数えられているだけでも13人の人が泣いているエマに声をかけてきた。
殆どの人が下心丸出しの男だったのは、この際気付かなかった事にする。
とにかく、助けが入らなかった訳ではなかった。

『どうしたの?』

そう声が掛けられる度に、エマはぼろぼろと涙を零しながら顔を上げるのだった。
絹糸よりも更に細い銀の髪をさらさらと揺らし、捨てられた子犬のような縋りつく目で声を掛けてくれた人を見るエマ。
誰もが、その容姿に心を奪われた。
助けてあげたい。
守ってあげたい。
こんな可愛い女の娘が泣いているのを見捨てるなんて男じゃない。
さぁ、何でも言ってくれ。
君が望むなら、永遠だってあげられる。

『あ、あのっ、住所が判らなくて……いえっ、住所は判ってるんですけど場所がわかんなくてっ』

多少錯乱気味だが、それでも意味は通じるであろう文章を話す。
頑張って話す。
そして、話し終わったときには必ず絶望感に打ちひしがれるのだった。

『……じゃ、お元気で』

そう言ってそそくさと足早に去っていく人たち。
そんな。
何で?
自分たちが住んでる場所の住所なのに判らないの?
ひょっとしたら知ってるけど教えてくれないだけ?
うぅ、そう言えば学校でムゥちゃんが言ってた。
『ニホンの人って、サコクとか言ってる人たちだよ。 きっと外国人には凄く厳しい人たちなんだよ』
そんな事無いって思ってたのに。
ワビとかサビとか(意味はちょっと判んないけど、何か落ち着いた感じの雰囲気を示すんだと思う)の人たちだと思ってたのに。

「キミ? どうしたの?」
「あ、あのっ、住所が判らなくて……いえっ、住所は判ってるんですけど場所がわかんなくてっ」
「……ごめん、じゃ」

14人目が去っていった。
そしてエマは14回目の絶望の淵に叩き落された。
神様。
神様ぁ。
エマはもうダメです。
どのような御心で私目に斯様な試練を御与えになっているかなどは、いと小さき者である私には判りません。
ですが、私は信じています。
きっと救いはあると。
信じる者は救われると。
信じてます。
今までも、これからも信じてます。
だから………助けてくださいよぉ。

「もしもし?」

神の助けっ?
ばっと顔を上げたそこには、まぁ当然と言えば当然の如く日本人の男が居た。
でも、今のエマにとっては何の変哲も無い日本人すら神の使い。
逃してはいけない、この神が齎してくれた一筋の蜘蛛の糸を。

「あ、あのっ。 住所が紙に書いてあってだけどわかんなくって文字は読めますでも住所が場所でっ」
「………」

沈黙。
あ。
今までの14人と同じ表情だ。
一瞬でエマはその表情の意味するところを悟った。
また。
また、差し伸べられた手を掴み損ねた。
また、自分は見捨てられる。
そう遠くない未来、って言うか確実に数秒以内に。
自分の何がいけないのか、もう判らない。
失礼な態度なんかとってないのに。
何も悪い事してないのに。

「ぅ……」

涙が溢れた。
悔しいのか、悲しいのか。
それすらも判らなかった。
ただ、何だか涙が出た。
そんなエマを見ながら、声をかけてきた男は困り果てた様に立ち尽くしていたが、やがて意を決する様に言った。

「あー……きゃんゆーすぴーくじゃぱにーずおーけー?」

ばりっばりの日本語発音だった。
たどたどしかった。
流暢の『り』の字も無かった。
だが、だからこそエマにもその意味は通じた。
直訳すると『日本語話せますかおーけー?』になる。
日本語、話せますか?
日本語を、極東の島国の言葉を、今現在も周りで聞こえてくるざわめきの9割9分を占める言語を。
あなたは話せますか?

「………はい」

俯きがちに一言、ぼそっと呟く。
この国に来てから、初めて口にする日本語だった。

一応言っておく。
ローマ、ヴァチカン市国の公用語はイタリア語であって、決して日本語じゃない。
もちろんエマは日本語を読めるし書けるし話せる。
だが、エマは生まれた時からつい先日まで徹頭徹尾イタリア語の世界で育ってきた。
だから、誰も責められないのだ。
パニックのあまり、日本語で声を掛けられたにも関わらずイタリア語で応えてしまったエマを。
流れるようなイタリア語で、相手に言葉を挟む余地も与えないくらいの勢いで話してしまったエマを。
誰も責める事なんて出来ないのだ。
唯一その行為を責める事が出来る人が居るとしたら、それはエマ本人だけだった。