「きぃやあぁぁぁぁっ!」
「ほーら唯。 高いたかーい」
「ひっ、ひぅっ、お、降ろしっ、死んじゃうっ?」

錦雲渓の急崖に響き渡る、悲痛な女子中学生の声。
何事かと思って声のした方を見れば、そこに展開されていたのはまぁ何と言うかあまりにも予想通りな光景。
桜に後ろから両脇を抱えられた状態で大悲閣の桧舞台から強制的に下を見下ろさせられている唯は、近年稀に見るぐらいの勢いで泣きまくっていた。
しかしそれでも止めようとせず、むしろ嗜虐心をそそられたかの様な感じで右に左にと唯を振り回している、我が班の班長。
恐るべし、覚醒直後の草薙桜。

「あぁ……せっかくの清水なのに内々陣を拝む事が出来ないなんてそれはあまりに殺生。 殺生ではございませんか坂上田村麻呂殿」
「こっちはこっちで……」

何処となく艶っぽい声を耳にして後ろを振り返れば、彩嶺が本堂に縋り付きながらよよと袖で目尻を拭っていたりした。
ちなみに内々陣とは、「夏の千日詣り」(8月9〜16日)の宵まいりが行われる3日間(8月14・15・16日)だけ特別拝観が許されている秘仏殿である。
別に田村麻呂が内々陣を秘蔵扱いにした訳でもないだろうと思ったが、口に出したら出したでとんでもない反応が返ってきそうなので止めておいた。
少なくとも、寺社仏閣の中においては彩嶺に逆らってはいけない。
下手したら本当に清水の舞台から叩き落されかねない未来を考え、背中に嫌な汗をかきながら、俺は人知れず自分が置かれた状況を呪った。
ひょっとしたらこの班で一番マトモなのは俺か?

「ゆーいちー。 早く助けに来ないと唯が飛んじゃうよー」
「と、飛ばないよっ? 飛べないよっ?」

涙目でぶんぶんと首を振りながら唯が叫ぶ。
落ちついて自分の状態を把握すれば、どうやったって舞台から落ちそうにもない場所にいる事が判っただろう。
そして、自分を抱える桜の腕に込められた、何があっても絶対にこの手を放したりしないと云う感情にも気付いただろう。
だが悲しいかな、完全にパニクった唯にはそれすらも判らないらしかった。
ああ、無情。

「こら祐一っ。 唯が泣いてるのに助けに来ないとはどーゆー事さっ」
「いや泣かせてるのはお前だろ」
「う、うるさいなー。 いいから早く助けに来なさい」
「………やだ」
「祐一?」
「………ヤダ」

何を隠そう、実はこの俺は高所恐怖症なのだ。
本道に昇る階段の途中でさえ後ろを振り返れなかったと云うのに、この上かの有名な『清水の舞台』になんか登れるか。
と、恐らくはその頭に生えているアンテナが受信したのだろう、俺の心の叫びを聞きつけたらしき桜が不意に”にやり”と笑った。
”にっこり”ではなく、”にやり”
その笑顔には明らかに『祐一の弱み握っちゃいました』と書いてあり、俺は本日二度目の嫌な汗を背中に感じた。
ヤバイ。

「ははーん。 さては祐一、怖いんだ」
「なっ! こ、怖くなんかないっ!」
「じゃあこっちおいでよ。 清水に来てこの景色を見ないってのは勿体無いよ?」
「ぐっ……」

引けない。
ここで引いたら負けだ。
頑張れ相沢祐一。
別に飛び降りろって言ってる訳じゃない。
下を覗き込めって言ってる訳でもない。
それにほら、手すりだって付いてるじゃないか。
うん、大丈夫だ。
大丈夫だぞ、俺。

自分に激を飛ばしながら、なるべく平静を装って一歩また一歩と桜達の元へと近付く。
目線は決して下には向けず、ひたすらに青い空と白い雲のみを網膜に焼き付けて―――

がしっ

後ろから抱かれた、と思った時にはもう遅かった。
気が付けば俺の足は宙に浮き、上半身は柵の外に露出し、視界は遥か下の緑しか映してはいなかった。
死ぬ、と本気で思ったのは一体どれだけぶりの事だっただろうか。

「祐一ちゃーん。 高いたかーい」
「う、うわぁぁぁぁぁっ! ば、ばかっ! あぶっ! 手ぇ放せっ! いややっぱ放すなっ!」
「ほぇー……相沢さんがこんなに取り乱してるの、初めて見たかも…」
「だ、ダメなんだって! マジで高いトコは俺、こら桜っ、た、頼むから降ろしてのわぁぁぁぁっ!」

5分後。
警備員のおっさんに怒られた唯が涙目になり、高所恐怖症故に絶叫しまくった俺も涙目になり、俺から報復行為として割と本気のでこピンを入れられた桜も涙目になっていた。
ついでに、内々陣が拝めない悲運を嘆いた彩嶺も涙目になっていた。

どんな班だ。