「エマはちゃんとやってるかな……」
心此処に在らずな感じで空を見上げ、はふーと溜息をつく若き天才枢機卿。
そのままでも充分にシックな執務室の空気をよりアンニュイにしただけでは飽き足らず、手元にあった重要書類で紙飛行機まで折り始めていた。
この紙飛行機に乗せて、俺の祈りがエマに届けば良いのに。
勿論、そんなメルヘンな願いは叶いっこ無いのだが。
「心配要りませんよ」
響く、声。
ブラムが振り返ると、そこには凶器と見紛うほどの追加重要書類の束を持った修道士が立っていた。
「枢機卿様がご自分のお仕事をやっている分くらいには、『ちゃんと』やってるんじゃありませんか?」
「バカな。 お前は俺の可愛いエマに『死ね』と言っているのか?」
「………自覚は、お在りになるんですね」
夏休み初日の小学生の如く仕事をサボりまくるブラムの補佐役を担当する修道士が、アビス【奈落】の如き溜息をついた。
深く、深く。
放って置いたらその溜息の重さだけでヴァチカン全体がマリアナ海溝級にまで沈んでしまいかねない。
そこまでいかなくても、確実に自分は窒息死してしまうだろう。
そう思ったブラムは重要書類で紙飛行機を創るのをやめ、修道士に向き直った。
「お前の不吉な予言の所為でエマにもしもの事があったら、イエスと同じ方式でお前を天界に召してやるからな」
「親バカもいい加減にして下さい枢機卿様。
第一して観光旅行で、世界で最も治安の良い日本のしかも片田舎で、親戚の家に一週間程度泊めるのに、何をそこまで心配する事が在るんですか」
「心配を辞めたら親は親じゃなくなる。 たとえ聖騎士団一個大隊がエマを守る為に付き添っていたとしても、心配は尽きぬものなんだよ」
「なら嘘をついてまでエマちゃんを日本に送り出す事なんかしなければ良かったじゃないですか」
嘘。
何がって、もちろん。
エマが第二バチカン公会議公認特務省従属異国特殊現状視察官日本本部管轄下北日本支部華音市専属諜報員に任命された事が。
日本に相当数の人員を派遣する事が。
そもそも日本で吸血鬼による被害があっただなんて報告自体が。
全部、嘘。
「いや、俺の方にも色々と事情ってモンがあるんだよ」
「そしてその勝手な事情の為に、エマちゃんの信仰心にかこつけて騙くらかしてまで、日本に送りやったと」
「………お前、性格悪いな」
「ええ、仕える方に似てきたと最近では周囲によく言われております」
しれっと言い放つ修道士。
対するブラムは苦笑を濃くしながら、しかし無礼を咎め様とはしなかった。
「にしても、あそこまで騙されやすいとは思わなかった」
「枢機卿様が口八丁手八丁なのでは?」
「その分を差し引いても、だ。 まさかあんな突拍子も無い話を信じるとは思わなかった」
「『吸血鬼【ヴァンピィーリァ】が日本にいる』、ですか」
「普通信じるか? 吸血鬼が居るって、十三歳の女の娘がだぞ? ったく、これだから世間知らずは」
その言葉に、修道士の目付きが変わった。
纏う雰囲気も同時に。
上下関係を無視し、咎めるような視線でブラムを睨む。
心なしか、怒りにも似た声色になっていたのはブラムにも判ったであろう。
「これは……おかしな事を仰る。 吸血鬼を信じるものが世間知らずですと? 少なくとも、『十三階段』を逆さに統べるブラム様の台詞では在りませぬな」
「…………言うな。 執務室で書類に向き合っている今の俺は、枢機卿だ」
「失敬。 あまりに枢機卿様が俗世に塗れた事を仰るものですから」
「俗世になど、戻れんよ。 化物の血を浴びた聖十字軍【クルセイダル】は、自らも化物として疎まれるしか往く末は無いのだから」
「ならばせめて、我等が『最後の化物』となりましょうや。 この胸に杭討たれ灰燼に帰す、その日まで」
修道士の視線が、ブラムを射抜く。
ブラムは表情を微塵も変えずに振り返り、ステンドグラスに描き出された主の姿を一瞥した。
酷く、侮蔑に満ちた目付きで。
「願わくは我等の往く路に、主の御加護が『ありませぬように』」
「以下同文」
執務室に、失笑が洩れた。
ブラムが机の上に鎮座していた紙飛行機を窓から離陸させた。
教会の修繕費を見積もった重要書類が、F-15に姿を変えて青空に飛び立っていった。
気付いた修道士が、切れた。