どうしようどうしようどうしようっ!!
ニンニク、ない。
太陽、出てるのに効果ない。
木の杭、持ってない。
銀の弾丸、そもそも拳銃なんかない。
あわわわわわわぁ!!!

平和な平和な街の一角で、エマは人生最大の危機を味わっていた。
目の前に吸血鬼が居る。
普通の人だって驚くであろうその事態は、しかしエマにとっては通常以上の驚愕を齎していた。

そもそもが、エマが日本くんだりにまでやって来た理由が吸血鬼の存在の確認なのだ。
その全ての原因とも呼べる存在が、日本にやって来たその日に見付かるなんて、これは僥倖なのだろうか。
これからの任務遂行に対する神の思し召しなのだろうか。
疑う余地もなく、そんな訳が無かった。

エマの任務はあくまで『現状視察』である。
辞典でその意味を調べれば判るが、まぁ砕けた言い方をすれば『見てるだけ』がエマの任務である。
もちろんエマもそのつもりで日本行きを承諾したのだし、それ以外の事なんて考えただけでも恐ろしくって出来る訳が無かった。
そう、エマの仕事は『吸血鬼を見つける事』であり、どこをどう間違ったって『吸血鬼と対峙し、退治する事』ではないのだ。

「………き、吸血鬼?」
「ああ。 少なくとも人の形をした蚊じゃない事は確かだな」

恐る恐る質問するエマに対し、祐一は実にあっけらかんと答えた。
その表情からは、『生きてるって素晴らしい』と言う感情が明確に読み取れる。
もっとも祐一の『肉体』自体は既に命在るものではないのだが、この際それは放っておく。

「あ、あれ? ひょっとして脅えてる?」

自分の事を穴が開くほど凝視しているエマに、祐一は幾分決まり悪そうに頭を掻いた。
やれやれ、困ったな。
祐一としては少女を恐がらせる気なんかこれっぽっちも無かったのだが、それはそれ。
恐がらせる気が有ったにしろ無かったにしろ、実際に祐一が行ったのは十二分に少女を恐がらせる類の行為だったのだから。

「ゴメンな。 恐がらせる気は無かったんだが……こっちも必死だったんだ」
「…………」

自分はどうするべきか。
神の忠実な僕として、自分は何をするべきか。
例えば走って逃げたとしても、徒労に終わるだろう。
何故なら自分には体力が無い。
驚くほど無い。
いっそ潔いくらい無い。
走って逃げたって五十メートル以内に捕まってしまう事はそれこそ目に見えている。

逃げられない。
いや、逃げてはいけない。
そもそも目の前に居るのは神の敵対者なのだ。
燦爛たる神の威光に背を向けた忌まわしき簒奪者なのだ。
そして、神の敵ならば自分の敵でもある。

「………」
「あー、えーと?」

恐い。
すんごく恐い。
ひょっとしたら自分なんかがいくら立ち向かったって勝てる相手じゃないかもしれない。
抵抗は無駄に終わるかもしれない。
だけど――――――
逃げちゃいけない!
私を認めてくれた法皇庁の人達の為にも、今までに吸血鬼の犠牲となった人達の為にも、私を心配そうな顔で送り出してくれたブラムおじさんの為にも!

「私は第二バチカン公会議公認特務省従属異国特殊………えーとえーと、なんとか諜報員、エマ=ウィルヘルミナ=雪華!」
「……あい?」
「絶対なる主の御名の元に、あ、あ、あ、貴方を滅します!」

イタリア語。
英語すらちんぷんかんぷんなのにまたそれとも違う言語でそんなこと言われたって、祐一にはエマの言う事が微塵も判らなかった。
せいぜい思う事と言えば、『ああこの娘は外人さんなんだな』ぐらい。
間違っても、この少女が今から自分を滅そうだなんて思っているとは、微塵も考えつかなかった。

「退ける光よ。 焦がす光よ。 影を消し魔を灼き、祖の悪を滅せ」

エマの周囲に、確かに変化が起きた。
始めは錯覚にも取れるほど淡く、しかし呪文の詠唱と共にその光は強く。
まるで蛍の光の様にエマの周囲に浮かぶその光りは、対峙している祐一の網膜を次々と焦がし始めた。
見るだけで、灼ける。
エマの退魔師としての力は、その頼り無い外見とは裏腹に、驚くほどの高みに在るものだった。

「ぐぅっ!」

祐一は小さく苦痛の声を漏らし、瞼を完全に閉ざした。
一体全体、何がどうなっているのか。
何が何だか判らないが、とにかく今は眼が痛い。
恐らくは『聖なるもの』に振れた時と同じ反応なのだろうが、今までだって『見た』だけで焼け爛れた事なんか一回も無い。
十字架を見たって、せいぜい気分が極限まで悪くなるだけだった。
第一して、見ただけでアウトになるんだったら俺の人生はとっくの昔にスリーアウトだ。
そんな見当違いな事を思いながらも、祐一の本能は確かに危険信号を放っていた。
『この少女はヤバイ』
見た目は可愛いし声も綺麗だしスタイル……は貧相だが別に嫌いじゃないが、何かがマズイ。
と、不意に思い当たる節が見付かった。
服装。
ゴスロリっぽいと認識していただけだったが、よくよく考えてみればアレは―――
シスター服っ!

「ブライト!」

ノアっ?
くっだらない突っ込みを心の中で入れつつも、祐一は感覚だけを頼りに後方へと跳躍した。
刹那、エマの周囲に在った光りの粒が一気に輝く。
太陽の光と同質の【聖】を瞬間的に自身の周りに発生させ、魔を退ける初級退魔魔法【後光―ブライト】
力の弱いものが唱えれば魔除けにしかならないこの魔法も、エマが唱えるのであればれっきとした攻撃魔法になり得る。
事実、バックステップで距離を取った筈の祐一の身体からですら『浄化』による煙が幾筋か立ち昇っていた。

「………お前、何者だ」
「さっき言いました。 人の話はちゃんと聞くものです」
「………頼むから日本語で喋ってくれ」
「………あれ?」

きょとんとした顔で首を傾げ、それから三秒後。

「す、すいませんっ。 私まだ日本語を常用するのに慣れてなくって」

ぺこぺこと謝りだした。
見ている方がいたたまれなくなるくらいに。
事実、存在を『消滅』させられかけた祐一ですらエマに優しい言葉を投げかける始末だった。

「いや、そんなに謝らなくても大丈夫だからさ。 俺も学校で英語とか習ったけど、日常どころか簡単な答弁すら受け答えできないし」
「あ、で、でも」
「それだけ話せるだけでも凄いんじゃないかな。 うん、多分だけど」

優しい笑みが、エマを包んだ。
それはこの国に来てから初めての、祖国を離れてから十数時間ぶりに見る、本当の笑顔だった。
ひょっとしたら。
ひょっとしたらこの人は良い人なんじゃないか。
ほわっとした気持ちが芽生えると同時に、エマは二種類の罪悪感にその身を苛まれた。
一つ、神の敵である吸血鬼に対してそんな感情を抱いてしまったと云う、罪悪感。
一つ、ひょっとしたら良い人なんじゃないカナっと思った人を、今さっき自分で『消滅』させようとしていた罪悪感。
二律背反しているが、その両方ともがエマを苦しめると云った意味ではさほど違いは無かった。

「…………一回だけです」
「ん?」

そしてエマは、片方を切り捨てた。

「私はアナタを見なかったし、アナタも私を見なかった」
「………」
「早く何処かに行っちゃってください。 私だって、二度も神を裏切る訳にはいきません」

主よ。
偉大なる主よ。
許してください。
一度だけ。
一度だけ背く私を許してください。

「……ありがとう。 また何処かで……って、会っちゃったらマズイのか」
「マズイ……ですね」
「残念だ。 俺がヒトだったら……仲良くなれたかもしれないのに」
「………」

エマは答えなかった。
答える事が出来なかった。
『ハイ』と言ったら、その時点で自分は二度も神に背いた事になってしまう。
この見知らぬ地で、自分が縋れるものは神しか居ない。
その神を自ら縋るべき者ではなくしてしまう事が、どうして出来ようか。
一度ならまだしも、その一度目から数分も経っていない内に二度目までをも行うなんて出来っこなかった。

その無言を否定と捉えた祐一は、とても悲しそうな顔をして、笑った。
何処までいっても、化物は化物か。
『人間』と友達になれたら、なんて考える資格もない忌むべき存在。
何を勘違いしてたんだろうな、俺は。

「ヘンな事言った。 ごめん」

泣き笑いのようなその表情に抉られるような痛みを覚え、エマは瞬時に『違う!』と言おうとしたが、次の瞬間にはもう祐一の姿は何処にも無かった。
傷付けた。
肉体的にも、精神的にも。
あの優しい笑みを向けてくれた人を、自分が。
最後に見せた自嘲と寂寥の綯い交ぜになった笑顔は、それからも暫くエマの心から消える事は無かった。