日本に着いたエマが、一番最初にした事。
それは迷子になる事だった。

『北日本国際空港』に到着したエマは、まずは神に自分の無事を感謝した。
何の問題も無く日本の土を踏めた事は、きっとこれからの苛烈な任務に対する僥倖であろう。
何だか全てが巧く行くような、ウキウキした気持ちになってきた。

と、そこでエマは気持ちを引き締めた。
自分は遊びに来たんじゃない。
神の敵である、引いては全人類の敵である吸血鬼を見つけ出す為に日本に来ているのだ。
油断はならない。
今この時も、神の僕である自分を吸血鬼が付け狙っているかもしれないのだ。
ぎゅっとポケットの十字架を握り締め、決意を新たにした所で、エマはもう片方のポケットを漁った。
指先に感じる紙の感触。
それは、日本におけるエマの居住地をブラムが書き記したものだった。
エマの居住地。
ヴァチカン本国から赴任した、公認異国特殊現状視察官を迎え入れる場所。
どんな建物かは事前に教えてもらえなかったが、ブラムの話では『行けば判る』そうだ。
行けば判ると言う事は、多分恐らく教会だろう。
間違っても、神社とか仏閣じゃないと思う。

「よしっ」

ポケットから紙を取り出し、勢い良く広げる。
真っ白な紙に、ブラム直筆の文字でしっかりと記されている住所。
『華音市 雪街二丁目 11-3』
住所。
それだけ。
電話番号はおろか、地図すらも明記されていなかった。
ただ、住所の羅列。
異様に達者な漢字を駆使して記されているのは、何度見ても、逆様に見ても、上下にぶんぶん振っても、やはり住所であった。

エマは優等生だった。
『日本語』の成績は、筆記も発音も紳学校でトップの成績を誇っている。
もちろんフルネームからも判るように、エマが日本人とのハーフであると言うのも要因の一つなのだが。
とにかくエマは優等生だった。
日本語も、読めるし書けるし話せる。
だが、それとこれとはまったく話が別だった。
見た事も聞いた事も無い住所をポンと突き出されて『そこに行け』と言われたって、大抵の人は困り果てるだろう。
それが異国の住所なら尚更だ。
祖国から遠く離れた日本の空港でただ一人。
右を向いても日本人。
左を向いても日本人。
縋れる人は誰も居ない。
頼みの綱である日本の教会の人の迎えも、無い。
唐突に不安がこみ上げてきた。
どうしようどうしようどうしよう。
焦る。
めちゃくちゃに焦る。
えてして優等生と言うのは、予想外の事態もしくは咄嗟の機転に対しての耐性が無いものであって云々。
それ以前に忘れてはならない。
いくら偉い役職に抜擢されようが、エマは若干13歳の女の娘なのだ。
頼る人が居なければ不安になるし、不安になれば泣きたくなる。
由緒正しい『ウィルヘルミナ家』の箱入り娘として育てられてきたエマなら、尚の事。
逆境に強いのは野薔薇であって、決して純粋培養の薔薇ではない。
じんわり込み上げて来る涙。
への字に曲げられた唇。
不安は頂点に達し、終にはその場にしゃがみ込んでぐしぐしと泣き始めてしまった。
誰が責める事が出来るだろうか。
いや、誰も責める事など出来はしないだろう。

彼女の脳裏から『お巡りさんに訊けば良い』と言う思考がぽっかりと抜け落ちていた事を。