「名雪? ちょっと良いかしら」
「なーにー?」

階下からの呼び掛けに、やたらとのんびりした応答が返って来る。
どうもそれは眠気とか気だるさの所為ではなく、純粋に返事をした少女の気質故の事らしい。
弱い陽光を反射して美しく光る青いロングヘアーを靡かせ、ふわふわと階段を降りてくる少女の名前は、水瀬名雪。
やっとの思いで冬季課外を終えた彼女は、現在はホットミルクを飲みながら部屋でのんびりしていた所だった。
取り敢えず、課外中に理解できなかった積分関数とベクトル方程式の複合問題の事は頭の片隅に追い遣って。

「実はね、今日から家族の人数がもう一人増える事になったの」

『今日はお肉屋さんで豚コマが安かったの』に匹敵するほどの軽々しさで言い放たれる家族増加報告。
本当はそう言う事はもっと深刻に、且つ一ヶ月くらい前から言っておくべき事なんじゃないだろうか。
名雪は自分ののんびり具合を棚に上げてそう思った。
少なくとも、『今日から』の範囲内で喋るべき事柄ではないような気がする。

「わ、びっくり」

ちっともこれっぽっちもかんっぺきにびっくりしている様には聞こえないが、それでも一応は驚いているらしい。
名雪はその形の良い眉を三割ほど上方へと動かし、その驚きぶりをアピールしていた。

「最近忙しくて言うのを忘れちゃってたの。 びっくりさせてごめんね」
「家族が増えるって……まさかお母さん再こ、ん、は、無いよね、うん、無いね」

空気の変化を敏感に察知し、慌てて失言を取り消す名雪。
普段からは予想もつかないほど俊敏な反応だった。
本能の方も流石に生命に関わる事態に付いては『のんびり』の4文字で済ます訳にもいかなかったのだろう。
額に張りついた汗と乾いた笑いが何となく痛々しかった。

「私が生涯で愛する人は雪人さんだけよ」

昔を愛しむかの様に目を薄く閉じ、詠う様に、自分に言い聞かせる様に秋子はそっと呟いた。
自分の母でありながら、その美しい容姿には幾度も『負け』を実感している名雪。
今回もまた、目の前に居る一個の女性である秋子に敗北感を禁じえなかった。
それと同時に、小さな罪悪感が名雪の心をちくりと刺した。

「そうだよね……写真でしか見たこと無いけど、お父さん、格好良いもんね」
「容姿だけで惚れた訳じゃないけど、ええ。 確かに雪人さんは格好良かったわよ」
「わ、実の娘に惚気だよ」

何処か茶化す様に笑う名雪に、秋子もまた微笑を浮かべる。
華のような、と言う比喩がピッタリ当て嵌まるほど綺麗な光景だった。

「そうそう、それでね」
「んー?」
「今日から家に来る新しい家族なんだけど、実はお義兄さんからのお願いなの」
「お義兄さんって、祐一のお父さんの事?」
「いいえ、雪人さんのお兄さんの方よ」

そこまで言うと、秋子はハンドバッグの中から一通のエアーメールを取り出して名雪に見せた。
それを割れ物でも扱うかのように丁寧に受け取り、傾けたり逆様にしてみたりする名雪。
だが、どんな角度から見ても差出人の名前は日本の漢字で『水瀬桃華』と書かれていた。
エアーメールなのに書いたのは外人じゃない。
外国にだって日本人は沢山住んでいると言うのに、名雪の短絡的思考はそれを頑として受け付けようとしなかった。

「何で?」
「何が?」
「外人さんじゃないよ?」
「ええ、雪人さんがそうだったように、桃華さんも立派な日本人よ」
「何で外国の手紙?」
「桃華さんは今ね、外国で仕事をしてるの」
「………あ、あー、あー」

やっとの事で簡単過ぎる方程式を理解した名雪は、しきりに首をこくこくと頷いて見せた。
そんなに理解に苦しむような事柄でもなかっただろうに。

「家に来る娘はね、見聞を広める為の観光旅行なんですって。 何でも桃華さんの言う事によると、『箱入りのお嬢で世間知らず』だそうよ?」
「それじゃ、今日は歓迎のパーティーだね」
「そうね。 楽しみだわ」

本当に楽しそうにニコニコする秋子。
久し振りにパーティー用の料理を作れる事が嬉しくて仕方ない様だった。
それと、家族が増える事も。

「ところでさ、家に来る娘の名前、何て言うの?」
「えーとね………」