ある晴れた日曜日、四月の中旬。
寝床の中で目を開けた俺を初めに待っていたのは、驚くほどの倦怠感だった。
誰に起こされるでもなく自然に目を覚ましたはずなのに、まるで身体に鉛が付着しているかのような不快感を覚える。
しかしそれは特別に驚くような事ではなく、むしろ高校時代から幾度も味わって慣れ親しんできた、典型的な『夜更かしの祟り』の症状であった。
自分の意思ではどうにもならない重い瞼をこすりながら、陽光に白く透ける障子戸を開ける。
目が痛くなるほどの苛烈な陽射しが降り注ぐ庭を眺めながら、俺はそこに微細な違和感を覚えた。

庭石や灯篭の影が、なんだかやけに短い。
これは太陽の光を遮る遮蔽物と太陽光との角度が90度に近い事を示していて、つまり早い話が『今の太陽は自分に対してほぼ真上に存在している』と云う事になる。
そしてもっと手っ取り早く言えば、今は既に正午、もしくはそれに近いような時間帯らしいのだと云う事であった。

三十三間はあろうかと云う長い廊下を早足に歩き、その途中に据えられている柱時計の前にて立ち止まる。
まるで童謡のモチーフにでもなりそうなくらいの大きなノッポの古時計は、その短針と長針とでもって見事なまでに『時刻:正午』を指し示していた。
恐らくはあと三分もしない内に、十二回の鐘の音が屋敷内にやかましく響きわたる事だろう。
そしてその音源にここまで接近している今の状況では、鼓膜に甚大な被害が及ぶ事は想像に難くない。
だが、脳内の危機管理局は満場一致で「即刻撤退」と告げているそんな状況の中ですら、俺はまたしても微細な違和感から、その場所を動く事ができずにいた。

何故、妹は俺を起こしに来なかったのだろうか。
俺が感じた違和の原因などただそれだけの事なのだが、毎日繰り返されていたものがなくなれば、言い様のない不安を覚えるのは半ば当然の事であろう。
普段であれば前日にどれだけ夜更かしをしていようとも、朝の決まった時刻には妹からの「起きよ兄上、もう朝じゃよ」の言葉があるはずなのだった。
ちなみに一度目の呼びかけで起きなかった場合、十分後辺りには妹の言葉が「いつまで寝ておるか! まったく兄上はいつまでも布団にしがみつきおって」に変わる。
それでも起きなかった場合には起床を促す手段が呼びかけから実力行使に移るのだが、その方法は兄妹両方の名誉のために口外しない事にする。
兎にも角にも俺の朝と云うものは妹の声から始まるものであり、それが今日に限って行われていないと云うのは、やはり気にして然るべき事柄なのだろうと俺は思った。

腕組みをし、昨日の事を思い出す。
しかしいくら思いを馳せてみた所で、妹に今日の朝からどこかに出かける予定があるなどと云う事を聞いた記憶は、欠片も存在していなかった。
別に妹に自分の予定を報告する義務がある訳でもないが、まったく何の予告もせずに外出するなどと言った事は、どちらかと言えばやはり不自然な事柄に当たる。
特に俺が大学通学のために実家に戻ってきてからは、半ばそれが義務でもあるかのように、妹は自分の予定を俺に伝えてくれていたのだった。
もっともその殆どはこの家の、旧家としての体面を保つためのものだったり、繋いでおかねばならない柵(しがらみ)の為の外出であった訳なのだが。
自由がない妹の立場を可哀想だと思う反面、その全ての用事に関して顔を出す事を許されない自分の立場と比較して、あいつを羨ましく思うこともまた事実だった。
積極的に立場を交代したいと云う訳ではないし、両親に対してのみそれを求めていると云う訳ではない。
だがそれでも『誰かに必要とされる自分になってみたいと』思う感情までは、どうやったって否定できなかった。
まるで俺を存在しない者であるかのように扱うこの広い家屋敷の中で、こうやって妹の声を聞く事すらできずに独り佇んでいる今であれば、その思いは尚更に強くなる。
そう云えば『あの頃』もこんな風に誰もいない屋敷の中で独り立ち尽くしていたものだと、今は遠い昔の事を思いながら、俺は再び白い日差しを受ける庭を遠く眺めた。

広大な敷地に点在する庭石、よく分からないが枝の曲がり方に職人の手が加えられていると云う松の木、何やら高名な仏師に文字を刻んでもらったと云う曰く付きの灯篭。
何もかもが大袈裟なまでの風体を誇るそれらを視界に納めながら、しかし俺の視線は庭の片隅にひっそりと咲く紫の花へと吸い寄せられていた。
それは、花の名前や種類などに無頓着、と云うかもう無知の段階にまで至っている俺が、唯一自信を持って「好きだ」と言える花。
ユリ科、カタクリ属、学名Erythronium japonicum.
常であれば山地にしか咲かない花が、何故に屋敷の庭の片隅に存在しているのか。
その経緯にふと思いを馳せた瞬間、背後の柱時計が、けたたましい音でもって正午の時を告げ始めた。
一つ、二つ、鐘が鳴る。
物心ついた頃から耳にし続けた、あの頃から今もずっと変わらない凡庸な音。
一つ鐘が鳴る毎に、想いは過去へと遡り、十も音が響き渡る頃には、俺の瞳は遠い昔の情景しか映し出さなくなっていた。