「おばんどす」とか「おこしやす」とかの京言葉をプリントしてある紙袋が旅の情緒に拍車をかける、午後五時近くの新京極。
少し下方から俺を見据えて放さない彩嶺の視線には、周囲の喧騒がまるで気にならなくなる程の圧倒的な精神拘束力が付加されていた。
何の変哲もない土産物屋の軒先のはずなのに、種々にざわめく人々の声すらも、もはやただの『音』としてしか認識できない。
全ての存在に対して焦点が結べなくなるような曖昧な世界の中、漆黒と紅の混じり合った濡羽色の瞳だけが、俺を惹きつけて放さなかった。

「何をって……何が?」
「さっき言ってたじゃないですか、『何で彩嶺さんは〜』って」
「だからそれはBOZUが……」
「はぁ……そろそろ気付いた方がいいと思うんですけど……相沢さん、嘘つくのがヘタなんですよ?」
「な、んなっ?」
「もうバレバレ。 ダメダメ嘘つき選手権一等賞。 そんなんで騙せるのはゆんちゃんレベルが限界です」

そんな馬鹿な、と思った。
またまた彩峰さんも悪い冗談を、と思った。
何しろこの俺と云う男には、他人に誇れる長所と云ったものが嘘つきのスキルとジェンガの腕しかない。
なのにその片翼を今ここで切り落としてしまおうと言うのであれば、それは非情にも程があるのではないだろうか。
などと、あまりにも衝撃的だった彩嶺の言葉に乱れがちな思考を強引に断ち切り、ギリギリの状態で理性を現実に繋ぎ止める。
しかし冷静になったところで現状は何一つとして変わらず、依然として俺は彩嶺の視線に晒されて身動きができないままなのであった。

「変なところで言葉を切って、露骨に焦って目を泳がせて。 これ幸いとばかりにBOZUを手にして、ご丁寧に貼り付けたような作り笑い」
「あー、いや、それはだな……」
「あ、いいんですよ? BOZUは私が本当に気に入って買ったんですから、そこはいいんです。 むしろ感謝してます」

そう言って、先ほど購入したマグカップが入っている紙袋を大切そうに抱え込む彩嶺。
その本当に嬉しそうかつ幸せそうな表情に、俺は思わず『そんなにハゲがいいのか』と口に出してしまうところだった。
勿論そんな事を口にした場合、その瞬間に俺の何かがアレな事態になってしまうのは判りきっている。
なので俺は目にした全てを肯定的に捉えると云う対人類用最終コミュニケーションスキルを発動させて、何もかもを有耶無耶にする事にした。
ハゲはいいよな、うん、暗い夜道ではピカピカの頭が役に立つしな。

「断っておきますけど、別に私はハゲ好きって訳じゃないですから」

ほくほくした笑顔から一転、キッとした眼差しで彩嶺が言い放つ。
俺の思考は、物凄い精度で読まれていた。
あれか?
ひょっとして俺は嘘を吐くのが下手なんじゃなくて、単純に思考を読まれやすいのか?

「ん、まぁハゲは置いといてですね。 相沢さんがBOZUに話を振る前に言おうと思っていた本当の所が、私としては気になる訳ですよ」
「……なんでそこまで」
「気になるから、です」
「……それだけ?」
「年頃の女の娘は好奇心が旺盛なんです。 ましてそれが『彩嶺さんは――』なんて自分の名前で始まる話なら、興味を持たない方がヘンです」
「変か?」
「ヘンです」

きぱっと断言する年頃乙女、彩嶺京都。
そこまでハッキリと言い切られてしまっては、最早何を言っても無駄なように思われた。
軽い諦観と共に溜息を吐くと、それを事の了解と受け取ったのだろう、硬質だった彩嶺の瞳が急速に輝きを帯び始める。
それはあえて何かに例えるならば、活きのいい獲物を目の前にした猫科の動物のようだった。
もしも今の彩嶺にネコミミがあったらピクピク動いてただろうし、尻尾があったら左右にフリフリしていただろう。
なんて、そんな実際には到底ありえない妄想を俺に抱かせるくらい、目の前の彩嶺の表情は実に生き生きとしていた。
げに恐ろしきは、年頃の女の娘の好奇心なり。

「先に言っておくけど、何も楽しい話じゃないぞ」
「構いません」
「俺が口に出そうとしてそれでも留まったって点を、もう一回考慮してみないか?」
「それなら三回ぐらいしました。 ご安心を」
「……じゃあ要点だけを手短に」

そう前置きしてから話を切り出そうとして、俺はふと考え込んだ。
はて、あの時の俺は一体、彩嶺に向って『なに』を訊ねようとしていたのだろうか。
それはほんの数分前、時間にすれば五分も経っていないようなつい先ほどの事のはずなのに、不思議なくらいに思い出せなかった。

『彩嶺さんはなんで――』

なんで……何?
そんなにハゲが好きなの? じゃない。
そんなに楽しそうなの? でもない気がする。
仮にも修学旅行は学生生活最大のイベントだ、楽しそうにしている事を不思議がる必要はどこにもない。
彩嶺さんの行動に問題はない。
むしろそれに違和感を覚えた俺の存在こそが、問題視されるファクターなのであった。
彩嶺さんが旅を楽しむ事に不思議はないが、その横に俺がいるとなると話が変わってくる。
『原因』でありながら結果に疑問を抱くなどと云う、前後の捻転した馬鹿馬鹿しい煩い。
そう、やっと思いだした。
俺が問いかけようとした事は、他でもない俺自身の事だった。

「俺は……」
「はい」
「俺は、なんで彩嶺さんが俺といて普通にしていられるのか。 それが、不思議だった」
「はぁ……」
「避けるか、怯えるか。 それが俺の知る限りでの、普通の人の『普通』の反応だった。 だから、彩嶺さんの態度に逆に違和感を持った」

移動中の新幹線の中でもそうだった。
見知らぬ土地の旅館でも、それは変わらなかった。
結局、桜と唯以外の人間は俺の事を忌み嫌う存在であり、俺は嫌われ続ける存在だった。
ただ、それだけの事だった。
勿論俺はその事を承知の上で修学旅行に参加したのだし、自分が嫌われる理由も充分に理解している。
だからこそ俺は『唯と桜以外』の人間である彩嶺の存在に逆に怯え、そしてそうだからこそ俺は、彩嶺の態度が不可思議で仕方なかったのだった。

彩嶺京都、家庭科クラブ所属。
同じクラスの女の娘とは言え、俺が彼女について知っているのはその程度の情報しかない。
つまり彩嶺は俺にとって『唯と桜以外』と云うカテゴリに属する、言わば『ただのクラスメート』としての存在でしかなかった。
そして『ただのクラスメート』であると云う事はつまり、他のクラスメート同様、俺の事を嫌うだけの存在であると云うこと。
疎まれると判っているのにそれでもなお、自らを疎む誰かと行動を共にしなくてはいけないのだとしたら。
それは、苦痛以外の何物でもない。
しかも俺が受ける苦痛は、その根本的な部分が他人の―ここで言えば彩嶺が―感じている、俺に対しての嫌悪に端を発しているのだった。
自分だけでなく、他人までをも苦しめる。
それが俺の背負った罪と罰。
だけど俺がその事を決して忘れない限り、全ての痛みは予定調和で、それ以上にも以下にもならないはずだった。
唯と桜以外の全ての人間が俺を嫌うと覚悟さえしていれば、例えそれが現実の事となったとしても、何一つ動じる事無く心を殺していられるはずだった。
なのに――

「俺は不良だ。 それもかなり性質の悪い不良だ。 なのに彩嶺さんはそんな俺といて、何事もないかのように買い物を楽しんでる」
「相沢さんと一緒にいて、普通にしていてはダメなんですか?」
「ダメとは言わない。 ただ、不思議なんだ」
「そんなに……そこまで疑問に思わなくてはいけないぐらい、自分の事が信じられませんか?」
「俺は、信じられない。 だから君に訊いている。 あんたは俺の何を信じて、そんなにも普通の顔して笑っていられるって言うんだ」

男にも女にも優しくない。
誰かを笑わせるジョークも言えない。
気もきかない、愛想も無い、嘘をつくのさえ下手糞だと言われてしまった。
俺は、こんな自分が大嫌いだ。
他人から心を許してもらえる存在だなんて、逆さに振ったってそんな考えは出てこない。
だから、聞かせてほしかった。
誰かが認めてくれるそれこそが、俺が自身を肯定的に捕らえられる最後の拠り所となるはずだから。

刻一刻と闇が深まりつつある新京極の一画。
通行の妨げにならないよう人気の少ない小径に入り込んだ俺たちを、剥き出しの土の香りが優しく包み込んだ。
宵の気配を伴った涼やかな風が頬を撫で、そろそろ本格的な夜が訪れる事をそっと伝える。
生まれ育った街とは違う空気に身を任せながら、俺たちは土産物屋の喧騒をどこか遠くに聞いていた。
それはまるで終わってしまった祭りの後に取り残されたかのようで、だけどこの身に確かに熱は残っていて。
彩嶺が慎重に言葉を選んでくれているのが感じられる沈黙。
たとえそれが『言葉を選ぶ必要がある』と云う意味でもって俺に対し好ましくない未来を示唆しているとしても、俺はそれが嬉しかった。
何故ならその未来は、既に覚悟を終えている痛みしか伴わないのだから。

「私は多分……私も、今ここで相沢さんの事を信じてるって言ったら、それは嘘になるんじゃないかと思います」
「……そうか」
「相沢さんだって私にそう言われても信じないでしょ? お互い、言葉を交わすようになって一ヶ月も経ってないですし」
「ああ……確かにそうだな。 言われてみればそうかも知れない」
「だから私は、相沢さんの『何か』を信じてここにいる、と云う訳じゃありません」
「判った。 正直に言ってくれてありがとう」

信じるも信じないも、そもそも俺は彼女にとってその対象となる段階にすら至っていない。
彩嶺の言葉が俺に告げたのは、そんな当たり前の事実だった。
だけど、ならどうして君は俺の傍で笑っている事ができるのか。
信じる事もできない不良の横にいて、何故君はそうも普通でいられるのか。
半ば繰り言、半ば泣き言のような質問をしようとしたその時。
彩嶺が続けて風に乗せた言葉は、この旅が始まってから最大級の驚きでもって俺の思考を停止させた。

「それでも私が相沢さんの傍にいて笑う事ができるのは――私が、草薙さんの言葉を信じているからです」

草薙さん。
その言葉が自分のよく知っている桜の事を指しているのだと理解するまでに、俺は多大な労力と時間を必要とした。