーりげーんまーん………
 
やくそくだよ
  
ああ、やくそくだ
 
 
 
 
 
 
 
頭に響く、遠い昔の誰かの声。
 
思い違いなんかじゃない、確かに俺は昔誰かと約束をした。
 
何を?
 
俺は一体誰と、何を約束したんだ?
 
 
「ぐっ!」
 
「ちょっ、祐一!?」
 
「頭が……」
 
 
体が拒否している。
 
記憶の引出しに手をかける事を。
 
忘れていた何かを思い出す事を。
 
本能が拒絶するような事なのか?
 
そこまでの事を、俺は忘れているのか?
 
確か前にもこんな感覚を受けた事があった。
 
そうだ、夕焼けを見た時だ。
 
 
赤い世界
 
ゆびきり
 
過去
 
約束
  
 
何がある?
 
俺の過去に、一体何が………
 
 
「祐一っ! 祐一ってばぁ!!」
 
「くっ……はぁっ……はぁっ……」
 
「どうしたの? いきなり苦しみだして……」
 
「大丈夫だ、なんでもない」
 
「でもさぁ!」
 
「心配するな、本当に何でもないから」
 
「……うん……」
 
 
あまり納得していない様子だったが、俺自身にも説明のしようが無いのでどうしようもない。
 
吐き気と頭痛は止む事無く俺を蝕んでいたが、それでも異常を桜に感じさせたくはなかった。
 
必死に耐え、あくまで平然を装う。
 
それで誤魔化せているかどうかは、甚だ謎ではあったが。