もう一度、迷った。
エマが巡回中の警察官に助けられたのは、本当に運が良かったからの事だった。
さもなくばエマは路頭に迷って泣きじゃくった挙句、次の日の朝には綺麗な凍死体となって発見されていたであろうから。
一日の内でこんなにも道に迷った女の娘なんてこの広い世界の中でも自分くらいじゃないだろうか。
藍色の制服の背中を見詰めながら、エマはぼんやりと思ったものだった。

兎にも角にも、エマは晴れて到着した。
第二バチカン公会議公認特務省従属異国特殊現状視察官日本本部管轄下北日本支部華音市専属諜報員が常駐するべき、最前線基地に。
胸が高鳴る。
遅れに遅れてしまったが、これから自分は此処で戦いの日々を送るのだ。
相手は吸血鬼。
気を抜いたら死ぬ。
そんなエマの心情にピッタリ合致する様にその建物は重厚なる威厳と神の慈愛に満ちたまるで法皇が住まうようなバロック調の教会、ではもちろんなく。

「これ、民家じゃんか」

エマの言葉通り、眼前に在る建物はどこからどうみても民家だった。
瞼をぐしぐし擦っても、目を閉じて三秒待ってからもっかい見ても、向こう三軒両隣まで走ってみてそっから眺めてみても、民家は民家だった。
二階建ては二階建てだったし、表札に書いてある『水瀬』は『水瀬』だった。
ぼけらとしながらその場に佇むエマ。
傍目に見れば相当にアホっぽい。
だが、その思考はこの不測の事態にどうやって説明を付けようかと必死になって動いている最中だった。
そして、結論。

「………カモフラージュ?」

そう考えれば全てに納得がいく。
考えてみれば、敵である吸血鬼に自分達の存在を知らせて得られる利点など何一つ無いではないか。
きっとこれはカモフラージュなんだ。
民家然としたこの建物の中ではきっと、打倒吸血鬼に熱い信念を滾らせている信徒の方が居るはずだ。
一歩中に入れば、そこはもうヴァチカンとなんら変わらない雰囲気のはずだ。
………たぶん。

ドアの前に立つ。
深呼吸を一つ。
どきどき。
もう一つ。
すーはー。
も、もう一回くらいやっておこうかな……
すー、はゴチッ!

「にゃっ!?」
「わ、わ、何っ?」

バタン。
扉が閉まった。
後に残ったのは静寂。
驚いたのはエマである。
一体全体何がどうしたのか。
ひょっとしたら神の社は既に悪魔に支配されてしまっていて、それで神の尖兵である私を玄関のドアで先制攻撃?
ずきずきと痛む頭を抑えながらそんな事を思っているエマの目の前で、もう一度扉が開いた。
今度はそーっと。

「あのー、えーと?」
「は、ひゃいっ!?」
「ひょっとして、エマちゃん?」
「そ、そ、そうですけど?」
「よかったっ。 ちゃんと迷わないで来れたんだね」

扉を開けた少女が、青く輝くロングヘアーを揺らしながら微笑んだ。
それだけで周囲にぽふっと明かりが灯るような笑顔。
柔らかさを究極まで突き詰めたらきっとこんな笑顔が良く似合うんじゃないかと、そんな風に思われるほどだった。

「えと、あの……」

実は空港の中で一回と外で一回とそれからもう二回ほど迷ったんですけど。
とは、さすがに言えなかった。
笑顔が眩しかったしそんな事を言うのは恥かしかったし、何より『使えない奴だ』なんて思われたら困る。
これからの私は今までの私じゃないんだ。
多分、違うんだ。
違うく、なれたらいいなぁ。

「さ、入って。 大歓迎、だよ」
「はいっ。 お、おじゃまします」

ぺこりと頭を下げるエマ。
そんなエマの旋毛を見ながら、名雪はくすっと笑った。

「違うよ。 『おじゃまします』じゃないの」
「え、えっと?」
「今日から、この家に入る時は『ただいま』、だよっ」

よかった。
やっぱり神様を信じる人は良い人ばかりだ。
名雪の笑顔は、異国で心細い数時間を過ぎしてきたエマにそんな事を思わせるに十分だった。

「はい……ただいま、です」
「うんっ。 おかえりっ」

一つ、言う事があるとすれば。
残念ながら名雪は仏教徒であったりするのだが、きっとまぁそれも些細な事なんだろう。