「……桜がそんな事を…」
「信じられない――とでも言うつもりですか?」

刻一刻と空の色が濃紺に染め上げられつつある、午後六時近くの鴨川沿道。
反語の意図がありありと読み取れる彩嶺の言葉をどこか遠くに聞きながら、俺は自分の感情を整理できずにいた。

信じられない、訳ではない。
むしろ『アイツならそれくらいの事はやりかねない』と、逆に納得さえしてしまいそうになる。
だが、彩嶺の口から『答え』を教えてもらった後でそれを口にするだなんて情けない事を、俺は死んでもしたくないだけだった。

桜は、彩嶺の事を勧誘した。
彩嶺自身はきっと否定するだろうけど、それは確かに『巻き込んだ』と云う言葉の方がしっくりくる形だった。
本当に自慢するような事じゃないんだけど、学内における俺の悪評は、既に不良どころか人外レベルにまで達している。
そんな俺とわざわざ同じ班になろうとする人間なんて、普通に考えればまず存在しているはずがない。
そう、例え最終的な意志決定権が、彩嶺の方にあったとは言え。
最初に働きかけたのが桜の方である以上、やはりそこには『巻き込んだ』と云う罪悪感が根付いているに違いなかった。

『楽しい修学旅行』にしなくてはいけない。
後悔だけはさせてはならない。
何故なら『それ』は、自分が関わらなければ彩嶺が当然の権利として享受するはずだったモノなのだから。
気心の知れた仲間と京の町を歩く時間。
後々まで想い出として語り継ぐだろう大切な時間の共有。
草薙桜は、ある意味では彩嶺京都から、そんな時を過ごす権利を剥奪した。
少なくともアイツはそんな風に考えている。
すぐ傍にいた俺にすら気取らせないほど、圧倒的な『普通』を演じながら。

準備期間を慌ただしく走りぬけ。
初日を完璧に演じ通し。
迎えた今日。
彩嶺を含めた四人で一日を過ごす、班別自主研修。
清水寺ではしゃいで。
地主神社で一騒動起こして。
そして、あの昼下がりの東本願寺の、白く輝く玉砂利の上で。
たった一度。
ほんの一瞬。
ふと気付いた時にはもう隠されてしまっていたけれど、確かに桜の表情がいつもと少しだけ違っていた事を。
俺は、心臓が握り潰されているのかと錯覚するほどの息苦しさと共に思い出した。

――そうか、だからあの時、あいつ――

「……桜が、笑ってたんだ」
「何処で?」
「東本願寺……お前がはしゃいでるのを遠くから眺めてて…それで…あいつ…」
「草薙さん、笑顔でしたか?」
「ああ……笑ってた…楽しそうだった……」

多分、初めて。
この修学旅行が始まって以来初めて――あいつ、初めて心の底から笑いやがった!
馬鹿野郎。
あんのクソ馬鹿野郎が!
たった二泊三日しかない修学旅行なのに!
一生に一度しかない修学旅行を楽しまなきゃ損だって、あいつ今までに何回も俺に偉そうな説教くれやがったくせに!
二日目の午後だぞ。
もう全行程の半分以上消化してんだぞ。
そんな時間になってからしか罪悪感とか義務感から逃れられなかったって!
心の底から笑えなかったって!
人に「楽しめ」って言っといて、それってどうなんだよドチクショウが!!

「そんな顔しないで、相沢クン」
「……他にどんな顔しろってんだよ……今更…」

守られている事に気付かず。
愛されていた事にも気付けず。
あいつが俺を守るために何を背負い、何を犠牲にし、どんな思いで京の町を歩いていたかも気付けなかったくせに。
俺は、何をしていた。
俺は、何を見ていた。
あいつが隣に居てくれるのを当たり前の事だと勘違いしていた俺が、今更どんな顔して桜に会えば――

「ねえ、相沢君」
「……なんだ」
「修学旅行、楽しいよね」

突然の問いかけ。
斜め下から覗き込む鳶色の瞳。
即答できずに固まる俺を置いてけぼりにして、彩嶺が数歩だけ、ててっと道の先に歩みだした。
吐息も、視線も、伸ばした腕さえ届かない。
俺と彼女が本来そうであるべき、二人にとって適切な距離。
だけど、不意に肩越しに振り返った彩嶺がぶつけてきたのは、そんな二人の距離感をぶち壊すほどの優しげな笑顔だった。
恐らくは、意図的に。
それは、お世辞にも無邪気とは呼べない類の笑みだったけれど。
それでも、夕映えの中に輪郭を溶かし込みながらの彼女の微笑みは、言葉にできないくらい素敵な物だった。

「私は楽しいよーっ。 きっと、他の誰かと過ごすよりもっ。 ずっと楽しいって言い切れるっ」

荷物を持った両手をメガホンの様にして。
それが心の底からの感情である事を表現するかの様に。
近く。
遠く。
彩嶺の声が、黄昏の古都に響き渡る。
俺の心に、いつまでも消えない残響を刻み込む。

「だから――ね。 相沢君も、答えてちょうだい。 ”修学旅行は、楽しいですか”?」

彩嶺が笑う事で、桜はようやく赦された。
彩嶺がこうして修学旅行を心の底から楽しんでいると云う事実は、きっと桜に今まで以上の救いを齎すに違いない。
そしてそれは、いつしか彩嶺自身の願い事になっているらしかった。
桜に修学旅行を楽しんでほしい。
もうこれ以上、義務感とか罪悪感なんかに縛られてほしくない。
そのために自分が出来る事があるとすれば、それはきっと『彩嶺京都が修学旅行を楽しむこと』でしかないから――

そうか。
だから彩嶺は、さっきみたいな事をしたのか。
今は此処に居ない桜に向かって、『自分は楽しいんだ』と明言してみせた。
今此処に居る俺に向かって、その言葉に偽りが無い事を破格の笑顔で証明して見せた。
気が付けば俺を呼ぶ声が「相沢さん」ではなく「相沢君」になっている辺りに、彩嶺の本気具合が垣間見えた気がした。

――修学旅行は、楽しいですか?

桜はきっと、”こう”なる事を判っていたんだろう。
お前の身を斬る様な優しさを知ってしまったら、俺が絶対に”こんな顔”をしちまうんだって事を判っていたんだろう。
こんな、自己嫌悪の塊みたいな顔。
お世辞にも『修学旅行を楽しんでる』だなんて言えない顔。
お前は多分、全部判ってたんだな。
全部判ってて、俺にそんな顔をさせたくないって思ったからこそ、お前は全てを隠すつもりになったんだよな。
何もかも独りで背負い込んで。
そのくせ、『自分は何も知りません』みたいな顔して。
本当はお前だってもっともっと、修学旅行を楽しめてたはずなのに!

「……彩嶺」
「はい?」
「修学旅行は……楽しいな」
「いや、全然楽しそうじゃない顔でそんなこと言われても困っちゃうんですけど」
「……嘘じゃない。 楽しいよ、本当に――」

修学旅行が、楽しい。
それは、自分自身でも信じられないくらい素直な気持ちだった。
誰かと一緒の時を過ごす。
日常をそのまま非日常の空間に持ち込んで、境目に触れては奇妙な感覚に恍惚とする。
緋の鳥居。
新緑の木々。
漆喰の壁沿いに初夏の陽射しの下を歩けば、隣を歩いてくれる少女の柔らかな息遣いまでもが感じられた。
楽しかった。
この感情を偽るくらいなら死んだ方がマシなんじゃないかって思えるくらい、この二日間は本当に楽しかった。

「――何も知らずに、楽しんでいたんだ、俺は」

俺は。
桜が捕らわれていた様々な憂いの足枷の存在にも気付かず。
気付いてやれず。
何も知らない阿呆面を下げながら、ただただ修学旅行を楽しんでいた。
楽しんで、しまっていた。
それがどうしようもなく情けなくて、不甲斐なくて、腹立たしい。

「……ねえ、相沢君」
「判ってる。 こんな顔して桜の前に出ちゃいけないってのは、判ってるから……」

桜の願いは、相沢祐一に修学旅行を楽しんでもらうこと。
俺の願いは、桜に修学旅行を楽しんでもらうこと。
まるで鏡合わせの様な俺たちの願いだからこそ、叶えるための条件は笑ってしまうくらいあっけない代物だった。
俺は今まで通りに修学旅行を楽しめばいい。
桜は『修学旅行を楽しんでいる相沢祐一』に満足して、背負い込んだ重荷を下ろせばいい。
要するに、全てを最初から無かった事にさえしてしまえれば、桜は笑ってくれるはずだった。

「……寒くなってきましたね。 そろそろ旅館、戻りましょうか」

拳を握り締めて立ち尽くす俺の事を気遣ってくれたのか、彩嶺が優しく笑いかけてくれる。
新京極からこっちの僅かな時間の事でしかないが、彼女の笑顔は明らかに今までの『それ』とは違った様相を見せ始めていた。
そして、薄暮に滲む五条大橋を背にながら、こちらにつ―と手を差し伸べる彩嶺の姿を見た瞬間。
俺は、ふと濃密な涙の気配に襲われた。

「――っ!」

差し伸べられた白い腕。
細い指。
誘(いざな)う言葉。
全てを許容してくれる笑顔。
柔らかな微笑を湛えながら手を差し伸べる彩嶺の仕草は、俺に『あの瞬間』の事を鮮明に思い出させていた。
呼吸すら苦しくなるほどの切なさと、声も出せなくなるほどの愛しさ。
新幹線の中で桜が俺の手を取ってくれた、あの泣き出したくなるような瞬間の事を。

「……ごめん」

そして、思い出してしまったからにはもう無理だった。
『全てを最初から無かった事にする』なんて、どう考えたってやり通せそうに無かった。
だって、俺の手は覚えている。
独り佇むだけだった『境界線』の外側の俺を、強く優しく引っ張り上げてくれた、あいつの掌の暖かさを。
今もまだ、はっきりと覚えているから――

「やっぱり俺……旅館には戻れない」

本当は多分、キミの選択の方が正しい。
このまま旅館に戻って、幾許かの時間を心静かに過ごして。
戻ってきた桜を何事もなかったかの様に笑って迎えてあげるのが、きっと一番優しい選択なんだと思う。
だから、ごめん。
親切にも示してくれた『正解』に背中を向けるような真似しかできなくて、ホントごめん。
俺は、馬鹿だから。
自分の感情でしか動く事のできない馬鹿だから。
桜がくれた喜びとか、楽しさとか、握ってくれた手の温もりとかを、『最初からなかった事』になんて、どうしてもできないから――

「うん、大丈夫。 どうせ最初からそのつもりだったから」
「……へ?」
「別に幼稚園児じゃないんだから、一人でだって迷子になったりしませんよ」
「うあ?」

くすくすくす。
状況が飲み込めずに間抜けな声を出してしまう俺を見て、彩嶺が零れるような微笑を見せた。
とても、可愛かった。

「ほら、そんなに『悪い事した』って顔しないで? 別に、『私よりも草薙さんを選ぶのねーっ』なんて言ったりしないから、さ」
「いや、その発想はなかったけど……」
「それに――」
「ん?」
「相沢君が私の話を聞いても草薙さんを探しに行かないような人だったら、一緒に旅館まで歩くのなんて、こっちの方から願い下げだものっ」

べーっ、と舌を出し、逃げる様にもう半歩だけ俺から遠ざかってから、再び振り返る。
やっぱりお世辞にも無邪気とは呼べない、だけどやっぱり素敵な笑顔。
何かをやり遂げた感のある彩嶺の表情から察するに、どうやら彼女は最初から終着点を此処に定めていたらしかった。
まったく……敵わないな、女ってヤツには。

「それじゃ、行ってくる。 グズグズしてると彩嶺さんに愛想尽かされちまうからな」
「ん? んふふふふー」
「な、何だその笑いは」
「尽かさないよ、愛想。 何か私、相沢君のこと気に入っちゃったみたいだから」
「……今、何て?」
「あーもう、さっさと行け! 私じゃなくて草薙さんが愛想尽かすぞっ!」
「うあ、お、おうっ! また後でな!」

そして、ほんの僅かな逡巡の後。
相沢祐一は、止む事のない一迅の風となった。