「……はぐれた」
涙目があまりに恥かしかったので顔を洗う為に別行動を取ったら、ものの五分で桜達とはぐれてしまった清水寺。
小学生でもないので必要以上に慌てふためいたりはしなかったが、見知らぬ土地で独りきりと云うのは流石に心細かった。
逆戻りだけはしない様、とにかく人が居そうな方へとふらふら歩いていくと、何やら朱色の鳥居が見えたりしてきた。
はて仏閣の中に鳥居? と思ったのも束の間。
そー言えば班別自主権のしおりにはしっかりと『清水→地主神社(徒歩)』と書かれていた気がする。
なるほど、あれはこう云う事だったのか。
昔の人はきっと神も仏も分け隔てなく信じていたのだろうと勝手に結論付け、俺は第二の見学先である地主神社へと歩みを進めた。
まるでパチ屋の新装開店みたいだと思うに足るほど、なんだかやたらに立っている旗。
その一つを摘んで文字を読んでみると、そこにはでかでかと『縁結び』と書かれてた。
右を見る。
カップル。
左を見る。
カップル。
ここに至って、俺はようやっと理解した。
何をって、それは勿論、あの日の話し合いで桜と彩峰が自主研修の見学先にこのバブリーな神社を入れた理由を。
恐らくは二人して俺と唯の事をからかいまくろうとしていたのだろうと思うと、班からはぐれた事がこの上ない幸運にも感じられた。
ただ少し、カップル率が異様に高い場所での独り身が辛い事だけは否定できないのだが。
「どこ行ったんだよ……」
元はと云えば勝手に顔を洗いに行った自分が悪いのだが、本人達が目の前に居ないのをいい事にして少しだけ愚痴ってみる。
ぺたしと腰掛けた石造りの手摺りはひんやり気持ち良く、逆説的に今が初夏だと云う事を俺に思い出させた。
せっかくだ、のんびりしよう。
ともすれば孤独に脅えそうな心に言い聞かせる為の様にも思えるその言葉は、意外なほどすんなりと俺の中に納まった。
シャツのボタンを一つ分だけ深く開け、ぼんやりと周囲を見回す。
カップル。
途端に風流を解する心が消え失せ、俺は項垂れながら班の誰かが見つけてくれるのを静かに待つ事を決意した。
じゃないと、何だか判らないけど泣きそうになると思った。
「おひとり?」
「………」
「もしもーし。 おひとりですかー?」
「……え、ぇあ、お、俺?」
「うん。 キミ」
耳慣れない声にいきなり話しかけられて、それの対象が自分だと即座に判る人がいたら、その人は恐らく神かナルシストかどっちかだ。
完全に視界を閉ざした状態で座りこんでいた俺は、突然の呼び掛けに反応を大いに遅らせた。
びっくりして顔を上げて横を見ると、そこに居たのはこれ以上無いんじゃないかってくらい完璧な巫女さん。
オプションで竹箒まで持っている辺り、あまりにイメージ通りで逆に胡散臭いとまで思ってしまった。
「ひとりなん?」
「あー、いや、その―――」
「あかんよー。 縁結びの神さんの前でそないに寂しそうにしとったら」
「さ、寂しそうっ? 俺が?」
思わず素に戻って自分を指差してしまう。
そんな俺を見てくすくす笑いながら、巫女さんはこくんと頷いた。
綺麗な黒髪だ、と思った。
「ちらっと見ただけで、もう放ってはおけないくらい寂しそうやった」
「まいったな……そんなにでしたか」
「どないしたん? キミさえよかったら、おねーさんが相談に乗ったげるけど」
竹箒を石段にそっと立て掛けて、巫女さんがやんわりと俺の横に座る。
今までに出会った事が無い類の美しさに、巫女さんが座った側の半身が思わず固くなってしまった。
白衣の襟元から覗く細い首筋、切れ長の瞳。
驚くほど白い肌に、笑うと浮かぶ控えめなえくぼ。
これが京美人と云うヤツかと納得してしまうほど、巫女さんは綺麗だった。
おそるべし、古都。
「相談なんて、そんな大した事じゃないですよ。 修学旅行で一緒に来てた奴等とはぐれただけです」
「それだけ?」
「ええ、それだけですけども?」
「それだけで、あないに寂しそうな顔するん?」
細く白い首をつと傾けて、下から覗き込む様に俺の顔を見詰める巫女さん。
馴れない上目使いに恥じ入る気持ちも確かに在った筈なのに、気付けばそれ以上の不思議な気持ちが芽生え始めていた。
まだ出会ってから数分しか経っていないけれども。
この人の『空気』は、えらく心地が良い。
「前までなら……別に平気だった筈なんですけどね」
「独りが? それとも、”独りになるの”が?」
「……あえて言うなら両方、ですかね」
望まない場面で望んでもいないのに不意に独りになってしまう瞬間は、日常の中にそれこそ無数に存在する。
例えば移動教室の時だったり、例えば今の様に迷子になったりした時だったり。
あまりに唐突な『消失』は、普通の人ならそんな事を思ったりしないんだろうけど、俺にとっては既に恐怖の域にすら達していた。
言われて初めて気付いた気持ち。
思ってもみなかった感情。
俺はアイツが、アイツ等が居ないと―――寂しいんだな。
「ほな、おねーさんに任しとき?」
「へ?」
「こー見えてもおねーさんは巫女なんよ? 普通の人が拝むよか神さんもゆーこと聞いてくれる思うけど」
「いや、その格好を見りゃ巫女だって事はすぐに判りますけど……神様に一体何を?」
巫女さんの意図する所が判らなくて、素直過ぎる疑問詞をぶつける。
存外に子供っぽい響きになってしまった事は、恐らく気付かれているだろうけど、それでも気にしない事にした。
偶には恥を捨てて身を委ねるのも、悪くない。
それが綺麗な年上の女性なら尚更だ。
「キミが、はやく馴れますようにって」
「……それは独りに? それとも”独りになるの”に?」
「そんなん、どっちにも馴れたらあかん。 馴れてしもたらきっと、今以上に辛いよ?」
「じゃあ……俺は何に馴れればいいんですかね」
独りに馴れても辛い。
独りになる事に馴れても辛い。
なら俺は、どうすればいいのだろうか。
「傍に」
「はい?」
「キミの傍に誰かが居てくれる事に、キミがはやく馴れますように」
そっと眼を閉じ、静かに詠う。
巫女さんがくれたのはすごくありふれた言葉だったけど、それはどんな祝詞よりも確かな祝福を俺にくれた。
弾かれた様に俯いていた顔を上げ、すぐ横に在る澄んだ瞳を見詰める。
それは、予想以上に縋り付く様な目になっていた事だろう。
「疑ったらあかんよ? そんで、たった少しのあいだ離れただけで不安になってもダメ。 それはまだキミが独りに馴れてる証拠」
「何で…そこまで?」
「はやく馴れればいいね。 大丈夫、おねーさんがキミの為に一生懸命お願いしたげるよ」
にっこり笑って、胸の前で手をぎゅっと握る巫女さん。
五月の蒼に呆れるほど可愛いその仕草に、しかし俺はそれとは別の部分に心を揺さ振られてた。
自分の為に祈ってくれる『誰か』が、この世界に居る。
例えそれがたった一時の物にしか過ぎないとしても、俺は確かに喜びを感じていた。
神に仕える女性に向かって言うのもなんだが、それでも。
巫女さん。
俺は今、神様よりも貴女の方にこそ救われています。
「それとも―――」
心を奪われた時間が些か長すぎたか。
はっと我に返った時には、俺の頬は両側から巫女さんの柔らかな掌に包まれていた。
それはもう「はしっ」って感じで。
はてこれはどんな状況かと思う暇もあればこそ、残念ながらその時の俺の思考回路は確実に混乱の一途を辿っていた。
最近はこんなパターンが多すぎると思う。
精進が足りないぞ俺。
いや、そうじゃなく。
「あ、あの? もしもし?」
「―――おねーさんが直接、慰めてあげよっかなー」
迫る唇。
凄く綺麗。
いやいやいやいやっ!
「み、み、巫女さんっ? いやあのその心遣いはひじょーに嬉しいんですが何て言いますか俺にはその所謂―――」
「あや? あたし、自己紹介なんてしたっけか」
「傍から見ればそうとは見えないかもしれないけど同い年で同じクラスの好きな……って、はい?」
「じこしょーかい。 したっけ」
「いえ、してないと思いますけど」
「ほな、なんであたしの名前?」
「巫女さんの?」
「うん」
はて、俺はこの巫女さんの名前なんて呼んだのだろうか。
あまりに動揺しすぎて自分でも何を言ったのかがイマイチ把握できていないのだが。
「みこ。 あたしの名前は苗代御殊(なえしろみこ)言うんよ?」
「あー、えーと、俺の名前は相沢祐一です」
頭をガシガシと掻きながら、遅すぎる自己紹介。
まるで場違いな二人のやり取りは、今はもう想い出の中にしかない『あの日』の学食を俺に思い出させた。
そう、あの時も自己紹介をした後は二人して笑って―――
「ゆういち、か。 うん、ええ名前やね。 よろしゅーっ」
「こ、こちらこ「いたーっ!!」
周囲を憚らぬ、声って言うかもう怒声。
振り返るまでもなく声の主が誰だか判ってしまった俺は、自分が現在置かれている状況を鑑みて愕然とした。
超至近距離に在る、御殊さんの「な、何が起こったんかな?」って云う顔。
そしてその御殊さんの白い腕が俺の両頬をしっかと押さえている体勢。
弁解の余地が欠片も無いくらい、恋愛成就の地主神社本領発揮な光景だった。
ヤバイ、死ぬ。
「ゴメンナサイ御殊さんっ! また逢う日までお元気でっ」
「あ、ちょー?」
「こら祐一っ! 納得なんか多分恐らく絶対にしないけど納得のいく説明をしなさいっ!」
「誤解だ無実だ冤罪だ! 頼むから俺の話しを落ち着いてぬわぁぁ…」
突発的かつ局地的な嵐の後、地主神社境内前にはまた元の穏やかな空気が戻った。
目を点にしたまま祐一と桜の行く方を見続けていた御殊は、それから数秒も経ってからようやく自身を取り戻した。
振り払われた時のまま伸ばしていた手をゆっくりと下げ、軽く溜息を一つ。
彼女、居ったんやね
出会ってから30分も経っていないのに、これも失恋と呼ぶのだろうか。
御殊はそんな事を考えながら、立て掛けてあった竹箒を拾い上げた。
手放す事によって『巫女』である自分を忘れた様な気になれた竹箒を、もう一度。
それは、恋と呼ぶにはあまりに短かった白昼夢との決別を意味していた。
「あーあ、神さんは不公平やわー。 あたしもいー恋、したいのに」
「御殊ーっ! まーたお前は境内の掃除サボりよってからに!」
「はぅぅ…不公平やわ」
呟いた御殊の言の葉は、次から次へと押し寄せる恋愛成就の願いに押されて、虚空に音も無く消えていった。