初め見た時は、カラスの何かと思った。
もう少し近づいて見た時には、大きな黒いゴミ袋だと思った。

「何だろ……」

年齢相応の好奇心が働き、エマはてこてことその『黒い何か』に近付いた。
近付くにつれ、その『何か』の詳細が鮮明になってくる。
10メートルまで近付いた時点で、『何か』の正体がハッキリした。
人。
正確には、倒れている人。
アスファルトの地面にうつ伏せに突っ伏し、息もしてないんじゃないかと思うほどその身体に動きは見られなかった。
頭の先からつま先まで、兎に角真っ黒。
これじゃあ遠くから見たらゴミ袋と見紛うのも無理は無い。
うん、無理は無い。
ってそうじゃなくて!!

「だ、大丈夫ですかっ!?」

また、エマの繰る言語がイタリア語に戻った。
つまりはそれほどエマが慌てていたと言う事なのだが。
わたわたしながら一心不乱に倒れている黒い人の元に駆け寄り、必死に声をかけた。
勿論、イタリア語で。
何度も何度も声をかけたが、倒れている男が起きる気配は無かった。
むしろ、黒い服に雪がちらちらと積っていく様は宛ら死体を見ているようでもあった。
エマは当然の如く先程までよりも焦り出す。
助けを求めて右を見、左を見、誰も居ない事を知って途方に暮れた。
どうしようどうしようどうしよう。
このままじゃこの人は死んじゃう。

「起きてくださいっ! 起きてくださいっ!」

ゆさゆさゆさ。
揺さぶられる黒い人。
反動で長い前髪が揺れ、顔が見えた。
男の人だった。
何となくはエマも気付いてはいたのだが、細身の身体と長い髪の毛を見るに、どうにも一概に男とは認識しきれてはいなかった。
もっとも、今の時点ではこの倒れている黒いのが男だろうが女だろうがオカマだろうがエマにはまったくもって関係の無い事柄なのだが。
ゆさゆさゆさ。
頭ががっくんがっくん揺れるほど強く揺さぶった。
それでも、男は一向に起きる気配を示さなかった。
ひょっとしたらもう……
何とも嫌な可能性がエマの脳裏を横切った。
だが、今のこの状況を鑑みるに、あながちその可能性も否定できない。

「………」

エマは男を抱き起こし、そーっと心臓に手を当ててみた。
し―――――ん。
何の音もしてなかった。
ひ、ひぅぅぅぅぅ!!
声にならない叫び声を上げ、エマは思わず男から飛びのいた。
支えを失った男の身体が宙に放り出され、ニュートンが提唱した理論と寸分違う事無く重力に引っ張られてアスファルトの地面に頭から激突した。
ゴンっと鈍い音がした。

「あぁっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

聞こえているか聞こえていないかも判らない男に向かって、ひたすらに謝るエマ。
もう一度その身体を抱き上げ、その服装が結構な厚着である事に気付いた。
そりゃそうである。
今は冬だし、雪だってちらついている。
こんな中を薄着でうろうろするのはよっぽどの馬鹿か凍死志願者かハメハメハ大王ぐらいなものだ。
つまり何が言いたいかと言うと。

「……こんな厚着の上からじゃ心臓の鼓動なんて感じれる訳無いじゃん」

改めて言葉に出してみた。
何だか、ちょっとだけ希望の光が見えた。
そう、この人はまだ死んでないかもしれないではないか。
早とちりで救えるはずの命を捨てるなんて、神の僕のする事ではない。
もう一度、今度はより確かな方法でこの人の命の有無を確かめてみようではないか。

「………」

服の下に直で手を突っ込んで鼓動を確かめる方法は、何となく気が引ける。
エマは生まれて此の方、ただの一度だって男の人の肌に直接振れた事なんて無かった。
しかもそれが頬や額ではなく、心臓と言うからには服をたくし上げて触らなくてはならない場所ならば尚更の事。
単純に男に免疫の無いエマにとっては、それは未知の領域でそれ故にとても怖い事だった。
次に考えたのは、脈を取る事。
手首でも、首でも、指を当てて脈が在る事を確認出来ればそれで良い。
よーし、手首くらいなら、うん、恐くない、ような気がする。

「えーと……えーと……」

男の右手を持ち上げ、その手首に指を宛がってみた。
何の動きも無かった。
や、やっぱり!?
さーっとエマの顔が青ざめる。
だが、よーく指に神経を集中してみると、脈動どころか自分の指の感覚すら定かでなかった。
要するに、寒さで指が悴んでいた。
なるほど、だから脈を感じれなかったのか。
えーとえーと、そうすると他には……

「息……してるのかな」

この選択肢を最後まで残しておいたのには勿論理由があった。
指が悴んで使い物にならないとなれば尚更だ。
息。
大抵の場合、それは口から吸ったり吐いたりされる。
それを感じる為には、やっぱり口に近付けなければならないのだ。
何処を?
視覚は呼吸を見極められないし、味覚は何の意味も成さない。
触覚はさっき役に立たない事を発見したし、嗅覚だって呼吸には何の関係も無い。
第六感があったら、そもそもこんな事で苦労していない。
消去法で言ってもそうじゃなくても、結局残っているのは聴覚しかなかった。
だが、だからこそエマは戸惑っていた。
男の人の唇に自分の耳を近づける。
それはその、計らずとも、所謂、何と言うか、世間一般的には『キス』と呼ばれる体勢に近いものになる。
エマだって十三歳の女の娘。
箱入りのお嬢とは言え、学校に行けば友達だっているし『そう言う』話だって自然と聞こえてくる。
勿論『した』事なんて一度も無いのだが。
それ故に、やっぱりエマはちょっと恐いし恥かしかった。
でも、背に腹は代えられない。
人の命に自分の羞恥心など代えられない。
エマは意を決し、抱き抱えている男の唇に耳を近づけた。
まだ遠い。
まだ遠い。

もう少しで触れてしまうんじゃないかと言う所まで近付いた時、突如として男の体が跳ねるように動き、エマはその首筋に生まれて此の方感じた事の無い種類の痛みを感じた。