今になってからも、度々思う。
あれはやはり、草薙さん独自の心優しい気配りだったのだろう、と。
突飛な発言も。
唐突に思える去り際も。
全ては『厄介な相談事から少しでも心を解放してあげたい』と云う、彼女なりの優しさだったに違いないと私は思った。
それはまるで、季節の変わり目に人知れず綻ぶ蕾の様に。
それはまるで、気がつけば空を埋め尽くしている満開のサクラの花の様に。
こんなにも判別しにくい優しさのカタチに、私は今まで出会った事がなかった。
もし仮に出会っていたとしても、きっと何も気付けずに日々を過ごしていたに違いなかった。
草薙さんの傍にいると心が安らぐ理由。
彼女の周りに常に人だかりができる理由。
それは言葉にしてしまえばあまりにも陳腐で、使い古されて手垢の付いた一節の形容詞にしかならない。
だけど私はもう、曖昧な感覚のみで彼女の隣を心地良い場所とし、そこに安寧を求める群集の一端にはなりたくなかった。
全てを包み込むような草薙さんの優しさに、ただただ甘えるだけの存在には戻りたくなかった。
自覚しよう。
確信しよう。
草薙さんはすっごい優しい人で、私は多分そんな草薙さんが大好きで。
そして、だからこそ私は――
――ゆんちゃんっ
あの月曜日の三時間目。
蜂の巣を突付いたような喧騒が支配していた教室の中。
『それ』を目にした時の、胸が締め付けられるような切なさを。
そして、それを遥かに凌駕するほどの、声をあげて泣き出したくなるくらいの強烈な愛しさを、私はきっと忘れない。
――あ…みゃーちゃん
「一緒の班になりませんか」って誘い、もう何人に断られているのだろう。
明らかに落胆しているくせに、それでも『ぜんぜん気にしてません』みたいな感じで。
今までに見た事がないくらいヘタクソな作り笑いを見せる親友の姿が、そこにはあった。
そんな笑顔で誰が騙せると云うのだろう、少なくとも私の事はちっとも騙せてはいない。
窓際の席に座っている眼つきの悪い『彼』の事も、やはり上手には騙せていないみたいだけれども。
それでも唯は、私に泣きついてきたりはしなかった。
草薙さんが言った通りの事が、今まさに目の前で行われていた。
友達だから、声をかけない。
仲の良い間柄だからこそ、私に頼る事をしない。
『既に班のメンバーが決まっている』と唯に告げた過去を、これほどまでに後悔した事はなかった。
知らない間に私も守られていたんだと、思わず涙ぐんでしまいそうになった。
出会った時からずっと変わらない泣き虫のくせに。
野良犬どころか飼い犬に吠えられたくらいで涙目になっちゃうぐらい、どうしようもない弱虫のくせに。
笑ってるね。
何かもう笑顔がふにゃふにゃな感じになっちゃってるけど、それでもゆんちゃん、泣いてないね。
『誰か』のために強くなれる親友の姿に、私は純粋な尊敬の念を抱いた。
だけど、その『誰か』が自分ではない事に、ほんの少しの寂しさも覚えた。
相沢祐一と云う人間に、初めて小さな嫉妬を覚えた瞬間だった。
――ねえ、ゆんちゃん。 もし、よかったらなんだけどさ…
相沢祐一。
日の当たる窓際の席で、一人ぽつんと座っている。
その口元に笑みは無く、眼差しに覇気は無く、周囲には人影もなく。
そして私は今までその光景を、ずっと普通の事だと思って視界に収めてきた。
何故なら、一人ぼっちなのは『彼』だから。
存在を無視されているのは『相沢祐一』だから、それは何もおかしくない事柄なのだと。
私はそう認識して、日々を過ごしていた。
何を感じる事も無く、風景の一部としてそれを捉えていた。
だけど。
草薙さんの口から俄かには信じ難い言葉を聞き、『相沢祐一』を一人の人間として感じられるようになった今。
改めて彼の置かれている状況を確認すると、それは信じられないくらいの異常な空間としてそこに存在していた。
四十人近い生徒がひしめきあっている教室内なのに。
他の人たちはみんな、修学旅行の計画をあーでもないこーでもないと楽しそうに語り合っているのに。
まるでそこだけが別のセカイであるかのように、彼の周囲には何もなかった。
会話も、笑顔も、修学旅行直前の浮かれた雰囲気も、何一つ存在していなかった。
私達は何てモノを内包しているのだろうと、思わず背筋に怖気が走った。
彼の心情を察してとかそんな理由じゃなく、純粋にこの教室が孕んでいる異常さの突端に、私は絶句した。
同時に、そんな状況の中から逃げ出そうとしない彼の精神力にも、私は酷く驚いた。
「寂しがり屋なんだ」と言っていた。
「他人に拒絶される事で酷く傷付く」と、草薙さんは言っていた。
だとしたら今の教室は、彼の事をどれだけ痛めつけているのだろうか。
望んだ訳でもなく与えられた傍観者の立場で、『自分以外』が楽しそうにしているのを見せられる。
和気藹々としているクラスの輪の中に自分の居場所がない事を、これでもかと言うくらいに見せつけられる。
何度も何度も繰り返し、目の前にある現実として叩きつけられる。
『寂しがり屋の相沢祐一』にとって、それは何よりも辛い事であるはずだった。
それなのに彼は自分を傷付けるだけの教室から、一歩たりとて外に出ようとはしていなかった。
逃げ出したって誰も責めたりはしないだろうに、それでも彼はこの教室に留まり続けていた。
恐らくそれは、唯のためになのだろう。
何も感じてない。
何も気にしていない。
教室中から疎外されているこの現状こそが『いつも通り』だから、何も問題はないのだと。
そう振舞う事で彼は、唯に無言のエールを送り続けている。
もしも相沢君が痛みに耐えかねて教室を飛び出してしまったら、唯の頑張りは無駄になるだろう。
向けられる先を失った作り笑いは立ち消えて、後には哀しい涙だけが残ってしまうのだろう。
だから相沢君は、教室に留まり続けている。
拒絶の只中に居座り続けるのはどんなにか辛いだろうに、それでも逃げずに唯の背中を見詰めている。
応援している。
彼もまた、『誰か』のために頑張っているんだなと思った。
そして。
本質的には部外者である私が、相沢君の事に関してこんなにも勝手な憶測を飛ばせる理由が、そこにはちゃんとあった。
気付いていますか、相沢君。
今まで誰も近づかなかったあなたのすぐ後ろに、草薙さんがこっそりとスタンバっている事を。
何があってもすぐにあなたを捉まえてあげられる場所に居て、何もしない振りをしながら全てを優しく包み込んでいる事を。
いつまで気付かずにいるつもりですか、相沢君。
『彼』のために涙を堪える彼女と、『彼女』のために痛みに耐える彼。
そんな二人の世界を見守りながら、ただ独り、まるでお母さんみたいな笑顔で寄り添ってくれている草薙さんがいる事に。
この教室の中で一番不幸みたいに見えるあなたが、実は誰よりも素敵な理解者に巡り合えている事に。
――もし、ね……よかったらでいいんだけどさ…
別に私は、相沢君の何かを信用した訳じゃない。
ゆんちゃんが困っている姿に同情した訳でもない。
だからこれは、無理をしているんじゃない。
何かを我慢しているのでもない。
もっとずっと単純に、私はこの修学旅行を誰よりも楽しみたいと思っただけだった。
そして私の修学旅行が最高のモノになるかどうかの鍵は、どうやら草薙さんたちが握っているみたいだったから。
誰も彼もが不器用で。
今時信じられないぐらいシアワセになるのが下手糞で。
自分の事なんかこれっぽっちも大切にしてあげないで、大好きな『誰か』のためにだけバカみたいに一生懸命で。
だけどそんな関係を、すごく羨ましいって思ってしまったから。
心の底からこの人たちと、一緒の班になりたいと思ったから。
この人たちと共に京都の町を歩けるのは、きっととても素敵な事に違いないと確信したから――
――わ、私と……。 私をっ! ゆ、ゆんちゃんの班に入れてくれないかなあっ!
今になっても不思議に思うくらい、その一言を口にするのはえらく気恥ずかしかった。
今になっても思い返しては頬が緩んでしまうくらい、その一言を告げた瞬間の唯の笑顔は可愛かった。
ぎゅっと両手を握られて、「ありがとうっ」って何度もお礼を言われて。
「ごめんね」って、小さな声で一回だけ謝られて。
それを私は、唯の頭を撫でながら無言で否定した。
元居た班の人達から私が受けるかもしれない、非難や中傷。
不良として名高い相沢祐一と同じ班になる事について、私が抱いているかもしれない不安。
前者への謝罪なら唯が背負う類のものではないし――
もし仮に後者への謝罪だとしたら、それでは相沢君があまりにも可哀相だ。
なんて、心の中でふとそんな事を思ってみたりもしたけれど、私はその数秒後にすぐに考えを改めた。
どうせ唯の事だから何も深い事は考えていなかったに違いないと、本人にはとても言えないような事を私は思った。
何しろ観空唯と云う少女は息を吸うように半泣きになり、息を吐くように「ごめんなさい」と言っているような気質の持ち主である。
今の謝罪だって特に含ませている物など何もなく、私たちが消しゴムの貸し借りをする時に口にしているような「ごめん」と同類だったに違いない。
私は、半ば意図的に自分にそう言い聞かせた。
少なくとも唯に謝らせてしまっているような現状では、私はまだ『そちら側』に立ち入るべきではないのだと直感した。
――相沢さんっ。 メンバー決まりましたよっ
私の背中をぐいぐいと押しながら、相沢君の元へと足を進めるゆんちゃん。
普段とは対照的に積極的なその足取りは、私が同じ班になった事を喜んでくれている証の様な気がして、少しくすぐったかった。
相沢祐一君と、草薙桜さん。
これからは共に多くの時を過ごす事になるのだろう、今まではあまり縁の無かったクラスメイト二人。
厳密には初対面と云う訳でもないのだけれど、いざこうして改めて顔合わせをするとなると、ある程度の緊張感は拭いきれなかった。
「お邪魔します」じゃ変かな……でもいきなり「よろしくお願いします」も何か違う気がする。
かと言って立て板に水を流すような気さくな挨拶なんか私にはできないし……ああ、そう言えば私は愛想笑いも苦手だった。
なんて事だ、総じると今の私は『仏頂面でろくに会話もできない女の子』になってしまうではないか。
いただけない、それは何ともいただけない。
今後の円滑な人間関係と綾嶺京都の名誉のために、そんなネガティブイメージの定着だけは是非ともご遠慮願いたいと私は思った。
加えてもう一つ、どちらかと言えばこちらの憂慮の方が上なのだけれども――
『私』がそんな態度で彼の前に参上してしまえば、きっと彼は何かを誤解してしまうだろう。
浮かない表情や歯切れの悪い言葉などを『拒絶の証』と誤解して、必要以上に自分を責めてしまうだろう。
それは相沢君自身への理解からではなく、『草薙さんと唯が相沢君を守ろうとしている』と云う状況から推測して至った結論だった。
だから私も、彼に余計な負担をかけるまいと思った。
目を逸らしたり、口篭ったり、彼を拒絶する様な振る舞いだけは決してするまいと心に誓った。
まずはちゃんと彼の顔を真正面から見よう。
それから、何はともあれきちんと挨拶をしよう。
並々ならぬ決意を籠めて、私はぐっと拳を握った。
少なくともこの段階で、私の心胆から『恐怖』と言う感情は消え去っていた。
だからあの日、私が目を逸らしたのは、別に相沢君の事が怖かったからではなかった。
相沢君と一緒の班になる事に、特別な抵抗感があったからでもなかった。
唯に背中を押されながら歩いていたあの時。
私が意を決して目線を上げたその延長線上。
自分と同じ班になろうとする人間がいた事に、困惑の表情を隠しきれない相沢君がそこには居て。
そして相沢君の斜め後ろには、彼と同じ班になってくれる人間がいた事に、喜びの表情を隠しきれない草薙さんが居たのだった。
教室の窓から射し込む日の光を背にして。
金色に透ける後れ毛を晩春の風にさらさらと遊ばせながら。
草薙さんは、相沢君の事を優しく見詰めていた。
「よかったね」って。
「あんたもまだ捨てたもんじゃないんだよ」って。
そんな風に語りかけているかのような草薙さんの瞳は、微かに涙で濡れていた。
感極まるほどに自分以外の誰かを想う。
だけど決して『斜め後ろ』の立ち位置から動く事はない。
そんな彼女の生き様に、目眩がするほど強烈に魅入られてしまったその瞬間――
草薙さんが、ふと顔を上げて私の方を見た。
濡れて輝く瞳と、それを感じさせないくらいの満面の笑みとが、私の存在を力いっぱい歓迎してくれた。
それは、『ただのクラスメート』だった私が見た事のない、草薙さんの本気の笑顔だった。
だから私はあの時、目を逸らす事しかできなかった。
それ以上目を合わせていたら、私の方が涙を流してしまいそうだった。
笑顔を返そうとしても無駄だった。
息を吸うだけでしゃくりあげてしまいそうなくらい、涙の予感は色濃いモノだった。
慌てて目を逸らし、口を紡いで、全ての感情が溢れ出すのを必死に堪えた。
笑顔と泣き顔が本質的に同義である事を、私はこの時初めて知らされたのだった。