「んー、風が気持ちいいですねー」

かさばる土産袋を手にぶら下げたまま、俺の横で元気よく背筋をのびーっとする彩嶺。
言われて初めて気付いたと云う訳でもないが、首筋を吹き抜けていく京の夕風は、確かに気持ちの良いものだった。
壮絶なまでの人込みで知らない内に身体が火照っていたのか、水辺の風に体温を奪われていく感覚が、妙に陶酔を誘う。
夕焼けに染まる水面、写り込んだ見知らぬ街並み。
そこに住む人々の息遣いを確かに感じさせる、家々の窓から漏れ出た暖色の光。
初めて見るはずのそれらが何故だかとても懐かしくて、だけど潜在的に自分が帰るべき場所が『其処』ではない事が俺には既に判っていて。
涙にも似た気配を感じながら、俺は深く溜息を吐いた。

旅先で連れとはぐれた時は、まず第一に自分たちの泊まっている宿に戻って『自分たちはここに一度戻ってきた』と言伝を頼む事が大切です。
これをする事によって、はぐれたもう一方が宿に戻ってきた際、『まだ帰ってきてないんだ』と勘違いして再び街にさまよい出る事を防止できます。
私たちの方も一度宿に戻る事で、『はぐれた連れが宿に戻っているか否か』と云う情報を仕入れることができます。
もしも宿に戻っているのだとしたら、居もしない人を探して街をうろつく徒労を避ける事ができます。
戻っていないのだとしても、それはつまりまだ外に居るのだと云う事になり、捜しに行くもよし、おとなしく宿で待つもよしと云う事になります。
まー相沢さんの性格上、ゆんちゃんが宿に居ないとなったら裸足のままでも飛び出していきそうですけど。

以上、無意味にお姉さんぶった彩嶺が人差し指をピンと立てつつ俺にレクチャーした、『旅の総則第一条(彩嶺京都 編)』である。
言ってる事がなまじ正当なものであるだけに、その態度について突っ込む事がひどく躊躇われた。

「八橋でも賭けませんか? ゆんちゃん達が旅館に帰ってるかどうかで」
「……俺は『帰ってない』に賭けるけど、お前は?」
「賭けになんないですか……やっぱり」

「やっぱり」と云うからには、彩嶺も俺と同じ方に賭けようとしていたのだろう。
自分から言い出した賭け事のくせに彩嶺は、まるでそれが成り立たない事が嬉しくてしょうがないような笑顔で、俺の顔を覗き込んできた。

「いくら合理的な考えだったとしても、きっと草薙さんもゆんちゃんも『それ』をしない」
「………」
「多分、私がいなければ相沢さんだってそう」

旅行先で、班員と逸れた。
宿泊先が目と鼻の先にある。
本来ならばきっと、彩嶺の言っている事が最も正しい選択肢なのだろう。
俺だってもし逸れてしまったのが『ただのクラスメート』だったなら、彩嶺と同じ行動を取っていたに違いない。
もっと言ってしまえばそれは『誰がどうなろうと知った事じゃない』と云う考えに基づいた行動なのかもしれないが、結果としては変わらないだろう。
そう、もしも旅先ではぐれたのがあいつ等じゃなかったなら。
それはつまり、逆説的に言うならば――

「でもそんな相沢さんと同じ方に賭けれたって事は、少しは私も理解できてるって事になりますかねー」
「……桜の事をか?」
「草薙さんの事を深く理解している相沢さんの事を心底大切に思っている草薙さんの事を、です」
「……何が、誰を、何だって?」

彩嶺は、二度とは答えてくれなかった。
ただ、吹き抜ける風に微笑を散らすだけだった。
その横顔を見ながら所在無く立ち尽くす俺は、一体どんな顔をしていたのだろう。
答えなんて当然、どこからも得られるはずがなかった。

「ね、相沢さん」
「ん?」
「私と草薙さんって、どの位の間柄だと思いますか?」
「どの位のナイアガラ?」
「あーいーだーがーらー!」
「……んな怒るなよ、おっかねーな」
「もう、これ真面目な話なんですからね! おちゃらけるの禁止!」
「はいはい、ゴメンナサイ」

怒られた。
と云うか、今日びの女子中学生が日常会話の中で『間柄』とか使うかよ普通……

「なんですか」
「何でもないです」

睨まれた。
おっかないので、考えるふりをしながら目を逸らした。
多分、俺は悪くない。

「彩嶺さんと桜か……」
「率直な感想でいいですよ。 むしろそれを期待して訊いてるんですから」
「なら、クラスメート以上友達未満。 それが俺の正直な感想だ」
「ん、的確。 さすがですよ、相沢さん」

何が『さすが』なのかは判らないが、とりあえずは彩嶺が求めていた答えと一致したらしい。
満足気にうんうんと頷く彩嶺の短い髪が風に揺れ、微かな石鹸の香りが夕暮れにたなびいた。

彩嶺は、唯の事を「ゆんちゃん」と呼ぶ。
唯も彩嶺の事は、「みゃーちゃん」と呼んでいる。
その呼称が示しているように、二人の間には確実な友好関係が展開されている。
だが、桜と彩嶺の場合は少し違う。
桜は唯と同じように彩嶺の事を「みゃーちゃん」と呼ぶが、対する彩嶺は桜の事を「草薙さん」としか呼んでいないのだった。
浮き彫りになる距離感。
小さくはあるが確実な、俺達が内包している綻びの一端。
確かに『クラスメート以上友達未満』であるならば、その呼称は少しも不思議なものではない。
むしろ俺が不思議に思うのは、桜の態度の方だった。

草薙桜を遠くから眺める時。
朝昼を問わずその目に映る光景は、常に人の輪の中心にいて、とても楽しそうに周囲の話を聞いている姿である。
誰の事も否定せず、誰の事をも困らせず。
適度に驚き、素直に笑い、訊かれた時のみ自分を語り、いざと云う時にはとても頼りになる。
『俺』と云う存在を気付かせないほど遠い場所から見る桜は、呆れるほどに典型的な『人気者』の姿をしているのであった。

だが、いつの頃からだっただろう。
遠くから眺める桜の姿に、人の輪の中で愛想良く笑う桜の表情に。
『人気者』でいる桜の姿に、俺はどこか奇妙な違和を感じるようになっていた。
何かが違う。
どこかがおかしい。
漠然と抱いていた思いはしかし、俺自身の感情が目を曇らせているかもと云う危惧の下、ついに口に出される事は無かった。
そして、俺の危惧が完全に無意味であった事が、俺が抱いていた違和感が確信に変わるまでには、そう長い時間はかからなかった。
ある時は思いっきり殴られて。
またある時は隣にいる唯がぷんむくれるぐらいまで抱き合って。
叱られて、手を繋いで、怒鳴られて、笑いあって。
曲がりなりにも『親友』と互いを呼べるようになって、俺は初めてあいつの本当の姿を知った。
初めはそれこそ信じられないような思いで一杯だったのだが、今となればむしろ”そう”でなくては桜じゃないような気さえする。
仲良くなるにつれて色々な事が判ってきたけれど、その中でもこの真実だけは、流石の俺でも大いに驚いた事柄だった。

クラスどころか学年でもトップレベルに人気者である草薙桜は、実は他人と関わる事があまり好きではない。

疎んじている、とまでは云わない。
しかし全く悪意のない純粋な意味でもってあいつは、自分の周囲に他人が居る状態を「面倒臭い」と言ってしまう人間である。
誰に悪びれる事無く「無理をしてまで人に好かれる努力なんかしたくない」と、堂々と言ってしまえるような人間なのだった。
無論そこには「偽りの自分を好きになってもらっても意味ないじゃん」みたいな意味合いが含まれるのだが、それはそれ。
根本的な部分で面倒事を嫌う桜の生き方にとって『浅く広い交友関係』なんてのは、それこそ面倒臭い事の最たる物に該当する事柄らしかった。

自分の周囲に会話があれば参加はするが、わざわざ会話の場所まで赴こうとはしない。
しかしクラスメートは桜を拠り所として集団を形成するため、結果としてあいつはいつでも人の輪の中でにこにこ笑っている事となる。
見ていないドラマの話、あまり知らないアイドルの話、他人の色恋噂話、時には誰かの悪口まで。
頷き、驚き、嗜め、苦笑し。
そして最後には、やっぱり笑う。
日照りも乾燥も凍結も乗り越えて、春にはまるで何事も無かったかの様に綺麗な花を咲かせる。
それは宛ら、一本の桜の樹のように。

だが俺は、唯の隣で笑う桜を見てきた。
唯を除けば誰よりも近くで、ここ一年ぐらいに限れば誰よりも長く、心の底から幸せそうに笑う桜の事を見てきた。
”違い”に、気付かない訳がない。
本当に楽しい時のお前はそんな笑い方をしない。
とそんな訳だからして、俺が桜の作り笑いに違和感を覚えるのは、当然と言えば当然の事だった。
唯にこっそり確かめてみたら案の定肯定する答えが返ってきたので、俺は場違いながらも少しだけ誇らしげな気になってみたりもした。
『気付く事ができた』と云うただそれだけでも、確かな証になるような気がしていたのだった。

だから、俺には不可解だった。
他人に執着を見せない桜が東本願寺で不意に見せた、彩嶺の事を強く慮った視線と言葉が。
そして何より、「草薙さん」と一定の距離を置いて自分を呼ぶ彩嶺に対し、頑ななまでに「みゃーちゃん」と呼びかける桜の姿が。
俺の知っている姿とあまりにも違っていて、どうしても納得いかなかった。

対人関係における距離感を計り間違えるほど、草薙桜は頭のおめでたい娘ではない。
かと言って意図的に相手のリアクションを無視してオトモダチ関係を構築しようとするほど、あいつは人間関係に関して貪欲ではないはずだった。
別に彩嶺にその価値が無いと言っている訳ではない。
唯の友達である事を思えば、彩嶺にもまた本質的な部分で桜と通じ合う『何か』があるのかもしれない。
しかし実際問題としてその『何か』が俺なんかの目に見えてくるはずもなく、一度抱いてしまった違和感はそう易々と拭える訳もなく。
そんな矢先に今度は彩嶺の方から、「私と草薙さんはどの位の間柄に見えます?」との質問が舞い込んでくる始末。
いかにディープ・ブルー級の並列処理を行える俺の頭脳とは言え、ここまで意味不明が連続してしまえば最早お手上げもいい所だった。

「私と草薙さんはー、お友達みまーん」

今度は歌い始めた。
それも夕日をバックにくるくると回りながら。
お願いだ、誰かこいつを止めてくれ。

「本当はー、言葉を交わした事も数えるくらいー」
「彩嶺、そろそろ本題に入ってくれないか」
「なのに草薙さんはこの旅行中ずっとー、ずっと私の事を気遣ってくれてるのー」
「……彩嶺、それは一体」
「それはきっとー、自分が言い出した事の責任を取るためにー」
「っ! あ、あや――」
「ホントはもっとー、ずっとー きっと素直にこの旅を楽しみたいはずなのにー」
「彩嶺っ!」

思わず、叫んだ。
彩嶺の調子っ外れな歌声が、瞬時に静寂に変わった。
それはまるで俺の動揺と静止の声を待っていたかのように、ふざけていた雰囲気の跡形も無く。
無言で相対する二人の間を、水気を孕んだ一陣の風が吹き抜けていった。

「今、言ったこと――」
「……”やっぱり”、何も知らなかったんですね、相沢さん」

一転、真剣になった彩嶺の言葉が胸を穿つ。
親友。
そう、胸を張って言えると信じていた。

「まあ私も口止めされてましたから、本人が知っているはずもないとは判っていて喋ってるんですけど」

あいつの事なら何でも理解していると、己惚れにも近い自負心を抱いていた。
俺になら桜は何でも話してくれるものだと、何の約束もないのに勝手にそう思い込んでいた。
なのに――

「相沢さん。 私がこの班に入ったのって、どうしてだと思います?」
「それは……お前が唯の友達で、俺のせいで困ってる唯の姿を見かねたからだと思ってたが」
「困っている唯の姿を見かねて――。 確かに間違いじゃありません」
「なら――」
「でもそれって、私だけが考える事ですか?」

彩嶺の声が、鋭い刃となる。
惰性や馴れ合いで構成されていた愚鈍なる外皮を、一枚一枚削り落とす。
やがて露わになった感情の表皮が受け取る全ての真実は、驚くほどの優しさに満ち溢れていて。

「唯に困った顔なんかさせたくないって思い、私なんかよりもずっとずっと強く思ってる人が、すぐ傍にいたんじゃないんですか?」

どうして気付けなかったのだろう。
どうして判ってやる事ができなかったのだろう。
今更に過ぎる繰り言のみが、祇園精舎の鐘の如く。
虚ろな頭蓋の中に木霊しては、消えない残響となって俺を責め立て――

「そしてそれと同じくらい強く、ひょっとしたらもっと強くかもしれないくらい、草薙さんは相沢さんの事も心配していたんですよ」
「………なん、だって?」

再び、動悸が激しくなる。
彩嶺の声以外の全ての音が、無意識の内にシャットアウトされる。
すぐ傍を流れる水のせせらぎも、夕凪に遠く響く車の音も。
微かな草擦れも、沿道を歩く人の足音も、ついには自分自身の呼吸さえ雑音扱いにして。
俺は、彩嶺の言葉に聞き入った。
これ以上は、せめて今より後はどんな事ですら、桜に関する一言一句たりとて聞き逃したりしちゃいけないのだと思った。

「恐らくは、班決めの方法が『好きな人同士で』って決まった瞬間から。
 草薙さんは、気付いていたんだと思います。 もっとも私から言わせてもらえば、気付いて『しまった』とも言える訳ですけど」
「……続けてくれ」
「唯が困るんだろうなって事は、私も薄々ですけど気付いてました。
 でも草薙さんは更に、『自分のせいで唯が困ってる』って思って落ち込んじゃう人がいる事にまで気付いていたんです。
 そして気付いてしまった『それ』を回避するために、草薙さんは動いた。
 結構遠回りしましたけど、私がこの班に入った理由も、私が相沢さんの横で普通にしていられる理由も、全てはそこに行き着くんですよ」

動いた。
行動を起こした。
唯がしょげかえったりしないように、俺がその姿を見て自己嫌悪に陥る事もないように。
結果としてそれらが求められる様な、それでいてあの時期に桜が取りうる行動とは。
つまり。
その。

「……桜が。 まさかあの月曜日のLHR以前に、桜がお前に……?」
「ええ。 草薙さんに誘われたから、その時に約束してくれた草薙さんの言葉を信じているから。 私は、今こうして笑っていられるんですよ」

ちょっと待て。
いや、ちょっと待ってくれ。
だって。
だって桜はあの時教室で言ってたんだ。
困り顔をしながら教室中を奔走する唯がいて。
それを見ながら自責の念に囚われる俺がいて。
そんな俺の横であいつは。
『その顔、NG。 余計に唯を追い詰める』
『……そう言うお前は何してる』
『無駄に動くのキライ』
桜は確かにそう言った。
『アンタを受け入れる人を探すのにあたしが動くのが無駄って事』って、俺はあいつの口からちゃんと聞いたんだ。
実際にあいつは俺の隣から身動き一つしなかった。
あと一人の班員を探して右往左往する唯とは違って、あいつは言葉通り何もせず、俺の隣に座りながらいつも通りの口調で――
俺の、隣で――?


―― 違う

―― 何もしなかったんじゃない

―― あいつは

―― 桜は、俺の隣にずっと居てくれていたんだ


『無駄に動くのキライ』
『みゃーちゃんの心情を実況レポート』
そんな果てしなく軽い、どこまでも人事のように振舞う物言い。
長い時間を共に過ごした俺ですら気付く事のできないくらい、『いつも通り』の超然とした横顔。
もしそれが、何もかもを覆い隠すあいつの優しさだったとしたら。
気付かれなければ、気遣われない。
できれば誰にも何も気を遣ってほしくないって云う、桜特有の照れ隠しにも似た優しさが見せた、とびっきりのフェイクだったとしたら――

いつしか二人の足は止まり、行き交う声も終には消える。
凪の時間を終えた風がまた軽く吹き抜け、火照りの冷めた首筋が僅かに寒気を訴える。
夜の気配忍び寄る川辺の小径、前後遥かに流れる加茂川。
過ぎし日における桜との邂逅を懐かしむように、彩嶺がその可愛らしい目をふ―と細めた。
それは自身の言葉通り、桜の全てを信じるに足ると確信している者のみができる、とても安らぎに満ちた表情だった。

「相沢さんがもし『それ』を望むのなら、私は全てをお話ししますよ」
「……むしろ話したいんじゃないのか? お前自身が」
「んふふ―――、賢(ずる)い言い方ですね、相沢さん」
「……判ったよ。 俺は、俺の意思で全てをお前から聞きだす事にする。 これはもう命令だ。 口止め事実の有無なんぞ、大仏にでも喰わせてろ」
「あやー、不良の相沢さんに脅されてしまいました。 これでは、お話ししない訳にはいきませんね」

涼しい顔してどの口がそんな事を抜かしやがるか。
言おうとして、だけど、桜のくれた優しさに気付けずにいた自分が情けなくて。
教えてもらわなければ真実に辿り着けない自分がどうしようもなく悔しくて。
口を開けなかった。
声に出せなかった。
俺は、強く歯噛みをした。

親友を名乗る資格などないと、今更ながらに痛感した。