――伝えたい事があるんだ

夕暮れに霞む五条大橋。
笑顔で手を振ってくれた彩嶺。
約束されていた平穏な『これから』と、仮初めではあるが帰るべき場所/宿。
掛け値なしに『素敵だ』と思えるそれら全てに背を向けて。
俺は、ただひたすらに走っていた。

――お前に、どうしても伝えたい言葉があるんだ

鴨川の流れに逆らい。
行き交う人から奇異の視線を集めながら。
それでも、決して足を止めたりせず。
材木町を過ぎ。
和泉屋町を越え。
天王町を通り過ぎた辺りで、さすがに息が切れ始めたけれども。
四条大橋が俺に、目的地が近い事を知らせる。
『新京極へおいでやす』の紙袋と擦れ違う度に、鼓動が激しさを増していく。
そして、息も絶え絶えになりながら辿り着いた『その場所』は――

「どこから……沸いてきてんだよ…コイツラは…」

つい数十分前と何ら変わる事もなく。
それどころかむしろ増えているんじゃないかと思ってしまうくらい、馬鹿みたいな数の学生で溢れ返っていた。
通路だけではなく、視界までをも埋め尽くす人込み。
身を擦り合う様にして行きかう学生服の群れに、半ば生理的な嫌悪感すら覚える。
既に『声』としての様相すら持ち合わせていない人々のどよめきは、俺の心に微かな不安の種を植え付けた。
こんなにも溢れ返っている雑多な人の中から。
まっすぐ歩く事すら出来ない様な、今まで経験してきた中でも一番酷い人込みの中から。
探し出せるのか。
巡り会う事ができるのか。
逢いたい人にだけ今すぐに、この土地勘も何もない非日常の町中で。
もしそれを全くの偶然に望むのだとしたら、まるで奇跡を願うかの様な途方もないハナシなのではないのだろうか。

荒れた呼吸。
震える膝頭。
頬に流れる熱い汗と、耳に煩いほどの脈動。
慣れない旅路にて積もり積もった肉体の疲労は、今まさにピークを迎えようとしていた。
諦めてしまえば楽になれる。
最初から無理な話だったと納得する事もできる。
別に今此処でアイツに逢う事ができなくたって、これが今生の別れになると云う訳でもないのに――

――それでも俺は、『アイツならきっと』って思ってしまうから

見付け出してくれる。
名前を呼んでくれる。
もう二度と独りはぐれてしまわない様にと、強く手を繋いでいてくれる。
どんなに遠くに居ても。
どんな人込みに紛れていても。
たとえ俺自身が身を隠していたとしても、アイツならすぐに見付け出してくれるような気がしてしまうから。

だから、相沢祐一にだって『それ』が出来なきゃ嘘なんじゃないかと、何の根拠もないけど俺は強くそう思った。

お前にできて、俺にできないこと。
お前の方が凄いトコ。
そんなの数え上げれば切りがないし、真面目に考える程に自分の不甲斐なさが情けなくなってきてしまう。
『お前にもできるから俺にもできるはずだ』なんて論法が、全てに通じると思い込めるほど自惚れている訳でもない。
だけど。
そんな俺にもただ一つだけ、お前に負けていないモノがあるから。
お前ににすら誇れるだけの強さを持った、単結晶の様な想いが今此処にあるから。
こればっかりは譲れない。
俺の中の『こいつ』をここまで育てちまったお前にだからこそ、これから先は、絶対に譲らない。

逡巡の時間は僅かに十数秒。
呼吸は整った。
膝の震えも収まった。
額に滲んだ汗を拭い去り、想いと同じだけの熱量を含んだ掌を、ぐっと握って拳にする。
考えてみればこの『慣れない旅の疲れ』なんて代物も、アイツが俺にくれた掛け替えのない『しあわせ』の内の一つだった。
まったくもって信じられない。
今更ながらに驚かされる。
”あの”相沢祐一が修学旅行で朝から晩まではしゃぎまくって、体力消耗しすぎてヘロヘロになってるんだってさ。
あまりに不測の事態に、思わず笑いが込み上げてくる。
自嘲の意味なんかこれっぽっちも含まれていない、純粋に快い笑いの衝動。
自分が本当に『楽しくて笑っている』のだと気付いた時、俺の足は自然と人込みの方へと動き始めていた。

包装ばかり大仰な箱菓子。
金糸銀糸が目映い三角のペナント。
小さなガラスケースの中に鎮座している、ミニチュアで金ぴかの五重塔。

店の中を覗き込んでは、アイツが居ない事に落胆して。

段だら模様の新撰組はっぴ。
色とりどりのちりめん雑貨。
何故だかこの場に馴染んでいる、信楽焼きのたぬきの置物。

行き交う人と肩をぶつけては、柄にもなく「すいません」なんて言葉を大安売りして。

『根性!』と描かれたキーホルダー。
雨が降ったら即座に解けてしまいそうな番傘。
木刀や模造刀で止めておけば良いものを、ヌンチャクやメリケンサックまで売っている何とも胡散臭い店。
生八つ橋。
草団子。
京湯葉、宇治茶、豆乳ドーナツ、そして――

抹茶プリンを売っている店の軒先に独り佇む、華奢な体躯のポニーテールを見つけた瞬間。
長年連れ添った俺の思考回路の重要な部分が、派手な音を立てながら盛大な勢いで吹っ飛んでいった。

「――っ、桜ぁ!!」
「あい?」

自分の名前が呼ばれた事に反応して。
どこからの声だったのかときょろきょろ辺りを見回して。
人波を掻き分けながら必死で駆け寄ろうとしている俺と目が合うと、桜はまるで花の咲く様な笑顔で大きく手を振ってくれた。
自分は此処に居るから。
何処にも行かないでちゃんと待っててあげるから。
だから、アンタもはやくこっちにおいで。
そんな風に言われているような気がした。
ほんの些細な歓迎の仕草や表情が、何だか無性に嬉しかった。

「もー、はぐれちゃダメって言ったじゃんかー。 って、みゃーちゃんは?」

――伝えたい事があるんだ

「唯は今ね、抹茶プリン買ってるところ。 あの娘ったらこの店を見た瞬間から目の色が変わっちゃって、もう可愛いったらありゃしない」

――お前に、どうしても伝えなきゃいけない事があるんだ

「あ。 そう言えばさっきあっちの方に、アンタが好きそうな爺むさい小物屋が」
「桜っ!!」
「うひぁいっ!?」

たった数十分くらいでしかなかった『離れていた時間』の報告を、律儀に無邪気に報告してくれる。
俺がその場に居ない時だって、何だかんだで俺の事を心の片隅に留めておいてくれている。
身震いしそうなほど嬉しくてしょうがない。
零れ落ちてしまいそうなこの想いを伝えたくて仕方がない。
だから、そんな桜の華奢な両肩を、至近距離から思い切り鷲掴みにして。
意図せず驚かせてしまったみたいだけど、そんな事にすら構っていられずに、俺は――

「――あ」

だけど、最初の一文字を『想い』から『言葉』に変えて口に出したその瞬間。
俺はこの気持ちを伝えるのに適した言の葉が、『ありがとう』じゃない事に気が付いた。

「あ、……あー……」

違う。
『ありがとう』じゃない。
だって『感謝の言葉』なんかでこの感情を括ってしまったら、桜はきっとマトモにそれを取り合ってくれなくなる。
最初から知らせる気もなかった優しさに対する感謝の言葉なんて、両耳を塞がれるか困った顔をさせてしまうのが関の山だ。
感謝してほしかったんじゃない。
そもそも知られる事すら望んでいなかった。
何故ならその事実が反証する真実を俺が知ってしまう事は、桜にとって何よりも本位ではない事のはずだったからだ。
作為的に紡がれた『シアワセ』。
桜の優しさが作り出した、『相沢祐一にとって楽しい修学旅行』。
しかしそれらは逆説的に、『シアワセは仕組まれなければならなかったのだ』と物語る何よりの証拠でもあるのだった。
俺が桜の奔走を知れば、確実にその背景に思い至るだろう。
桜自身がそう思っているか否かに関わらず、知ってしまえば俺はその事実を『そう』としか受け取らないだろうから
だからこそこいつは、その優しさを全て隠す事にした。
優しさを優しさで覆い隠し、絹で織られた二重衣(ふたえごろも)の様に、そっと俺の視界に霞をかけた。

――気付かなくていい
――知らずにいてくれて構わない
――アンタは自分自身の力でちゃんと、幸せになれるように出来ているんだから

不意に、泣きそうになった。
必死で涙をこらえたら、喉の奥が詰まって尚更「あ」の次の言葉が出てこなくなった。
この気持ちは、『ありがとう』じゃ伝わらない。
お前に対するこの想いは、感謝なんて範疇に収まったりしない。
『お前の存在その物が俺の救いになっている』なんて抽象的な想い、どんな言葉にすれば伝える事ができるって言うんだろう。
こんな事になるのなら、もっと真面目に国語の授業を受けていればよかった。
『今更この俺に母国語を教えようなどと』なんて言わずに、ちゃんと先生の話に耳を傾けていればよかった。
こんなにも伝えたい想いを言葉にする事すらできないくせに、俺は一体何を知った気になっていたのだろうか。

「あ?」

小首を軽く傾げながら、桜色の唇を形良く開き、紡がれる澄み切った単音。
「あ」。
喉頭を吹き抜けた空気が鮮やかな声として俺の鼓膜に響き渡り、俺の心に滑り落ちてくる。
何度でも聞きたいと、何時までも聞いていたいとさえ思ってしまう。
五十音の始まり。
全ての始まり。
俺が今、桜に伝えたいと思っていること。

「あ―――」

「ありがとう」じゃない。
だけど、何故か最初の一文字が「あ」に固定されてしまって他の単語が出てこない。
逢いたかった。
伝えたかった。
だからここまで走ってきた。
修学旅行が楽しいんだ。
彩嶺もすごい楽しそうに笑ってたんだ。
ぜんぶ全部お前が居てくれたからで、だけど今までずっとお前に心配かけてばっかりで。
お前にも笑ってほしくて、背負った荷物を全部投げ捨ててほしくて、一緒に修学旅行を楽しみたくて。
いつも護ってもらうばかりじゃ情けなくて。
たまには俺だってお前を笑わせてやりたくて。
俺は。
俺だって。
お前の事を、誰にも負けないくらいに強く――

あ。

あ――















「あ―――――あ、愛してるぞーっ!! 桜ぁーっ!!」















それから、数秒間の沈黙の後。
俺に両肩を掴まれているが故に逃げ場のない桜の頬が、緋色の鳥居もびっくりするほど赤く紅くに染まっていった。