親切且つ丁寧な空港警備員のおじさんの説明のおかげで、エマは比較的容易に華音市に辿り着く事が出来た。
が、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。
エマは新たな問題に襲い掛かられて呆然とした。

「……ここ、どこだろ」

その質問に対する答えは諸説様々ある。
取り敢えずは地球だし、日本だし、華音市なのだ。
嘘は言っていない。
ここは華音市だ。
もっと詳しく言えば華音市のほぼ中心にある華音駅の構内だ。

空港警備員のおじさんだって万能じゃない。
いくら詳しく書かれた住所を鼻っ面に突き出されたって、ふーむと首を捻るしかできなかった。
そんなので『ああ、この住所なら三丁目のタバコ屋の角を右に曲がって田中さん家の前を素通りして佐々木さん家を左に曲がって三件目の斜向かいだよ』とか言えたら、その人は恐らく神だ。
だが、空港警備員のおじさんも頑張った。
幸いにも住所が『華音市』の書き出しから始まっていた為、電車を使えば華音市までは確実に行ける事をエマに知らせた。
加えて、結構大きな駅だから備え付けの交番があるのでそこで詳しい事を訊くと良い、とも言った。
その言葉をガブリエルから受胎告知を受けているマリアの様な神妙な面持ちで聴いていたエマは、心底ほっとした顔を見せた。
六回ぺこぺことお辞儀をし、八回『ありがとうございました』と言った。
もう、迷うなんて絶対に無いと思った。

そして、もう一度迷った。
電車から降りて交番に行けば道が判ると言われても、その交番に辿り着くまでに迷子になるなんて最早反則だとエマは思った。
そもそもどうして駅が二階建てなのだ。
どうして駅の中にお土産屋さんやらレストランやら、果ては中古CD屋やら古本屋までがあるのだ。
エマは納得がいかなかった。
駅って言うのはもっとこう……木製のベンチが一脚と気の良い切符切りさんが一人居るような場所を指すのではないのか。
御天気の良い日にはぽかぽかと日の光を浴びながら、ヒマそうな切符きりさんと世間話をするような場所ではないのか。
等と様々な不満はあったが、いくらエマが納得いかなくても駅は駅だし中古CD屋は中古CD屋だし立ち食い蕎麦は立ち食い蕎麦だった。
しょうがないので、エマは一度駅の外に出てみる事にした。
困った時は客観的に物事を把握する事が大切なのだと学校で教わったからだ。
よし、一度外に出てみよう。
そこから考えよう。
エマはよしっと気合を入れてから、颯爽と歩き出した。
外に出るまでにも数回迷って五十分程かかったなんてのは秘密だ。
あの地下街は絶対に迷路だ。

外に出ても、勿論現状は何も変わらなかった。
いや、むしろ悪化した。
白くちらつく雪。
殆ど風が無く、それ故に空気が凍り付いてしまったかのような感覚。
寒い。
とんでもなく寒い。
バチカンと日本には相当な気温差があるとは聴いていたが、ここまでくると詐欺に近い。
白くちらつく雪はエマの興味を惹く事は然程無かったが、体温を奪うには十分過ぎるほどの役割を果たしていた。
足元から、袖口から、襟元から。
容赦無く吹きつける風と降り積もる雪は、どちらも凍て付くような寒さを持ってエマを不安がらせた。

シスター服は思いのほか防寒に適している。
ワンピースで構成されているし、生地も以外と厚い。
だが、それだけだった。
相沢祐一をして気候区分帯を『寒帯』だと言わしめるこの街の気温には、シスター服もなんの意味も成さなかった。
一応は白いケープを肩に羽織っているものの、それすらも気休めにだってなりゃしない。
神の御加護もどうやら一介のシスターの為に気温及び気候を変化させるまでには至らないようだし。
何と言うか、要は寒かった。

人間は様々な要因で簡単に不安に陥る。
その中でも非常に大きなファクターを占めるものが、統計学的に三つあった。
孤独、空腹、寒さ。
可哀想なくらい、今のエマに全て当て嵌まっていた。
 
『円』はある。
諭吉さんだけでサッカーチームが一つ二つ作れるくらい。
少女が持つ分には大層且つ十分過ぎるほどの金だが、エマには今この状況でお金を使ってしまう事がどうしても許せなかった。
道に迷ったのは自分の所為。
自分の過失によって招かれた空腹を、両親と教会が持たせてくれた大切なお金を使って満たす事など畏れ多くて出来やしない。
そんな事をしたらバチが当たる。
それに、私が滞在するべき教会では今頃ご夕食の支度をなさっているはずだ。
ここで空腹を満たして、用意された夕食を残すような事があっては絶対にならない。
ならないのだ。
五分おきに控えめながらも『くー』と鳴るお腹を押さえ、エマは泣きそうな顔でそう思うのだった。

ここで立ち止まっていても事態は好転しない。
それどころか、餓死か凍死かの二者択一に陥ってしまう。
そんなのはどっちも願い下げだ。
歩こう。
取り敢えず歩こう。
幸いにもここが華音市である事に間違いは無いし、明確な住所だって判っている。
道すがらに人に尋ねたって良いし、電柱に張ってある現住所を見ながらだっておっけーだ。
とにかく、もう駅の中には戻りたくない。
今度迷ったら二度と出てこられないかもしれない。
よし、決まった。
私は、前に向かって歩く!

もちろん、エマの前方がそのまま目的地に直結している訳が無い。
概念的、方向的な『前』は、必ずしも問題解決の為に有効な『前進』とは限らないのだ。
だが、それでもエマは歩き始めた。
確固たる決意を胸に、力強く、前へ、前へ。

当然、迷った。