「それにしてもまったく、何が物忌みじゃ戯け者共めが。 今日はこんなにも好き日ではないか、のう兄上」
「………」

俺が帰ってきた事を指して今日を『好き日』だと言い、凶事とは掠りもしなかった物忌みを一笑に付している妹。
俯瞰的な視点から言えばどうかは判らないが、妹の主観的な価値から言えば、今日のこの日は『事良き日』になるようだった。
しかし親父にとっては『俺が帰ってくる』と云うそれこそが、天災級の凶事に値する事である。
だからこそ『それ』を避けるために、こんなにも大仰なる物忌みを執り行った。
一つ屋根の下に住む直系の親子でありながら、一つの事柄に対する思考はこれほどまでに真逆である。
言うべきか言わざるべきかを数瞬のみ逡巡した後、俺はその事実を胸の中にしまい込む事にした。
妹は、何も知らなくていい。
この家に巣食う負の感情とその行き先には、お前は気付かなくてもいい。

「私とてこの有様では人の事ばかり言えぬが……ふむ、それにしても兄上は随分と汚れておるのう」
「む、そうか?」
「土やら煤やら花火の燃え滓やら、頭には蜘蛛の巣までついておるではないか。 一体この家に辿り着くまでにどれだけの迷い道をしてきたと云うのだ、兄上は」

呆れ半分の溜息を吐きながら右手の袖を左手で軽く押さえ、俺の頭をぺいぺいと掃き清める妹。
それは体勢だけなら『五つも年下の妹に頭を撫でられている兄』と云う、傍から見たら何とも非常にアレな状態だった。
家人や守人に見られたら、兄としての尊厳が素粒子単位にまで分解されてしまいかねない状況の中。
しかし俺の思考はそんな事になど全く頓着せず、妹が口にした『迷い道』と云う単語にしか反応を示そうとはしなかった。


「迷い道……か」
「む?」
「確かに、今回の帰郷は一筋縄じゃいかない道程だったよ」
「ふむむ?」

そもそも実家に帰ってくる気なんて欠片もなかった。
よんどころのない事情により帰省する羽目になったものの、最初の段階では家の門を潜る事さえ許されなかった。
無礼と非常識と違法寸前の手段を駆使して邸内には入ったものの、それが異常であると云う事ぐらいは流石の俺でも理解できている。
これは『帰宅』じゃない。
ただの『闖入』である。
そして、大手を振って堂々と、それも爽やかな笑みすら浮かべながら門を潜れるその日を真の『帰宅』と呼ぶならば。
何気なしに選択されたのであろう妹の言は、なるほど確かに言い得て妙である。
こんな風にしか家に入る事を許されない今はまだ、迷い道の途中と呼ぶのが相応しい。
俺の存在を無条件に肯定してくれる妹の胸に抱かれている『此処』ですら、求めていた到達点には程遠かった。

そう、本来ならば後ろ足で砂でもかけてやりたいぐらいの忌わしきこの実家。
『帰りたい』だなんて思い、太陽が西から昇る事があったって脳裏に浮かんでこなかったと明言できる。
だけど今はまだ、妹がこの屋敷の中にいる。
俺が逃げ出してしまったこの家の中で、俺が放り投げてしまった『日常』を淡々とこなしながら。
幸か不幸か今もまだ、妹はずっとこの家と共に生きているのだった。

だから俺はまだ、この家に『帰る』事を本当の意味では諦めてはいない。
お前がここにいて俺の帰りを喜んでくれる限り、この場所は俺にとって真の居場所となりうるのかもしれないから。
そんなに近い将来じゃなくても構わないから、何時の日か誰もが笑って暮らせるようになれば良いと思っているから。
夢見た未来に必要なのは、俺が変わってしまう事だろうか。
それともこの家自体の変革か。
前者は簡単だが酷く不愉快だし、後者は爽快だがえらく難しい。
そんな事を上の空で考えていたら、それを「旅の疲れゆえに呆としていた」と勘違いしたのだろう。
少しだけ気遣わしげな視線を俺に投げかけた妹が、情けなく座り込んだままの兄を尻目にすっくと勢いよく立ちあがった。
膝や尻の辺りに付着した砂埃をぺしぺしと手の平で払い落とす。
その行為によって多少なりと汚れてしまったのだろう右手を、上等な小袖の裾の辺りでごしごしと拭う。
一連の動作を驚くほど淀みなく行った妹は、それからその右手を俺の目の前にすっと差し出した。

「ほれ」
「え? あ、ああ…」

折れそうなぐらい細い指、消え入りそうなほど白い腕。
握り締めた瞬間に、思いもかけない強い力でぐいと引っ張られる。
どちらかと言えば兄が妹にしてやるべき『尻餅を付いている相手の手を引いて起こしてやる』と云う行動なのに、何故だか妹のする『それ』は妙に似合っている気がしてならなかった。
兄上様が情けないのが悪いのか。
それとも、我が妹が人並みはずれて勇壮なのか。
幾ら考えても答えは出ないし、褒め言葉になるともこれっぽっちも思っちゃいないが、それでも俺はあえて
言わせてもらう事にした。
今のお前、男らしくて素敵だぞ、妹よ。
口に出したら脳天から玉砂利に叩き付けられそうだったので、俺はその賛辞を胸中だけで完結させる事にした。
恐らく、英断だった。

「ま、積もる話もあるであろう。 まずは湯浴みでもして旅の疲れと垢を落とし、それからゆっくりと語り明かそうではないか」
「ああ、そうだな。 俺様の奇想天外な高校生活について、夜が明けるまで存分に語ってやろう」
「……兄上よ」

あれ。
流れるように会話を紡いだはずなのに、妹が物凄く怪訝そうな顔をした。
近年希にも見ないほど、不審者を見るような目付きでねめつける様に見据えられた。
非常に精神的打撃力に特化した視線だった、とだけ言っておく。
簡単に言うと、おっかねえ。

「な、なにかね? 
妹よ」
「高校生活を満喫している事を表現する言葉など、他にも幾らでもあろう。 なのに何故『愉快痛快』とか『波乱万丈』ではなく、よりにもよって『奇想天外』の四文字なのだ」
「……お、俺様の奇天烈な高校生活について」
「三文字にすれば良いと云うものではない」
「俺の奇妙な高校生活」
「何が何でも”奇”の文字を入れねば気が済まぬのか兄上はっ」

思いっきり突っ込まれた。
胸の内がす―と抜けていくような、晴れ渡る空にも似た小気味良い突っ込みだった。
久し振りに聞いた妹の飾らない声が、凄く好きだと実感した。
打てば響く反応の良さがたまらなかった。
だから、自然と笑顔が零れてきた。

「外の世界は楽しいよ」
「ぬ、ぬぅ?」
「三文字が四文字になろうが、奇の文字を入れようが入れるまいが。 
そんな事では語り尽くせないほど、『外』は楽しい。 世界は広いぜ、妹よ」
「……それを一晩中聞かされるのも、何やら少しばかり歯痒いのう」

旧家を構築する因習や体面に縛られ、家の中では身動きが取れず。
知りうる『外』と言えば学校のみだが、俺の生まれ育ったこの小さな村の中に限っては、それすらもが『家』と地続きである。
文字通りの意味でも、無論そうでなくとも。
少なくともこの群落の中に生きている間は、家から切り離された空間など何処にも存在しない。
それが、俺の生まれ育った村落で、妹が現在進行形で息をしている土地の現実。
『中』で過ごすしかない妹が『外』の世界の事を語られるのに、多少ならずとも歯痒さを覚えるのは無理のない事なのであった。

自分たちに都合の良い物だけで作られた、気味の悪いほど整然とした箱庭。
雁字搦(がんじがら)めの鳥籠。
種々の不自由を強制するだけの存在にも思えるそれらの鎖は、しかしながらその代償として、確実な庇護と安全とをその中の小鳥に齎す。
事ある毎に親父と衝突しては『仕置き』と称する様々な苦難を強いられていた当時の俺は、それだからこそ逆に、この家の庇護にどれだけの効力があるかも把握していた。
様々な憂慮の余地こそあれど、最低限この家の『中』で生活をしている限り、飢餓や貧困とは無縁の状況で生きていく事ができる。
それどころかむしろ『家』に寄り添って生きる事さえできれば、この集落の中では絶大なる力を持つ事すらできる。

『何はなくとも命を繋ぐ事さえできればそれで良い』と思っていた。
あのままじゃ俺は比喩表現抜きに窒息して死んでしまっただろうし、あの時の俺には自分以外の誰かを守ってやれるほどの力なんて備わっていなかった。
他に為す術を持っていなかった事の言い訳にしかならないのかもしれないが、それでも当時の俺はそれこそが『最善』だと思っていたから。
だから――
命を繋ぐために、俺は家を飛び出した。
命を繋いでもらうために、妹一人をこの家に残した。
それが、もう一年以上も前の事になる。

半ば意図的に後ろを振り向く事などなく。
都会での月日は驚くほど滞りなく。
便りが無いのは良い便りだと自分に言い聞かせ。
誰もが自分を『どこにでもいる普通の男子生徒』として扱ってくれる環境に甘え。
何時しか俺は心のどこかで、このまま実家の事を忘却の彼方へと追いやろうとしていたのかも知れなかった。

だが、ひょんな事から寮を追い出され。
隠す気など欠片も存在しない親父の悪意を真正面から思い切りぶつけられ。
季節のせいになどしたくはないが、やはり夏特有の『何か』に突き動かされるようにして屋敷を強襲し。
塀をよじ登り。
大量の花火をセットし。
今か今かと待ちわびた、群雲に隠れていた月が顔を出したその瞬間――

妹が、姿を現した

かつてそこに微笑が存在していたのかすら疑わしい、蒼白なる憂い顔。
空虚なる眼差しで月を穿つ、半ば以上が骸にしか思えなかった立ち姿。
別れ際に胸に刻み込んだ『気丈な妹』が壊れされかけているのを目の前にした時。
俺は、一昨年の自分の選択が大いなる間違いを孕んでいた事に気付かされたのだった。

『物忌み』だなんて仰々しい宗教文句で飾ってはいるものの、そこに本人の意思決定権がなければ、それはただの家人による『軟禁及び隔離』に他ならない。
他人との接触を禁止され。
自室からの外出すら禁止され。
その原因を作り出したのが『忌人』たる俺の帰省だったとは言え、半ばとばっちりを受ける形で生活の大半を規制されてしまったのが、今日と云う日の妹であった。
俺がこの家にいた時から度々見受けられ、つい先ほど目にした現状から判断するに、今も変わらず。
そして恐らくはこれからも飽く事無く連綿と続いていくのだろう、余りにも異質で歪で暗鬱とした、俺の目から見れば明らかなる『異常』の日々。
自分の意思の届かぬ所から降ろされる命令にただ従い、『逆らう』と云う選択がある事すら萎えた心には思い浮かばず。
次第に心は『異常』に慣れ、何時しかそれは『日常』となる。
そうして出来上がる、この家にとって全く都合の良い、ただ頷くだけの肉人形。
まるで能面の様な壊れた笑顔を貼り付けて日がな一日縁側に座る、妹が生まれる前に死んでしまった曾祖母の姿こそが、その壊れた『日常』の成れの果てだった。

思い返す度に背筋が寒くなる。
日の当たる縁側で俺の首を絞める祖母の、皺枯れた手の感触。
口元から微かに聞こえた呪詛。
狂った日常に順応するために、同じように狂ってしまった祖母の笑顔。
良い子は泣かない良い子は泣かない良い子は泣かない良い子は泣かない泣かない泣かない泣かない泣かない泣かない泣かな泣かな泣かな泣かな――

あら しずか
  に なった
ぼうや は
 よい こ
ねんね し な

「――っ! ……い、妹よ」
「む? なんじゃー?」
「あ、あー、えーと……。 と、隣の柿はよく客を食うらしいぞ。 おっかないとは思わないか、妹よ」
「……また兄上は訳の判らぬ事を」

唐突に馬鹿な事を言い出した兄に対し、冷ややかな視線を叩きつけてくれる妹。
どうやら俺の出来の悪いジョークでは、妹を笑わせてやる事は適わないらしかった。
悔しい、と思う。
笑っていてほしい、と願う。
馬鹿みたいに単純な方法しか思い浮かばないけど。
その場限りの笑いを与えたからと言って何がどう変化する訳でもないけれど。
笑顔が見たかった。
他のどんな要因でもなく、俺の力でお前を笑わせたかった。
否、『笑わせたい』だなんて弱々しい希望で終わらせはしない。
この夏が終わるまでには、必ず笑わせてみせる。
夏が終わったって。
俺がこの家からいなくなったって。
何度も何度も思い返しては堪えきれない笑いが込み上げて来るくらいの、強烈な何かを妹の記憶に叩きつけてやる。
小・中・高と『夏休みの友』なんか一度だって提出した事のない俺に、避けては通れない夏の課題ができた瞬間だった。

「今年は長い夏になりそうだな……」
「何を言っておるか兄上は」
「んが?」
東北の夏など瞬きの間にすぎぬ。 梅雨明けと同時に秋茜が空を舞い始める事を、僅か一夏でもう忘れてしまわれたのか」
「冷静に突っ込むな。 長い夏ってのは、気分的な問題だ」
「気分的な問題………ぬぅ、やはり兄上の気分はそうであるか……」
「ふが?」

ふむむと唸って下唇に指を置き、所謂『思案中』の仕草を取る妹。
その余りに真剣な表情に、俺が無駄口を叩くのを躊躇った空白の数秒間。
考えを纏めた妹が見せた透徹な表情は、俺が記憶しているどんな場面の妹よりも、随分と大人びた雰囲気を漂わせていた。

「無論私とて、今年の夏は長くあってほしいと思っておる。 だが、それは土台からして無理な話じゃ」

目を閉じ、首を横に振る。
仄かに歪む口元は、諦めか、それとも自嘲か。
判断付かない刹那の後に、妹の唇は再び緩やかな動きで言葉を紡ぎ始めた。

「今年の夏はきっと……生まれてから一番短い夏に決まっておる」
「して、その心は?」
「楽しい時は速く過ぎると、この世界の誰もが口を同じくして言うではないか」
「楽しい? 騒がしい夏なら提供する自信もあるんだが、それが楽しい夏になるかどうかは保証の対象外だぞ

「此の世に生を受けてから十と余年。 兄上と離れて過ごした夏は、去年が初めてじゃ。 離れておった兄上と再会して過ごす夏も、今年が初めてじゃ」
「……それが、楽しみだと?」
「楽しみで仕方がない」

言い切られた。

「だから、私にとって
この夏は、きっと驚くほどに短い。 だがその傍らで兄上の夏が永く続くと云うのであれば、こんな寂しい事もないではないか」

同じ空の下で風を感じ。
同じ家の中で時を過ごし。
同じ土の上で同じ景色を見て、日々を淡々と咀嚼して送る夏休み。
それなのに、そこで抱く感情が二人まるで別々な物だったとしたら、何とも悲しい。
多少の感受性の違いを考慮に入れたとしても、それはあまりに悲しい構図ではないだろうか。
『俺に対する扱い』と云う点で父親と自分との感情に差異がある事を知っているだけに、妹にとってそれは、単なる杞憂では済まない心配事となっているらしかった。

永く続けば良いと願えば願うほどに、しかし心からそう願うからこそ、日々は疾風の如くに過ぎ去っていく。
追わば逃げ、止まれば笑う、影法師。
天邪鬼にも程があろうとは思わぬかね、兄上よ。
最後に「まったく、誰かさんにそっくりじゃ」と云う余計な一言までをも付け加えた後、俺の返答も待たずにくるりと踵を返す。
そうかと思えば屋敷に向かってすたすたと歩き始めるその後姿に、俺は軽い拒絶のような雰囲気を感じ取っていた。
『いやしかしそんな話の流れではなかったはず』とは思うものの、考えてみればこうして妹と会話する事すら実に一年半ぶりの事である。
何しろ我が妹ときたら、一緒に暮らしていた時ですら何を考えているのかよく判らない事が多かったと云う、何とも厄介な娘御さんであったりする。
まして四百日以上も音沙汰無しで暮らしてきた今となっては、その思考を捕らえようとするだけ無駄と云う気さえしてくるのだから、何やら兄として情けなかった。
抑揚の少ない声。
背を向けられていては表情すら拝めない。
他人の感情が判らないと云うのがこんなにも不安を掻き立てるものだとは、今まで十数年間生きてきた中で全く気が付かなかった事柄であった。
少なくとも向こうの街で過ごしてきた日々の中では、こんな不安を抱いた事はない。
だとすると俺にとって妹の存在と云うのは、あの街で出会ったどんな人間よりも特別なものだと云う事になる。
だがその『特別』がどんな意味を持っているかを考えるのは酷く面倒だったので、俺はそれを手っ取り早く
『機嫌を損ねてはいけない危険人物第一位』として片をつける事にした。
うむ、ここはやはり流石と云うべきだろうか。
俺の唯一の支配者にして、俺の最大の理解者よ。

「ん? 何か言ったかの、兄上」
「何でもないよ」
「?」

心の中で拍手をしまくると云う不審な態度を取る俺に対して、大袈裟に首を傾げながら「また兄上は…」と小さく諦念の意を示す妹。
無駄な心労をかけて申し訳ないとは思ってみるものの、考えている事を口にしたってどうせ呆れられるか怒られるかの二択でしかないので、ここでもやはり俺は口を閉ざす事にした。
軒先の下、縁側の一歩手前。
冷たく湿った土の感覚が、安物の靴越しにも感じられる。
結局ここまで一度も振り返る事のなかった妹は、そのまま屋敷内に上がるのかと思いきや、三和土(たたき)に設置された踏み石の上に乗り、そこでぴたりと立ち止まった。
それから、背中越しにも判るほど大きな溜息を一つ吐き。
だがそれでもまだ、俺に視線を合わせないままに。

「まったく……ただでさえ憂鬱になりそうなほど山積みな宿題があると云うのに」
「んあ?」
「ここにきてまた一つ、大きな課題ができてしまったではないか」

呆れたように、困ったように言う。
溜息混じりに言い放つ。
「また一つ、大きな課題」
妹が唐突に口にしたそれが何を意味するのか理解できず、暫しその場に呆然と立ち尽くす。
何やら責めの意味合いが言葉尻から感じられるので、どうやらその課題とは俺の存在に起因するものであるらしかった。
そりゃ今まで音沙汰のなかった人間、それも実家では忌み嫌われている人間がいきなり帰省してきたのだ。
何をどうしたって面倒事の一つや二つも出てきてしまうだろうけども。
そんな事は言われるまでもなく、判り切ってはいたのだけれども。
改めてこの家における自分の処遇を思い返し、気持ちが重くなる。
まさか妹にまで厄介者扱いされるとは思わなかっただけに、尚更に気が重くなる。
『まさか妹にまで厄介者扱いされるとは思わなかった』と云う何の根拠もなく持っていた独り善がりな自信に、いっそ死にたくなるほどの羞恥を覚える。
諸々の憂慮が陰鬱な実家の雰囲気と入り混じり、やはりどうにも今年の夏は長くなりそうだと思った俺が全てを諦めた溜息を吐こうとした瞬間――

踏み石の上に立つ事によって俄かに背の高くなった妹が。
どんな意図でかは不明だが、生まれて初めて俺と対等の目線を獲得した妹が。
振り返って。
笑って。

「兄上の夏を短くする。 それが、今年の夏の最重要課題じゃ」

完全無欠の無邪気さと、並々ならぬ決意。
合わせて咲かせる、大輪の花。
それはまるで向日葵のような、強さと美しさを兼ね備えた満面の笑みだった。
向日葵に例えられるからには、月明かりの下では場違いにも程があるだろうに。
そんなにも可愛らしい笑顔を見せる相手くらい、他に幾らでも見つけ出す事ができるだろうに。
しかしそれでも、昼日中と遜色のない輝きを叩き付ける。
だがしかし、ただ俺一人の為に叩き付けられる。
蒼刻の中に気高く咲く、温室育ちとは思えないほど力強い微笑み。
それは、俺が『そうであってほしい』と願っていたものよりも、もっとずっと上等かつ魅力的な表情だった。

今夏の目標として掲げていた物が、しかもそれより数段素敵な形で唐突に目の前に曝け出されてしまった今。
何の力も発揮できなかった凡庸な兄のできる事と言えば、ただ一つ。

「そうか、お前は俺の夏休みをそんなに早く終了させたいのか。 そんでもって早く都会に帰ってしまえと言うのか。 うむ、お兄様は悲しいぞ」
「……さては今までの話を何一つとして聞いておらなんだな? 兄上よ」

やたらと俺の心を和ませる妹の笑み。
込み上げてくる頬の緩みを、『照れ隠し』と云う名の憮然とした仮面の下に押し隠す。
凡庸な兄にできる事など、そんな傍目にもバレバレであろう悪足掻きをするぐらいが、関の山なのであった。
許せ、妹。
お前が慕っている兄上は、お前が思うほど素直な人間ではないのだよ。