始めに言っておきたい事がある。
この物語には、明確な正義など存在しない。
それと同時に、明確な悪も存在しない。
明確な幸せも当然無いし、明確な不幸せもまた無い。
それだけ判ってくれていれば、後は読むか読まないかは各個の判断に任せる。
 
物語は、ローマ、ヴァチカン市国内にあるシスティーナ礼拝堂の大聖堂から始まる。
そこはユリウス二世の時代より存在する、由緒正しいカトリックの教会であった。
長い年月による風化を微塵も見せず、それでいて圧倒的な威厳はまったく他を寄せ付けない。
国宝級の壁画と天上画を有するそこは、間違いなく世界に名だたる建築物の一つであった。

その中に、一人の少女が居た。
銀色に透ける髪を時折吹く風に揺らしながら、明り取りのステンドグラスをぼんやりと見詰める。
所在無さげに両手を前で組み、垂れ気味の眉が彩るその顔からはありありと『不満です』との感情が読み取れた。
『何で私が?』
本来一般人立ち入り禁止の筈の大聖堂に彼女が居る理由も、彼女の不満そうな挙動の理由も、つまりはこの一言に収束する事が出来るのだった。

全校生徒数、二百余名。
半寮制。
厳格な校則と、それに似つかわしくないほどの生徒の笑顔溢れる紳学校。
それが、彼女の通う『聖ヨゼフ紳学校』であった。
小高い丘の上に位置するそこは、他国にまで名が知れ渡るほどの『超』が付くお嬢様学校であり、ちなみに女子校である。
シスター服に何処か通じる黒を基調とした清楚な制服。
だけど襟足や袖口から覗くのは、白いフリフリ。
所謂ゴスロリちっくなその制服は、町はおろか他国の人間すらも目を奪われて然るべき可愛さを誇る物であった。

エマが午前の神学を終えてお昼休みに教室でもぐもぐとお弁当を食べていたら、突然放送がかかった。
それも、全校放送じゃなくて全市放送。
よほど火急の事態でなくては使用されない全市放送で一体何が放送されるかと、全校生徒はお昼休みにも関わらず見を堅くした。
当然、エマも。
ひょっとしたら法皇様直々の放送かもしれない。
そうでなくとも、それ相応の事態には違いない。
一言たりとて聞き逃す事の無いように―――

『あー、エマ? 聞こえてるか? エマ=ウィルヘルミナ=雪華。
 俺だよ俺、ブラムだ。
 あのな、放課後になったらシスティーナ礼拝堂に来てくれ。
 もちろんお前一人で。
 大事な話があるんだ。
 お前にしか言えない。
 お前以外じゃダメな話があるんだ。
 来てくれるな?
 俺は待ってるぞ。
 お前の事を信じて待ってるからな。
 そんじゃ。
 あーそれと、帰りにパプリカを買ってきてほしいとエレナが言ってたぞ。
 こんどこそ、じゃーな。 ガチャン ツー ツー』

全校が凍った。
それから数秒後、今度は爆発した。
それもそのはず。
『ブラム』と言うのは、今やこの町で最も知名度が高いであろう若き天才枢機卿様なのだから。
漆黒の長髪に、漆黒の瞳。
先の復活祭で整然と祝詞を読むその姿には、追っかけが出るほどの人気ぶりだった。
『その』ブラムと、我が校自慢の由緒正しいウィルヘルミナ家のご令嬢であるエマが?
誰も居ない聖なる教会で背徳的な雰囲気に流されたブラムはエマの細い身体を以下省略。
いやん、素敵。
皆が煩悩から帰還し、どういう事なのかとエマを問い詰めようとしたその時には、エマの姿は最早教室には無かった。

放課後を待たず、午後の授業も待たず、お弁当も半分残したままで、エマはシスティーナ礼拝堂までの道を駆け出していた。
あんな放送があった後で授業に集中するなんて、自分では有り得ない。
きっと羞恥で死んでしまう。
学校を飛び出し、丘を駈け抜け、一目散に礼拝堂まで走っていく中で、エマは一つの事に気付いた。
すれ違うみんなが自分の事を見ている。
パン屋のおじさんも、お菓子やのおばさんも、塀の上の黒猫も。

「うぅぅ……おじさんの馬鹿ぁっ!」

あんな放送があった後で街を走るなんて、浅はかだった。
これじゃまるで『私がエマです』って言って回るようなものではないか。
なんと自分の考えの足りない事か。

後悔の念はしかし、その場に留まる事を許すまでには至らなかった。
もとい、この場で立ち止まったとしてもその他にやる事が無い。
それどころか奇異と好奇の視線に晒される事は明らかだ。
どうせ同じく見られるのだったら、一刻も早く礼拝堂まで走ったほうが何倍かマシだ。
走れエマ。
走ったその先に石細工師のセイヌンティウスはおろか暴君ディオニスすら居ないが、とにかく走れ。
エマは、残り少ない体力を振り絞って一心不乱に走り続けた。
体育の成績が2であるエマの全速力は多分にのろかったのだけれども、それも多分些細な事なのだろう。