夕焼けに赤く染まる人気の無い校門。
石造りの門柱に背中を預けて、ぼんやりと空を眺めている人影が一つ。
視界の端にしかその存在を捉えていなかった私は、彼女の口にした挨拶が自分に向けられた物だとは、正直まったく思わなかった。

「やほー、彩嶺さん」
「え? あ、草薙…さん。 どうしたんですか? ゆんちゃんなら先に帰っちゃいましたけど」
「いやいや、今日はちょっと彩嶺さんに話があってね。 勝手で悪いけど、待たせてもらったよ」

そう言ってから両手を頭の上で組み、「んーっ」と豪快な背伸びをする草薙さん。
まるで猫科の動物がするかの様なその伸びは、彼女の奔放な性格を実によく表しているなと、私はこっそりそう思った。

今の時間は夕方の六時。
帰りのHRも含め、授業そのものは午後四時には終わっていた。
つまり彼女は丸々二時間近くもの間、屋外で私の事を待っていた計算になる。
一度も家に帰っていない事を示す、制服姿。
待っていた時間がそう短いものではなかった事を物語る、さっきの背伸び。
『押し付けがましい』と思えてしまえば楽なのだろうけど、不思議と彼女には人にそういう感情を抱かせないオーラが備わっているらしかった。
判りやすく言えば、彼女にはオートアビリティで『魅力』が備わっているようなものである。
「全然判りやすくないじゃん」と心の中でセルフ突っ込みを入れた私は、そこで改めて彼女の顔をまじまじと見つめた。

神明第二中学校三年二組、出席番号女子五番。
姓名、草薙桜。
各種運動部の部長が喉を鳴らして欲しがるほど、彼女の運動神経と身体能力は人並み外れて高い。
しかし当の本人は文化部の極みとも言える茶道部に所属していて、週に一度の点前でのんびり抹茶を啜っていたりする。
クセの少ない素直な目鼻立ちはかなりの高水準でパーツが整えられ、見る者に不快さを与えるといった事がまず有り得ない。
そして、それら全てを包括して尚且つ際立たせる役目まで果たすのが、今時目にするのも珍しくなってきたポニーテールである。
可愛く揺れる尻尾と綺麗なうなじ、頬に掛かる後れ毛と、頭上で揺れるアンテナ。
ただでさえ人に爽やかな印象を与える彼女の存在は、ポニーテールと云う髪型を手に入れる事によって、まさに絶対無敵となるのである。
(草薙桜に惚れている男子生徒Aの証言より抜粋)

なるほど、放課後の教室で力説していたA(厚樹)君の言葉を借りて言えば、草薙さんは絶対無敵であるらしい。
勿論、性格に関しては感じ方など千差万別だから、一概に『こう』と決め付ける事はできない。
だけど確たる現実として彼女は今現在、学年でも随一の人気者であった。
悪く言う人間など見た事がない。
しかし愛を告白してゴメンナサイされた人間なら、噂だけでも片手では収まらないくらい居る。
『姉御肌』と呼ぶには柔和な雰囲気が目立ちすぎ、『可憐な少女』と呼ぶには言動のアクティブさが邪魔をする。
相反した魅力の分水嶺に立つ事によって両方の美点のみを発露させている彼女は、さながら小説『ロリータ』のヒロインのようでもあった。

そして何より彼女は、”あの”相沢祐一に対して真正面から文句を言える、全学年を通してただ一人の存在だった。

と。
少し思いを馳せるだけで、特別に仲良くしている訳ではない私ですら彼女に関する情報がわんさか出てくる。
知名度、とも少し違う気がするけれど。
とにかく彼女は様々な人にとって、様々な意味で『特別』な存在である事に間違いはなかった。
そして、だからこそ。
校内きっての有名人である彼女がわざわざ二時間も無駄にしてまでしようとしている『話』の内容なんか、私には正直さっぱり見当もつかなかった。

「今、時間だいじょぶ?」
「え? あ、うん。 大丈夫だけど…」

あまり遅くなると、親に文句を言われる可能性がある。
特にお父さんの方が私より先に家に帰っていた場合なんか、文句がお説教にグレードアップする。
深く考えずに「大丈夫」と返事してから脳裏をよぎった、ほんの僅かな心配の種。
勿論、表情に出したつもりはなかったし、声にだって滲ませたつもりはこれっぽっちもなかった。
内面の憂慮や葛藤を一々表に出しながら生きるほど、私は素直な人生を送ってはいない。
だけど、あくまで素のままの態度を取り続けていた私の事を、草薙さんは申し訳なさそうな笑顔で見詰めて。
それから、まるで詩(うた)でも諳(そら)んじているかの様に。
とても穏やかな声と表情で、こう言った。

「ごめんね…そんなに時間かけないからさ。 とりあえず、歩きながら話そっか」

誰もこの人を嫌いになれない訳が、少しだけ判りかけた瞬間だった。





* * *





「私達と一緒の班になってほしいんだ。 修学旅行の、班別自主研修の」

「回りくどい話とか苦手だから――」
そう前置きをしてから草薙さんが語り出したのは、本当に直球ど真ん中のお願い事だった。
いつもは一人で気ままに歩く、家へと向かう狭い路地。
どこかの家から漂ってくる、夕餉の支度をする優しい匂い。
意図せず二人連れになった今日だけど、草薙さんと同じ道を歩いている事に、不思議と違和感を抱いていない私がいた。
『二人で歩く』と云うそんな事よりも他に違和感を覚えるべき事柄が、草薙さんのたった一度の発言には山盛りにされすぎていた。

「草薙さんが班員探し?」

ありえないな、と私は思った。
こりゃ怪しい、とも正直思ってしまった。
何しろ彼女はクラスで一番。
いや、クラスと云う垣根さえなければ、学年全体でも最も引く手数多の人気者なのである。
一緒の班になりたいと思っている人間は、掃いて捨てるほど沢山居るはず。
現に私が知っている限りでも、クラスの男子の過半数が『草薙さんと一緒の班になれるやも』と微かな希望を抱いていた。
女子の方に至っては何ら隠す必要がないだけに、『草薙さんと一緒の班になりたーい』と公言している人までいる始末だった。
なのに、現状はどうした事か。
草薙さんは自ら動いて、班員募集をしている。
自ら動かなくてはならないほど、班員獲得に難儀している。
それは普通に考えれば、まったくもって有り得ない事柄だった。
そこに納得のいく説明をつける為には、『自分と一緒の班になる人間は自分で決めたい』と云う、草薙さん自身の強い意志が必要になってくる。
「周囲に流されるのなんかまっぴらゴメンだ」って言う、想像しただけで納得してしまいそうな草薙さんの想いが不可欠になってくる。
でも、やっぱりその理由を採択したとしても、そこには二つ目の違和感が悠然と腰を下ろして待っているだけなのだった。

二つ目の違和感の正体。
それを可能な限り端的に表現するならば、『なんで私?』と云う一言に尽きる。
草薙さんが自分の意志で班員を探すと云うのであれば、そこで選ばれるのは当然、『草薙さんの好きな人』と云う事にならなければおかしかった。
『好き』、とまで大仰な言い方をしなくてもいい。
『仲がいい』ぐらいに留めておいても構わない。
どちらにせよそれが『草薙さんにとって特別な人』である事には違いないし、私がその条件に該当しない事も判りきっていた。
部活も違う。
委員会も違う(そもそも草薙さんは委員会に所属していない)。
三年生になってようやく同じクラスにぐらいはなったけど、同じ班にすらなった事がない。
そりゃ同じクラスの女の子同士だから、流石に『口を聞いた事もない』とまでは言わないけれども。
だけどその程度の関係じゃ、こうやってわざわざ二人きりになってまで「一緒の班になろう」なんて誘われるはずがないのであった。

つまり、そもそも今現在の状況は、前提の段階から矛盾しているのだと云う事になる。
互いに望んで一緒の班になろうとするほど仲の良い関係なら、わざわざこんな風に二人きりの状況を作る必要がない。
逆に、こんな状況を作らなくてはいけない程度の仲であれば、『是非とも同じ班に』なんて誘われる訳がないのであった。

修学旅行は言わずもがな、中学校三年間の学生生活の中でも最大のイベントである。
その中でも特に、先生の監視の目から解き放たれた状態で京都の町を散策できる班別自主研修は、生徒たちの間で最も期待度が高かった。
そして班別自主研修を最高の物にできるか否かと云う条件は、『いかに仲の良い人間と回れるか』と云うその一点のみに集約されている。
何しろ私を例外とした多くの中学生にとって、京都の小径(こみち)や寺社仏閣なんて物は、然程の興味を持たれる対象ではない。
彼らにとってはあくまで『非日常の中に身を置いている』と云う部分が重要なのであって、見学先の京都が例え千葉でもヨハネスブルグでも、そこに大した違いは生まれないのであった。

だから、場所は問題じゃない。
自主研修のコースに上賀茂神社が含まれているからと言ってテンションが上がったりするのは、恐らく学年で私一人ぐらいなものである。
そして場所が問題ではないのなら、残る要因はただ一つ。
つまり『何処に』と云うファクターではなく、『誰と』と云う所こそが重要なポイントであると云う事だった。
自主研修を楽しめるかどうかの是非がそこで決定すると言っても過言ではない為、生徒達の情熱はその部分へ向けて一心に注がれる。
事実、教師側から正式な通達がされていない『班決めのやり方』に関してだって、既に学年執行部からのリークが行われている始末である。
本来体制側であるはずの執行部ですら、あまりのワクワクっぷりに情報漏洩を禁じえない異常事態。
それが、修学旅行の魔力だった。

そして、執行部からのリークで『自主研修の班は好きな人同士で組んでよし』と云う情報が流れた次の日。
実に八割以上もの生徒が、『一緒のグループになろうね』の内々定を教室や廊下やベランダの其処彼処でやったり取ったりしていた。
なんて、人事の様にかく言う私もその一人。
一緒に京の町を散策するメンバーは既に決まっている状況であり、何か余程の理由がない限りはその仲間内から外れる予定もなかった。

人は――
特にも私たち『学生』と云う立場の人間は、集団から孤立してしまう事に酷く脅える。
良かれ悪しかれ集団から逸脱してしまうと云う状況に、日々心をすり減らしながら生きている。
だから例えば、今回の事例だってそうだった。
『どこの班にも入っていない』と云う事実。
それは単に『フリーである』と云う意味を遥かに超えて、『ひとりぼっち』であると云う事を周囲に吹聴する結果となる。
考えただけでもおっかない。
可能な限りは避けたい事態である。
何故ならその『結果』が次なる孤立の『原因』ともなりかねない事を、私たちは誰も否定する事ができないからだ。
勿論、そんな打算的な感情は抜きにしても、「一緒になろうね」と言ってくれる友人の存在は何物にも代え難くありがたい。
単純に表現すれば、声を掛けてくれたって事実だけが、純粋に嬉しい。
だけどやっぱりその瞬間に『これで安心だ』と云う感情が沸いてしまう辺り、私は本当にどうしようもない人間なんだなぁと実感させられるのだった。

そして、そんなどうしようもない私だけど。
むしろ。どうしようもなくダメダメな私だからこそ。
少しだけ気になる事が、ただ一つ。

家庭科クラブで大の仲良しである「ゆんちゃん」こと観空唯が、未だどのグループにも属していない。

その事だけが、まるで喉に刺さった小骨の様に、私の心に引っかかり続けていた。
少しでも出遅れれば不本意な結果に終わってしまう、椅子取りゲームもかくやと言うほど早い者勝ちの人取り合戦。
「ヨーイドン!」の合図すらなく開始された、情けも容赦もないサバイバルゲーム。
だけど彼女はお世辞にも、『機を見るに敏』とは言えない女の娘だった。
ほえーっとしてる。
ほわーっとしてる。
私が好ましく思っている彼女の長所は、こんな時には簡単に短所に早変わりしてしまう。
勿論、誰彼構わず口外していないだけで、裏ではちゃんと班のメンバーを確保していると云う事態だって考えられる。
そもそも班決めの方法自体が公式に発表されていない以上、出過ぎた勇み足はみっともなくてしょうがない。
草薙さんからの突然のお誘いは、彼女に関する様々な懸念をそんな風に考えて無理矢理に自分を納得させていた、そんな矢先の事だった。

「……ひょっとして、ゆんちゃんが何か?」

だから、私は思わず口に出して訊いていた。
『ただのクラスメイト』である私と草薙さんを繋ぐ、双方にとって『クラスメイト以上』の存在。
共通の友人、観空唯。
私が草薙さんに誘われる理由としては、これ以上ないくらい妥当性のある物だと思われた。
でも。

「んにゃ。 今回の件は完全に私の独断」

だ、そうだ。
底抜けにあっさりと否定されてしまったので、嘘を疑う余地すら与えてはもらえなかった。

「でもね…」
「はい?」
「彩嶺さんが唯の友達だからって云う理由も、確かにあるんだ」
「……はぁ」

難問だった。
回りくどい話が苦手なはずの草薙さんの言葉は、それでも私にとっては充分に理解に苦しむ内容だった。
今回の件はゆんちゃんとは関係ない。
でも、私が話を持ちかけられたのはゆんちゃんと友達だから。
ゆんちゃんの友達だからと云う理由ならそこにはゆんちゃんが関係してくるはずなのに、嘘偽りの見えない瞳でそこの部分はきっぱり否定された。
なんかもう面倒くさくなってきた私は、とりあえずそこで推察とか憶測とかに費やすエネルギーを完全にシャットアウトする事にした。
やる事は、事実確認だけでいいや。

「班員は、私と唯。 入ってくれれば彩嶺さん。 それから……相沢祐一」

班のメンバーは、草薙さんとゆんちゃん。
それから、相沢祐一君。
事実をありのままに確認した私は、ありのままに確認しすぎて、思わず考えた事をそのまま言葉に出してしまっていた。

「あい…ざわ。 まさか”あの”……相沢祐一?」
「……うん」

曰く、目隠しをした狂人【フェイスレス】相沢。
曰く、鮮血の伯爵【ブラッディ・バロン】相沢。
長い前髪に隠された彼の眼差しは誰にも窺い知れないとか。
しかしどれだけの返り血を浴びながらも、口元だけはやたら柔和な微笑を浮かべているとか。
躊躇いなく敵対した相手の骨を折るとか、泣いて許しを請う人にすら手加減なしの蹴りを入れていたとか、バックにはヤクザが付いているだとか。
人づてに聞いた彼の様々な悪名が、私の声と表情に若干の怯えを抱かせた。
それを目にした草薙さんが、今にも泣いちゃいそうなくらい悲しい笑顔で頷いたのが、すごく印象的だった。
理屈ではなく直感的に、『悪い事をした』と思った。

「まぁ…その反応は大体予想通りかな…」

嘘だな、と思った。
仮に本当に予想していたのなら、そんな顔はしないでほしかった。
消え入りそうな声で呟く、今までに見た事がないくらい余裕のない草薙さんの立ち姿。
比喩とか誇張なんかじゃなく、本当に言葉通りの意味で心が持っていかれそうになった。
私自身の心は痛くも痒くもないはずなのに。
それなのに、何故か喉の奥が詰まってしまったかのような、これ以上なく濃密な『涙の前兆』を感じる。
基本的に他人の心情に寄り添う事をしない私ですら胸が痛くなるほど、草薙さんの憂い顔は人を惹き込む力を持っていた。

困った顔をさせたくないな、と思う。
『クラスメート以上友達未満』と云う微妙な距離感を持つ私ですら、草薙さんには笑っていてほしいなと思う。
だけどそれが、言い方は悪いけど人身御供みたいな事をしなくては叶わないのだったら、それはやっぱり少し違うんじゃないかなとも私は思った。
少なくとも私はまだ、彼女が口にした提案に対して何一つ納得させてもらっていない。
それどころか私は、今こうして目の前で見せられている『余裕のない草薙桜』の姿に対しても、納得してはいなかった。
とても理不尽な理由で、私は何故だか不愉快になっていた。

草薙さんは、笑顔の人であるはずだった。
そんな事は絶対に有り得ないのだけれども、例え自分が謂れのない中傷を受けたとしても、彼女はそれを軽く流せてしまう人のはずだった。
勿論、私は彼女の親友などではないから、笑顔の裏に隠された『本当の気持ち』なんて部分はさっぱり判らない。
そもそも『本当の気持ち』があるのかどうかすらも判らないし、そこに私の勝手な憶測を挟むつもりも毛頭無い。
だけどその分だけ私は、『目に見える部分』の彼女に関しては、客観的な見方ができているつもりだった。
そしてその限りでは、今までの彼女は間違いなく笑顔の人であるはずだった。
辛さや苦しさ、悲しさなんて云った類の感情を表に出す事なんて、学校生活の中の彼女ではまず有り得ない事だった。
限りなく悪意ある捉え方をさせてもらえばそれは、私たちは草薙さんに、『本当の表情』を見せてもらえた事がないのだと云う事になるのだった。

そりゃ私たちだって、四六時中に渡って生(き)のままの感情を曝け出している訳じゃない。
時と場所に合わせて水で薄めた喜怒哀楽を適当に貼り付けながら、対人関係の波をそこそこに乗りこなしている。
特に『怒り』や『哀しみ』の共感と云うパフォーマンスは、『喜び』や『楽しさ』の共有よりも何倍も効果的な『トモダチ』の儀式になる。
だからこそ私たちは日々下らない愚痴を振りまいたり、教科担任を仮想敵にして団結したり、涙を流したドラマの話なんかをしたりする。
同じ事で笑える。
同じ事で泣ける。
そんな共通性を一々確認し合いながら、『他の人と同じ自分』に安心して。
『他の人と同じ自分』しか持てない事が、少しだけ心許なくて。

だけど、草薙さんは違っていた。
彼女はいつも、皆が興じる『トモダチ儀式』の外側に位置していた。
何事も厭わず。
誰の事をも見下さず。
属さず、靡かず、染まらず、流されず。
勿論、彼女だって哀しい事は哀しいと言うし、あまりにも道理から外れた事に対しては、静かな怒りを見せる事もあった。
それでも、私たちが日常生活の中で気軽にやり取りしている負の感情の共有に、彼女は決して同じような表情を見せようとはしなかった。

なのに――

「……説明、してほしいな」
「ん?」
「草薙さんが班員を探してる理由も、白羽の矢が私に立った理由も」

相沢祐一に対しての拒絶反応に、どうしてあなたがそこまで哀しそうな表情をしなければならないのかも

自分の事ならいつだって平然とした顔をしているくせに。
クラスの中じゃいつだって、ほんのりとした柔らかな微笑を浮かべたりなんかしているくせに。
それなのに、『誰か』が受けた拒絶のためだけに、こんなにも胸を痛める事ができるだなんて。
普段は見せない弱々しい笑みを、こんな時にだけ唇の端にうっすら浮かべてみせるだなんて。
そんなのは反則なんじゃないかと、私は思った。
だってそんなの、あまりにも魅力的すぎてズルいんじゃないかと、私は強くそう思った。
誰かのために泣いちゃいそうになる優しさも、そのくせギリギリの所で涙を見せない強がりも。
目の当たりにしたらもう、私は彼女の事を嫌いになんかなれなくなっていた。
それどころか、『草薙さんには笑顔でいてほしい』と言う気持ちが、より強いものになってしまっていた。

だから尚更、彼女の笑顔を曇らせる存在が”あの”相沢祐一である事が、私にはどうしても納得できなかった

「そうだな……じゃあ、まずは私が班員を探してる理由からにしようか」

私が仄暗い感情に心を奪われていたのは、僅か数瞬の事だった。
だけど私が気付いた時にはもう、草薙さんの表情はすっかりいつも通りに戻っていた。
『いつも通りではなくなっていた』と云う事すら認識していないのではないかと思うほど、彼女の纏う雰囲気は乾いた風の感覚にも似ていた。
ひょっとしたら彼女は本当に、『相沢祐一を拒絶する』と云う私の反応を予想していたんじゃないだろうか。
予想して、覚悟した上でもやっぱり直に拒絶の色を見せられたのが辛くて。
不覚にも、あんな表情を見せてしまったんじゃないだろうか。
あまりにも感情の余韻を残さない草薙さんの横顔が、私に彼女の覚悟を感じさせた。
『覚悟を完了した人』にしかできないような感情の切り捨て方が、何故彼女がここに居るかと云う事を言外に説明しているような気がした。

「まー、理由って程の理由でもないんだけどねー。 早い話、消去法で私しか残ってなかったんだ」
「消去法?」
「自主研の班決め方法が聞こえてきてからこっち、学年中で展開されてる早い者勝ちの『人取り合戦』の空気に、唯は多分まだ気付いてない」
「……あー」

思わず納得の声が洩れた。
間の抜けた声を出す私を見て、草薙さんがくすくす笑っていた。
そして私は草薙さんが笑う姿を見て、自然と『共犯者』の笑みが浮かんでくるのを感じていた。
「まったくもう」
「あの娘ったら本当に」
そんな感じで苦笑し合う様な、どうやら私達は共通の友人に対して、共通の思いを抱いているらしかった。

「唯が気付くまで待ってたら、修学旅行自体が終わっちゃうかもしれない。 そんな訳で、唯に班員探しをさせる事は無理って結論に達したの」
「消去法の意味、よく分かった」
「もう一人に関してはー……ん、まぁアレに関しては今更説明の必要も感じないんだけど、一応ね」

アレ。
話の流れ的に、相沢祐一君の事だと思う。
意図的に名前を呼ばなかったのが私への配慮かどうかは、今程度のやり取りだけじゃ判断できなかった。

「アイツは、自分が嫌われ者だって知ってる。 そのくせ実は寂しがりやで、その上、他人に拒絶される事で、凄く傷付く」

傷付く。
寂しがりや。
思い付く限りの悪魔的な形容詞で語られている、”あの”相沢祐一が。
あまりにも等式で結ぶ事が難しい形容詞の羅列に、私は怪訝な表情を隠す事すらできなかった。
誰が、何で、どうしたですって?

「すごく……納得いかなさそうな顔だね」
「そりゃあ……まぁ…」

傷付くよりも傷付ける方が専門なんじゃないかな、とまでは思わなかった。
それでも、『そんな馬鹿な』ぐらいの事は確実に思ってしまった。
実際、情報自体に信じるべき要素は欠片も存在していない。
少なくとも今の段階ではまだ、『相沢祐一は実は女だった』と言われる方が信用できそうなくらいだった。
納得しろと云う方に無理がある。
どこをどう解釈すれば”あの”相沢祐一が寂しがり屋になるのかと、小一時間ぐらいじっくりと問い質したいくらいの気持ちである。
でも――

「残念ながら、本当なんだなコレが」

形の良い眉をへにゃっと下げながら苦笑いする。
諦観にも似た限りない優しさが、口元に垣間見える。
そんな切ない表情で情報を提供されちゃったもんだから、私はもうこの人になら騙されても良いやとすら思ってしまっていた。
こんなにも『本気』の感情を目の前にして、それを信じられないような自分ではありたくないなと思った。
騙されても本望なのだから、信じる事に躊躇いなどない。
その情報源が草薙さんである限り、私にはそれを信用する以外の選択肢が用意されていない。
愚かしい事だとは理解していながらも、とりあえず全ての情報を『真実』だと認識する事にして、私は話の続きを視線で促す事にした。
物言わず把握してくれる草薙さんの聡明さを、この上なく好ましく思った。

「だから、自分から仲間を探すだなんて事をアイツは死んでもしないだろうし……私もそんな事はさせたくなかった」

誘ったって、絶対に断られるから。
もしくは、報復に怯えた表情を貼り付けながら、作り笑いで了承されるから。
自らの身に置き換えて考えるまでもなく、それはとても心が痛い情景だった。
だけど私には、その痛みに関して同情する権利は与えられていなかった。
何故なら私もまた、他の人と同様に彼の心を傷付ける要因の一つだったのだから。
現に今だって私は、『拒絶の表情』と云う刃で草薙さんを切り付けたばかりなのだから。

「私が班員募集に動いてる理由の説明は、これで終わり。 次は何だっけ?」
「え、あ……な、何で私が選ばれたのか、ってところ」
「選ぶ――って言うとなんかニュアンス違うんだけど、まいっか。 えーと、彩嶺さんに声をかけた理由ね」

そう言ってから、はたと立ち止まって「うーん」と首を傾げる草薙さん。
どうやら理由はちゃんとあるものの、それを言葉にするのは些か厄介な作業であるらしかった。

「唯と友達だから、かなぁ?」
「いや、『かなぁ』って訊かれても……」

そりゃ、『唯と友達だからって理由もある』とは聞いていた。
私自身もその理由であれば、一応ではあるけど納得せざるを得ない説明だった。
だけど、草薙さんはその言葉の中で理由を断言する事はしなかった。
提示された条件以外の存在を示す接続助詞の『も』が、どうしても事を簡単には運ばせてくれなかった。

確かに、『唯と友達だから』って云う理由は、一見すると凄くマトモな様にも思える。
だけどよくよく考えてみると、それは『別に彩嶺京都じゃなくてもいい』って言葉にもなるのだった。
『あなた』が必要なんじゃなく、『唯の友達』が必要なの。
そう言われているみたいで、何だか凄くイヤな気分になる。
だから、草薙さんの口にした『も』と云う言葉の意味が、余計に気になってしょうがなかった。
他に理由があるのであれば、是が非でも聞かせてもらいたいと思っていた。
なのに。
疑問形。
しかも今度は『も』すら付かない。
散々気を持たせておいてそれはあんまりなんじゃないかと、私はこっそり落胆した。
いや、勝手に気を持ったのは私の方なのだけれども。

「ゆんちゃんの友達が必要なら、草薙さんが動かなくてもよかったじゃないですか」
「ん?」
「之々こう云う理由で班員が必要だからって説明して、ゆんちゃん自身に私を誘わせれば良かったじゃないですか、ってことです」
「……ダメなんだ、それじゃ」
「どうして? その方がきっと何倍も交渉はスムーズに進むだろうし――」
「だから、ダメなんだよ」

いつになく歯切れの悪い草薙さんの言葉が、私を少しだけ不安にさせた。
同時に、少しだけ私を意固地にもさせた。
私じゃなくてもいいなら、そう言えばいい。
唯を使って私を抱き込めば、班員獲得なんて簡単に済む。
悪い事だとは思わない、何故ならそれは誰しもがやっている『普通』の事だから。
本気でそう思った。
だから、そう口にした。
『私』がそれで良いと言っているのだから、他には何も問題などないと思い込んでいた。
でも。

「友達だから、しょうがない」

私は、浅墓だった。

「唯がお願いするから、仕方ない」

どうしようもない、偽善者だった。

「そんな理由で一緒の班になったって……そんなのって、誰も楽しくなんかないじゃんか」
「あ……」
「祐一は、間違いなく気付くよ。 色恋沙汰に関しては引っ叩きたくなるほど鈍いくせに、『そう云う事』に関しては呆れるくらい敏感だから」

そう云う事。
私が、相沢君に対して拒絶の意思を持ったまま、それでも『友達のため』と云う理由で我慢しながら、同じ班になろうとしていると云う事。
我慢している、させている。
それにもし気付いてしまったら、気付かせてしまったのなら。
その瞬間の相沢君の心情を思っただけで、私は背筋が凍るかのような怖気を感じた。
『自分が我慢すればいい』だなんて悲劇のヒロインぶって。
その結果がもたらす他人の気持ちを、少しだって思いやる事もできないで。
誰も楽しくない。
いや、『楽しくない』なんてレベルの話じゃない。
自分が軽々しく口にしていたのは『誰に対しても最悪な結末しか残さない選択』なのだと、私は遅まきながらにようやく理解する事ができた。

「彩嶺さんが唯の友達だから。 だから私は彩嶺さんともきっと仲良くなれると思った。 だから、私は彩嶺さんを誘いにきた」
「………」
「だけど、彩嶺さんが唯の友達だから。 だからこそ私は、唯に何も言わずに此処にきた」

「唯自身が私を勧誘しに来れば、事はもっとスムーズに運んだんじゃないか」
私は確かにそう言った。
それは言葉を裏返せば、「唯自身の口からお願い事がされた場合、私がそれを断るのは酷く困難である」と云う事になった。
何故なら、二人は友達だから。
困っているなら助けてあげたいと無条件に思ってしまうぐらい、少なくとも私は唯の事が大好きだから。
そして、私は臆病者だから。
嫌われたくない。
冷たい奴だなんて思われたくない。
直接顔を合わせてお願いされた事を断るだなんて、そんなのは私には難しすぎる。
だから、草薙さんの言っている事の意味はよく判った。
心遣いに感謝できないほど、私は冷血でもないみたいだった。
だけど――

「断ってくれてもいいんだ……その選択肢は、ちゃんとあるよ。 それで彩嶺さんと唯の関係は崩れたりしない。 それは、絶対に約束する」

ぎこちない作り笑顔。
妙にたどたどしく散文的になる言葉。

だけど――それじゃあ、草薙さんが『痛い』じゃないですか

ゆんちゃんにも。
相沢君にも。
誰にも何も理解されないまま、ただただ『誰か』の為の拒絶の矢面に立って。
心無い言葉で切りつけられて。
癒える見込みの無い傷を幾つも幾つも抱え込んで。
『誰も楽しくない』って言ってる草薙さんこそが、誰よりもずっとずっと『痛い』じゃないですか!

言葉にしようとして、結局私は何も言えなかった。
彼女が私の目の前に立っていると云うその事実だけが、全てを雄弁に物語っていた。
草薙さんは、識っている。
痛い事も、切ない事も、自分が動く上で避け様のない事柄だと熟知している。
今更になって覚悟の前段階を穿り返す事は、それこそ彼女に痛みを与える事にしかならない。
悔しいけど自分には何もできないんだなと、私は無力感に苛まれながら静かに悟った。

「あと、もう一つだけ約束する」
「何を…ですか?」
「もし……もしもだけどね。 彩嶺さんが自分の意思で、私たちと同じ班になる事を選んでくれたら――」

そこで一瞬、言葉を切って。
刹那の空白に気を取られた私が草薙さんの方に視線を送るのを、まるで予め計っていたかのように。
真正面から見詰められて。
驚くほど力強い微笑で。

「――その時は、最っ高に楽しい修学旅行になる事を約束するよ。 インディアン、嘘つかない」

そんでもって、いきなりインディアンとか言われてしまったものだから、私はもうどんな反応を示したらよいのか判らなくなってしまっていた。
ツッコミを入れるのは野暮な気がする。
かと言ってスルーするのも気が引ける。
直後に草薙さんが「ほんじゃー今日はこの辺でっ」と別れを切り出してくれた時には、私は心の底から『助かった』と思ってしまったくらいだった。