「え、エマ=ウィルヘルミナ=雪華です。 以後お見知り置きを頂ければこれ幸いな事であります所存」

ぱちぱちぱち。
緊張の為か多少(相当)変な日本語での挨拶に、それでも暖かい拍手が贈られた。
先程よりも確かな安心感を感じる傍ら、エマははてと首をかしげた。
しかし30°ほど傾いだ視界の中に映る風景はそれでも一般家庭のリビングでしかなかった。
ステンドグラスも無ければ銀の飾台も無く、あまつさえ十字架に張り付けられたキリストどころか十字架の欠片すらも無い。
これは敵の目を欺く為とは言え、少しやり過ぎなのではないだろうか。
こんなんじゃ日々の礼拝すらも忘れてしまいそうだ。
忘れないけど。

「私は水瀬秋子。 桃華さんとは義理の兄妹になるわ」
「桃華さん?」
「向こうではブラムって名乗ってるらしいけど、そっちの方なら判るかしら」
「あ、はい。 ブラムおじさんなら判ります」

おじさん。
外見だけなら『おにいさん』でも通じそうなものだが、やはり13歳の女の娘から見れば眉目秀麗なブラムですら『おじさん』扱いになるのだろう。
我が身を鑑みてか、それとも別の憂いがあってか、秋子は少しだけ身を切られるような表情を見せた。
もっともそれは実の娘にすら気付かれぬほどの微妙な変化だったのだが。

「エマちゃんのお部屋は二階になるわ。 洋服とかは無いけど、お布団とかクローゼットは準備してあるから」
「あ、ありがとうございます………えーと、あの」
「なに?」
「この家……には名雪さんと秋子さん以外の方はいらっしゃらないんですか?」

いくら外見が民家然としていたとしても、その中では多数の信徒が退魔業務に従事していると思っていた。
地下室ではなんだかよく判んないけどレーダーみたいなのがぐるぐると吸血鬼を見つける為に回ってたりするもんだとばかり思っていた。
ところがどっこい。
実際に中に入ってみれば、そこはもう疑う余地も無いくらい普通のお家で。
向かえてくれた人も、そりゃもうマリア様リターンズってなくらいに無敵に素敵な女性なのだけれども。
二人ってのはちょいと少なすぎるんじゃないかと。
徹頭徹尾ブラムの言う事を信じているエマはそんな風に考えていた。
そして、その問いは水瀬家の二人を微妙に驚かせた。

「あれ? エマちゃん、祐一のこと知ってるの?」
「ゆ、ういちさん、ですか?」
「呼んだか?」

とん、とん、とん、と。
階段を小気味よく鳴らしながら降りてきたその人影は名雪の頭に手を乗せながら呟いた。
その顔には微妙に疲れが見えている。
ここで名雪の脳裏に「あれ? 祐一はいつ帰ってきたのかな」ってな感じの疑問がふよっと浮かんできたのだが、その疑問は次の瞬間には完全に払拭された。
祐一とエマがほぼ同時に発した、ひょっとしたら家が揺れたんじゃないかと思われるほどの驚愕の声によって、跡形も無く。

「「ああぁぁぁぁぁぁっ!!」」

お互いにお互いを指差し、万国共通で「びっくりしてます」の解釈が通用するような形相で、そのまま5秒間停止。
口をパクパクさせているその様子は宛ら金魚の様だった、と後に名雪はそう語った。
そんな呑気な名雪の思考はさて置き、

「っ!!」

180度ターンを華麗に決め、祐一は爆裂ダッシュで逃げ出した。
それはもう、比喩表現抜きで『命を掛けて』逃げた。
階段を三段飛ばしで駆け昇り、突きあたりで壁にぶち当たって小さく『うぐぅ』と漏らす。
しかしそれでもその動きは止まる事が無かった。

なんだなんだなんだなんだなんだなんだ!
何であの娘が水瀬家にっ?
まさか一度は情けをかけたと見せかけておいてその実ねぐらを見つけて俺の心の臓に杭を討ち込んで完全に根絶やしにしようとっ?
畜生、あんな可愛い顔しておきながらそこまでやるかっ?

ドアを蹴り破るようにして開け、そのまま淀み無くベランダへと続くガラス戸を開ける。
やむ気配を見せない雪の欠片が室内に吹き込んできたが、そんな事はお構い無しで祐一は叫んだ。

「ピロ! ピロは居るか!」
「……喧しいぞ主人。 2階から帰宅して眠りを妨げたかと思えば、今度は俺の鼓膜でも破ろうと? 落ち着きが無いのもいい加減にしてもらいたいのだが」
「逃げるぞ! シスターがこの家に乗り込んできやがった!」
「シスター? なんだ、主人には妹が居たのか」

くは、と長大なあくびをしながら。
今さっきまで心地良い眠りの中に居たピロは祐一の意図している意味ときっちり500マイルほどかけ離れた返答をしてみせた。
冗談なのか、本気なのか。
何処までも透明度の高い瞳と寝起きのふにゃふにゃした雰囲気が綯い交ぜになっているピロの様子からはそれを判断する事はできなかった。

「妹じゃないっ、修道女の方だ! 下手したら今度こそ『消滅』させられちまう!」
「っは。 馬鹿な事を。 一介の修道女如きに『消滅』させられる吸血鬼などを、俺は己の主人に持った覚えは無いぞ」

確かに、と祐一は思った。
自分が『その気』になれば、あんな小娘など刹那の暇すら与えずに縊り殺す事も出来よう。
悲鳴をあげる間も無く、声帯と気管ごと抉り取る事も出来よう。
何故なら自分は鬼だから。
『ニンゲン』などとは完全に一線を画した生態系を持つ化物だから。
夜に生き、闇に住み、血を啜り。
我等こそ100年を一年(ひととせ)として生きる、我等こそ地上最強の化物だから。
……だが。

「だからってあんなちんまい女の娘に危害を加えろってか?」
「……じゃあ大人しく『消滅』を待つか?」
「冗談じゃない! 俺はまだ死にたくなんか―――」

ない。
そう言おうとして、祐一は背中に迫っている気配に気付いた。
淀み無い、【聖】の存在。
咄嗟に振り向く。
そこには。

「っ!」
「ま、待ってくださいっ!」

またも爆速で逃亡しようとする祐一の背中を、エマの叫びが繋ぎとめる。
だがそれでも警戒の色を無くそうとしない祐一はベランダまで一足で飛び、最悪でも瞬時に『消滅』させられるような事にはならない距離を置いた。
その反応に、エマの表情が若干曇った。
その表情に、祐一の心が少し痛んだ。
そして祐一のそんな表情を見て、ピロは誰にも聞こえない程度に小さく舌打ちを漏らした。
勿論、誰にも聞こえなかった。

待ってください、とは言ったものの。
エマはその先なんと続けて良いものか全く判っていなかった。
取り敢えず動きを止めておいて、そこから。
本当に、目の前の彼が言う通りに彼の事を『消滅』させるのか。
それとも……

「は、話を聴いてください」

さっきの、そして今の。
自分が受けている『誤解』を解く為なのか。
いや、そもそも『ソレ』を『誤解』と言っても良いものなのだろうか。
『誤解』と言いきってしまえば、目の前に居る人が自分に対して脅える事は無くなるような気がする。
自分だって、目の前の人を『消滅』させる気なんか無い。
ような気がする。
……でも。

『誤解』と言いきってしまえば、エマが日本に来た理由が根底から覆される。
日本に居る『意味』が無くなってしまう。
それは、まだ幼いエマにとっては恐るべき恐怖だった。
見知らぬ異国で自分の存在意義を無くす事がどれだけ心許無いものか。
今までにそんな経験など無いものの、半ば本能的な自衛機能が働く事もまた事実。
結果としてエマは、『話を聴いてください』の発言から1分近く何も話す事が出来なかった。

「にゃー」

沈黙に耐えかねるように、ピロが、鳴いた。
それもネコ語で。
部屋の中で思考の迷宮に入り込んでいるエマからは見えなかったが、ベランダから半身を乗り出しているような体勢の祐一にはハッキリと見えた。
その眼が、明確な殺意を持っている事を。

仮にも『主人』と『使い魔』の関係にある祐一とピロは、言葉を介さなくても簡単な意思疎通程度ならば計れる関係にある。
もっとも、人間の言葉を介した方が楽だし詳細な情報の遣り取りも出来るので普段は滅多にしないのだが。
それでもやっぱり普通の高校生として生きようとしている祐一に仕えるからには、ピロもいわゆる『普通のネコ』のフリをしなくてはならない訳であって。
別にピロがネコ語でが『にゃー』と鳴くのは珍しい事でもなんでもないのである。
ちなみに、その『普段』の中に『名雪がピロを見つけて飛びかかってきた場合にピロが祐一に助けを求める場合』は含まれていない。

そして今。
ピロの眼はこう語っていた。
『主人がその手を紅く染める事が出来ぬと言うのならば、俺がこの女をマグロの刺身みたくしてやろうか?』
本気と書いてマジの眼だった。
身を屈め、跳びかかる体勢を造り、エマの死角から一気に喉仏を切り裂こうとして。

「やめておけよ式【しき】 もしそんな事をしたら、俺がお前に何をするか判らない」

まるで別人のような祐一の声が、その場に響いた。
たったそれだけで、まるでリモコンで一時停止のボタンを押されたようにピロの動きは止まり、エマは目の前の男が吸血鬼である事を再認識した。
月の無い宵闇の欠片を切り取り、そのまま音声に練り直したかのような真っ黒い響き。
恐れよりも畏れの感情を色濃く、真名(まな)を呼ばれたピロは祐一に向かって深く頭を垂れた。

「非礼を」
「よい」

普段からじゃれあっているものの、やはりピロは祐一の眷属。
祐一が『祐一』ではなく『主人』としての面を見せた時、それに抗う事はピロにとっての何よりも明確な『死』を意味していた。
だが、ピロが祐一に従属しているのは何も『死』を恐れているが故の事からではない。
恐れているのは、祐一に自分が必要とされなくなる事。
自らが主人と認めた夜の王、至高の存在である吸血鬼相沢祐一に捨てられること。
それに比べたら肉体的な苦痛や精神的苦痛、それこそ『死』ですらも、ピロにとっては何ら恐れる事柄ではなかった。

祐一は深く息を吐き、2秒間だけ目を閉じ、しかしまだ『吸血鬼』の雰囲気を消し切れぬままにエマに向き直って。

「キミは今、死ぬところだった」
「っ」

要点のみを簡潔にズバっと言ってのけた。
女の娘だからと気遣っている場合ではない。
本当に、比喩表現抜きで死ぬところだったのだ。
吸血鬼である自分の眷属であるピロの爪と牙によって。
そして、吸血鬼である自分の爪と牙によって。

「容姿からは聖韻を詠むだけであそこまでの【聖】を発現させるとは想像できなかったが、なに、それも些細な事だ。
 詠む暇すら与えなければ良い。
 つまるところ、キミの命は今この場においては俺に完全に掌握されている。
 その上で、だ。
 その気になればキミが痛みを感じる事すら出来ぬままに殺す事が出来るこの俺が、だ。
 二つだけ、選択肢を提示しよう。
 一つ、何もかもを忘れて国に帰れ。
 一つ、無謀にも俺に抗って死ね」

言いながら、祐一は気付かれぬように溜息をついた。
それは今の自分に対して。
端的に言えば、『吸血鬼』としての言葉しか吐けぬ自分に対してだった。
『人間』ならばもっと優しい言葉も言えただろう。
『人間』ならばもっと別な選択肢も与えられただろう。
だが、今の自分は紛う事無き吸血鬼。
思考までもが、血を求めて止まぬのだ。
腕が疼く。
牙が欲する。
獣の鎖が千切れ飛ぶ。
理性の箍が外れる前に、目の前の処女よ。
願わくは躯と化す前に、俺の目の前から消えてくれ。

「……あ、あの……」
「ん?」
「判んないんです……その、私が……どうしたらいいか」

まるで紳学校の授業の様に。
おずおずと挙手しながらびくびくと喋るエマを、祐一は一瞬だが可愛いと思った。
だが、それとこれとは話が別だった。

「はあ?」
「あ、あのっ……私は……あなたを、あなたと、戦ったりする気が……ないんです、け、ど」
「俺はキミの発した【聖】でこんがり片面焼きのトーストにされかけたんだぞ?」
「だってアナタも噛みました」
「……あー、いや、あの、あれはだなぁ」
「噛みましたー」
「……ご、ごめんなさい」

言い訳をしようとした所を、恨みがましい目で睨まれて意気消沈する祐一。
また、『人間』に戻った。
たかだか13の小娘に向かって申し訳なさそうに謝る『主人』の姿に、使い魔であるピロはわざとらしくも盛大な溜息をついた。
まったくもって、情け無い。
ネコの自分でもハローワークは新たな職を探してくれるのだろうか。
現職『使い魔』のピロはそんな事を頭の片隅で考えた。

「噛んだとか噛まないとかはどうだっていい。 そんな事は主人が呈した選択肢に何の陰りも落とさん」
「おいピロ。 相手はまだ……」
「ガキだからこそ命だけは助けてやろうと思っているのだ。 そうでなかったらわざわざ口を訊いたりしない」
「………」

もっとも、祐一から『殺すな』の指示が出ていなければこんな小娘などとうの昔に十六分割なのだが。
あまりにも温い吸血鬼に辟易しながらもその命だけは破る事を自らに許せぬピロは、忌々しい思いと共にエマを睨みつけた。
 
「小娘。 貴様に抗う気が在ろうと無かろうと、主人は【魔】でお前は【聖】だ。 共存など有り得ぬ。
 装束と法力の高さから察するに、お前はヴァチカンの手の者だろう?
 なのに戦う気が無いとは、何とも笑わせる。
 吸血鬼との対立は、狂った貴様らの正義を示す唯一の論理【ロジック】だろうが。
 遥々海を越えてやって来たお前も、その血を脈々と受け継ぐ愚かな吸血鬼狩りの一味だ。
 一にも二にも、吸血鬼の殲滅を命題として生きてきたはずだ。
 大方主人の人の良さに当てられたのだろうが、その感情は自らを育んだヴァチカンを蔑ろに出来るほどのものか?
 出来ると言うなら面白い、やってみろ。
 今すぐその装束を脱ぎ捨て、首から下げてる鍵十字【ハーケンクロイツ】の出来損ないを叩き割り、聖典の一切を脳漿から叩き出してみせろ!」

血を吐くが如き怒りを纏った叫び。
エマは思った。
おっかない。

が、いくらおっかなくたって『ハイそうですか』と言ってヴァチカンにとんぼ返りできる筈も無かった。
そんな事、出来るくらいなら空港で迷子になった瞬間に即効でやっている。
あの懐かしいヴァチカンに帰り、暖かく柔らかい家のソファーで、大好きな執事のがジョナサンが淹れてくれたミルクティーを飲んでいる。
出来ないからこそ、今ここに自分はこうやって立っているのだ。
ネコごときにとやかく言われる筋合いなんて無い。
無いもん。
な、無いんだってばぁ。

「不満そうな目付きだな、小娘」
「……」
「文句があるなら、俺を殺してからその屍に―――」

と、そこまで言って。
ピロは自身の長いひげをピクンと揺らした。
次いで、不機嫌そうにエマに背を向ける。
何が起こったのかを全く理解していないエマに頓着もせず、ピロはやはり誰にも聞こえないように小さく舌打ちをした。
あまりに唐突なピロの行動がその場にいた吸血鬼とシスターの動きを止めてから数秒後。

「祐一? エマちゃん?」
「あ…な、名雪さん」
「っ! ………どうした、名雪?」
「えっとね。 二人がダッシュで二階に上がってったからどうしたのかなーっと思って」

ぽえっとした様子の名雪。
その様子を見て、エマは直感的に名雪が『何も知らない』事を悟った。
自分がこの家に来た理由も、日本における吸血鬼被害の実情も、同居人が吸血鬼である事も。
恐らくだが、彼女は何一つ知らない。

「い、いや、あのな。 散歩。 そう、散歩の途中に偶然出くわしてな」
「散歩? 祐一はずっと二階に居たんじゃないの?」
「そ、それはだな。 ……あれだ、最近流行の『忍者風帰宅術』を使ったんだ。 お前をびっくりさせようと思って」
「もー。 危ない事はしちゃダメ」
「ごめんごめん。 もうしない」

いや、違う。
『知らない』んじゃない、『教えられていない』んだ。
この目の前の吸血鬼さんは、何でだかどーしてだかまるっきし判らないけど、名雪さんに自分が吸血鬼である事を隠してるんだ。

そこまで思考を巡らせた瞬間、エマの脳裏には一つの案が浮かんだ。
吸血鬼に(半分以上はその使い魔によってだが)追い返されそうになっている現状を1発逆転ホームランするための、名案が。
なんとなく卑怯な気もするが、背に腹は代えられない。
そして自分だってヴァチカンには帰れない。
ごくりと唾を飲みこみながら、エマは精一杯の笑顔で言葉を紡いだ。

「ホント、私もびっくりしちゃいました。 まさかあの時に助けてくれた人がこの家の人だったなんて」
「っ!?」
「へー。 祐一、エマちゃんの事助けたの?」
「はい。 迷子になりかけてたんですけど、優しく励ましてくれました」
「でもさ、祐一も微妙にいじわるだよね。 ここを探してる女の娘が居たんなら、一緒に連れてきてあげれば良かったのに」
「あ、ああ………でもほら、俺は住所で言われてもいまいちピンと来なかったから」

そのまま二言三言交わして、疑問が解けた様子の名雪はとたとたと階下に歩いていった。
エマの言葉にも、祐一の言葉にも、一分の疑いを持つことも無く。
純粋とは時に、騙され易いという大きなハンディを持つ。

部屋に残された二人と一匹。
未だ開け放たれたベランダに通じる窓から吹き付けてくる寒風の中、祐一はエマの目を初めてしっかりと見据えた。
ダークブラウン。
透ける様な白い肌には、日本人のような黒い瞳よりも淡いくらいの色合いが良く似合う。
とても優しい色。
だが今のエマの瞳には、その優しさとは似ても似付かぬ不退転の意思が篭められていた。

当然、夜の王がその炎に気付かぬ訳が無い。
例えそれがマッチの炎よりも弱々しい光であろうが、自分に向けられているとあれば話は別。
何を考えているのかと推察する必要も無いくらい、エマの取った行動は祐一にとって判りやすいものだった。

「ばらされたく、ないんですよね」
「………」
「私も、ばらす気はありませんその代わりっ」
「ここに、居させろ」
「はい」

祐一が、何を思って名雪に自分が吸血鬼である事を秘密にしているのかは判らない。
吸血鬼の能力の中には魅了【チャーム】や支配【ルール】もあるはずであり、それを使えばいくらでもねぐらなんて確保できる。
だが、祐一はそれをしていない。
あくまで人間のままの名雪と秋子さんの住む家に同居している。
この事はつまり、祐一が吸血鬼であるという情報を握っているエマにとっては切り札【ジョーカー】を手にしたも同然だった。

「約束します。 私は、あなたに対して、絶対に危害を加えたりしません」
「………」
「そりゃ襲われたりあなたが他人を襲っているのを見たら止めますけど、その、私からっていうのはしません」

エマは祐一に血を吸われた。
だが、それは絶命にいたる類の吸血行為ではなかった。
本当にただの、食事。
その後の様子からも判断するに、祐一は自分の、そしてヴァチカンの探している吸血鬼じゃない。
ような気がする。
多分だけど。

そしてヴァチカンの命に背かないのであれば。
エマは、祐一の存在を『消滅』させようとは思わなかった。
勿論それが即吸血鬼の存在を肯定する事に繋がりはしないが、それでも無条件に否定はできない。
したくない。
『異端』を排除するだけなんて、あまりに一方的すぎる。
だから。

「お願いです。 この家から、追い出そうとしないで下さい」

切り札を抱いてなお、嘆願する。
まったくもって捨て犬っぽいエマの雰囲気に、祐一の『人』である部分が酷く疼いた。
母から譲りうけた、自分の中に微かに存在する最後の『心』
ズキズキと、痛んだ。

エマの言う事を一から十まで信じられる道理が無い。
比喩表現など欠片も介在する余地が無いくらい、命を掛けた選択。
吸血鬼がおいそれと十字架を抱え込むなんて、坊さんがするより性質が悪い冗談にしか聞こえない。

だが。
エマの言う事が偽りであると云う根拠もまた同じくして無い。
ひょっとしたら本当に自分の事を、自分の存在を赦してくれるのかもしれない。
ヴァチカンの使徒でありながら、人として生きようとしている哀れな化物が生きる事を赦してくれるのかもしれない。
だとしたら、途方もない救いだ。
どうしようもない歓びだ。
相沢祐一は、望めば世界すら手に入れる事も叶うかも知れぬ夜の王は、今なによりも『人間』として生きたいと願っているのだから。

「主人! 何をいいように言わせている!」
「ピロ……」
「信じようと言うのかっ! 我等に生きる事すら赦さなかった人間をっ!」
「……これが最後だからさ……最後に……もう一回だけでいいから…」
「主人っ!」

過去に、少女が木から落ちた。
少年は少女を助けられなかった。
冷たくなっていく少女を、見ているしかできなかった。

少年は思った。
自分の『血』なら少女を助けられるかもしれない。
不死の自分に流れる血なら、少女を助けられるかもしれない。

『血』は、効いた。
少女は、命だけは取り留めた。
意識は戻らなかったが、命さえあれば希望は繋がる。
病院で拘束具に繋がれながら、少年はもう二度と会えないだろう少女の姿を思った。

捕獲。
拘束。
隔離。
実験。

幼い少年が願いを託して語った『真実』
自分の『血』が少女を助けた。
恐らく不幸だったが、医者は少年の言う事を信じた。

検査。
発覚。
驚愕。

すぐさま捕えられた。
まだ幼い吸血鬼は、『霧』にも『蝙蝠』にも『狼』にもなれなかった。
力も、その頃で既に大人なみの力があったが、それでも革製の拘束具は引き千切れなかった。

どのくらいの傷なら即座に完治するか。
どのくらいの衝撃なら耐えられるか。
どのくらいの悪条件なら耐えられるか。

針。
刃。
弾。
ペンチ。
電極。
加圧機。

父親が助けに来るまでの二日間は、少年にとって永遠に感じられた。
父親が助けに来るまでの二日間は、少年にとって地獄でしかなかった。

人間は言った。
お前は化物だ。
人間は言った。
お前は気味が悪い。
人間は言った。
化物に生きる価値なんか無い。

信じかけていた。
自分に存在価値なんて無いと思いかけていた。
化物は、この世から居なくなるべきなんだと思っていた。

だけど。

七年ぶりに再開した従姉妹の少女は、笑ってくれた。
逃げる様にしてこの街を離れた自分を、温かく迎えてくれた。
ああ、覚えている。
人間は、確かに暖かい。

きっと名雪だって違うかもしれない。
優しいのは『人間』の俺に対してだけであって、『吸血鬼』の俺には見向きもしないかもしれない。
脅えて、拒絶して、またあの変な奴等のトコに通報されるかもしれない。
今の俺の行為は、名雪を裏切ってる事になるのかもしれない。

でも、さ。

「人間は、人間を信じるものだろ?」
「しゅじぃぃんっ!」
「俺は、信じる。 何の根拠もないこの女の娘の言葉を、俺は信じる」

この娘は、逃げない。
祐一が吸血鬼である事を知っても、逃げない。
例えそれがヴァチカンの使徒である使命感からの行為だとしても、祐一にとっては充分だった。
自分を知っている人が居てくれる。
『本当』の自分を知っていてくれる人がいる。
それは、一筋の黎明にも思えた。

「追い出さないで、くれますか?」
「君が、俺を殺さないでいてくれるのなら」

綱渡りの会話。
『殺戮』と『暴露』の切り札【ジョーカー】を互いに握り締め合った駆け引き。
酷く陳腐だったが、只中の彼等にはそれを笑う術なんて無かった。

「で、では、あらためまして」
「ん?」
「エマ=ウィルヘルミナ=雪華です。 雪華は日本名なんですけど、呼ばれ馴れていないのでエマって呼んで下さい」
「あ、ああ。 俺は相沢祐一。 上でも下でも好きな方で呼んでくれ」
「それでは、相沢さん、で」
「ん」
「不束者ですが、宜しくお願いします」
「こちらこそ、宜しくお願いします」

ぺこりと頭を下げ合う。
顔を上げて数秒後、二人は気まずく見詰め合った。
会話のネタがない。
油粘土みたいに重苦しい空気がのたーんと沈殿する中、テラスの欄干に飛び乗ったピロが吐き捨てるように一言。

「……俺は認めんからな」

たった一言だけそう言って、雪の街へと消えていった。
怒りと、呆れと、物悲しさの交じり合った瞳。
ほぼ間違いなく自分の言動がそれを引き起こしたのかと思うと、祐一はこれから先の主従関係に大きなひびが入った事を深く痛感せざるをえなかった。
また、エマはエマで自分の存在がピロを怒らせてあまつ祐一までをも困らせている事に深く落ち込んでいた。
前途多難である。

何はともあれ、こうして吸血鬼とシスターが一つ屋根の下で暮らす事と相成ったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第一部 完