「あの後の騒動も酷かったのう。 まさか、五親等以内二十歳以上の分家縁者を全て呼び寄せての親族会議にまで発展するとは思わなんだぞ」
「……思い出したくない、思い出したくない」
「このご大層な『本家』をも揺るがす大騒動など、兄上以外の者ではそう易々と適う事ではないだろう。 つくづく私は、凄い兄上を持ったものじゃ」
「……認めたくないものだな、自らの若さゆえの過ちと云うものを」

眉間に覚えた鈍痛が、その当時の事をよく表している。
『思い出したくない』と云う事を、これ以上なく明確に思い出させてくれる。
断片を脳裏に描いただけでも拒絶反応が出るくらいの忌わしい記憶なので、俺はここで全てを思い出す事はしなかった。
大体は妹が口にした通りである。
大きな間違いなど特に孕んではいない。
それでもあえて補足する部分があるとすれば、『議事進行の如何によっては、俺は今頃日の当たる地上にはいなかっただろう』と云う事ぐらいだろうか。
これは次期当主である妹ですら未だ全容を明かされていない、言わば我が血族の裏の顔に直結してくる事柄だった。

基本的に他の土地の人間を受け付けない、東北の海沿いにある排他的集落。
その中でも更に排他的な、『血統』に拘り続ける旧家とその親類縁者共。
交通の便も悪く、第一次産業に従事する人間が多数を占め、加えて上記の様な空気が蔓延している土地の事である。
新たな人口の流入など見込めるはずもなく。
それ故に、近しい者同士での結婚や相姦は、当時から然程珍しい事柄ではなかった。
迎え入れた嫁を若者集が夜通し犯し抜き、確実に子を孕ませると云う風習までもがこの土地にはあったそうだ。
迎え入れるべき嫁すら見つからなかった時には、兄妹間ですら子を成して世継ぎにしたとも伝えられている。
そうしてどの位の世代間、その様な事が繰り返されてきたのだろうか。
段々と血は濃くなり、濃くなった血は流れる事を許されず、流れざる血は必然的に澱を産む。
淀み、溜り、濁りて、腐る。
二重螺旋が狂々(くるくる)と絡まり、緩慢に、しかし確実に、『設計図』は正規の形を保てなくなっていった。

白雉、畸形、気狂い、死産。
近親結婚を続けていく内に、明らかに異常な頻度で生まれてくる、種々の障害を持った赤子の数々。
それは、不自然な形で幾重にも積み重ねられた血脈の、負の遺産だった。
当然、働き手にはなりはしない。
しかし食い扶持としては、確実に『一人前』として存在する。
そして本家の人間にとって『そんなこと』よりも遥かに重要なことは、自らの血族から『デキソコナイ』が生まれてくると云う忌まわしき事実であった。
もしもその様な風評が広がる事があれば、近隣集落からの蔑視や迫害は免れ得ない事となる。
それは、今のように『物流』と『人間』とが切り離されていなかった時代の事。
『人』がその地を避ければ『物』も自然と供給されない事となり、当時としてそれは比喩表現抜きの死活問題であった。
知られてはならぬ。
生かしてはおけぬ。
厄介者、厄介者、厄介者。
村を挙げての殺戮の決定に、腹を痛めた母たちの抵抗の余地は存在してはいなかった。

明治初期、俗に言う壬申戸籍の時代。
それは一言で言うならば、濃密なるゲマインシャフト(地縁・血縁による共同体)の時代であった。
俄かに産声をあげた憲法や法律より、長年受け継がれてきた因習や仕来りが人々の生活を縛っていた時代。
杜撰な戸籍制度が全ての地域実態を把握していなかったその陰で、凄惨なる血塗れの儀式は常にこの家系に付き纏っていた。
貧困に端を発する口減らしや姥捨てならば、まだ同情の余地はある。
しかしこの家で行われていた事は、そんな生易しいものではなかった。
文字通り『デキソコナイ』であるからと云う理由で、実に多くの赤子や子供が、その全てを『なかったこと』にされていったのだった。
戸籍に登録すらされていない、間引きされた子供。
生まれた記録が無いのだから、死んだ(殺した)事を記載する必要も無い。
いかなる大逆の罪とは言え、その村に住む人間が口を閉ざしてしまえばそれで『何もなかった』事にできた、そんな時代の事である。
そうして、多くの赤子が殺された。
いや、『なかったこと』にされた。
『デキソコナイ』が生まれる度に、黒森山の中腹にて血生臭い『儀式』が行われ、神への供物が一つ奉納されると同時に、『デキソコナイ』は此の世から姿を消す。
全ての罪悪感を山岳信仰に擦り寄った『山の神への奉納』と云う形に摩り替え、赤子殺しの咎人たちは心の均衡を保っていた。

しかし、進みすぎた近親結婚による畸形児出産率は、いつしか間引きする側にも幾許かの躊躇いを生じさせた。
いかに『神への供物』と云う逃げ口上を与えられているとは言え、単純に『殺す数が増えた』と云う事が、彼らにとって重荷になった。
更に、急速に整いつつある法整備と戸籍制度が、彼等の動揺に拍車をかけた。
積み重なる罪悪感。
いつ官憲に摘発されるかも知れぬと云う恐怖心。
前者より後者の方が多かったとしたら、それは既に『人』ではなかっただろうが、人の心の本当の所など、実際は誰にも判らないのが世の常であった。
そして、大正四年。
戸籍制度が更なる改正を向かえたこの年に、本家会議は三日三晩の喧々諤々を経て、最終的に三つの決定を産出した。

一、『祭祀執リ行イタル分家ノ解体』
一、『生マレタル畸形児一切ノ面倒ヲ司ル分家擁立』
一、『畸形児間引ク事ノ禁』

黒森、早池峰、十二神と云ったこの地に伝わる山岳信仰神楽の保存・伝承を一手に担い、更には年中行事に於ける禊や祓などを司る。
しかしその裏では『祭祀』の名の下に実に多くの赤子を殺し、神木の下にて血に狂った儀式を行ってきた。
それこそが『祭祀執リ行イタル分家』として不動の地位を占めていた、分家筆頭である『神原』の一族であった。
他の分家とは一線を画し、神職として不可侵の権威を持つこの分家は、元々の字を『神腹(かむはら)』と書く。
自らを神に連なる者とし、更には複数家に血を分ける事をも意味する『腹』の字を持つ名の通り、この家は実に多くの孫家を抱えていた。
数ある分家の中でも特に『筆頭分家』と名乗る事を許されていたのも、その辺りに起因しているとされている。
しかしそれだけに『家』として負わされる責務もまた重大であり、その最たるものこそが、『奉納』と云う神事の名を借りた畸形児殺しの仕事であった。

その仕事を一手に担っていたのは、神原の系図の中でも更に傍流の小さな分家。
神原本家とは血筋も遠く離れていたために、苗字にも『神』の一字を拝してもらえないほど小さな家。
見方に因るまでもなく『汚れ役』を押し付けられたのだと判る不運なその家の名前は、『綿貫』と云った。
『奉納』の執り行い方、それ即ち『畸形児の腹を掻き捌き、腸(はらわた)を抜き出して神木の枝葉に投げ掛ける』こと。
故にこの家の名は、本来の文字通り表記すれば、『腸抜(わたぬき)』と云う文字を宛がわれる。
名実共に、血に塗れた分家であった。

実際には綿貫の家が執り行う『奉納』とは云え、俯瞰的に見ればそれすらもが『神事』の中の一つであり、であるとするならば全ての所業は『神原の一族』の手による物とされる。
それは本当に、最も信頼をおける分家だからこそ任された任務だったのか。
それとも、本家筋の人間にとっては、何時か『この日』が来る事までも計算通りだったのか。
『穢れた仕事』と『格式の高さ』は、所詮は相容れぬモノ。
日頃から『冒されざる者』として存在していた神原の家は、ただその一点において大きな傷を持っていた。
『持たざる者』である他の分家の人間は、機会さえあればその傷を抉じ開ける事によって、自らの劣等感を払拭しようとしていた。
さても醜き人の情念。
それより醜き『腸抜』の儀式。
そしてついに、大正四年。
穢れと、他の分家からの嫉みと、狂いに狂った遺伝子と『大正』と云う抗いようの無い時流に揉まれ。
筆頭分家として揺るぎない地位を確立していた神原の家は、易とも簡単に瓦解した。
それが、第一の決定である『祭祀執リ行イタル分家ノ解体』である。
ちなみにこれ以降、筆頭分家の座には本家守役としての任を持つ『門馬(もんま)』家が坐る事となる。

一説に拠れば、この神原家解体の一幕には、本家筋の人間の意図的な画策があったとされている。
つまり、神原の一族は分家として不相応なまでの力を持ったがために、本家の人間にとって危険視されたと云う事である。
確かに大正四年当時の神原一族は12の分家と36の傍系を抱える巨大勢力であり、しかもその結束は『神職』と云う鎖で堅固に結ばれていたと、当時を語る文献には記されている。
無論、事の真相は闇の中である。

第一の決により『神原』の性はこの世から消え、後には再編成された四つの分家が残った。
神楽伝承を主命とする『榊(さかき)』の家。
祝詞や祓等と云った法を後世に継ぐ『枳殻(からたち)』の家。
呪詛や外法の理を秘して伝える『岩間(いわま)』の家。
そして新たに擁立された、『生マレタル畸形児一切ノ面倒ヲ司ル分家』である。

最後の分家に与えられた姓は、『忌むべき仕事』、即ち『忌部(いむべ)』。
対外的配慮によって字面を変え『伊部(いんべ)』として今にも残るこの分家は、一族の中でも特に『卑しき部民』として蔑まれた。
第三の決により『畸形児間引ク事』が禁止されはしたが、だからと言って生まれてくる畸形児の数が減少する訳ではない。
そして彼等(忌部)の存在意義は、『生マレタル畸形児一切ノ面倒ヲ司ル』ことである。
『面倒を見る』だなんて云えば聞こえは良いが、要するに彼等の仕事とは、『対外的に存在を知られたくない者を隔離・隠蔽』する事だった。
盲(めくら)、片端(かたわ)、唖(おし)、白雉(はくち)、気違(きちが)い。
そして俺のような、本家にとって都合の悪い人物。
『普通とは違う』と云う意味でもって『畸形』とされる者達を、全て単一の里に押し込んで蓋を閉めてしまおうとする、何とも残酷でおぞましい計画。
まるで黄泉の国を此の世に創り出そうとでもしたかのような、ニンゲンとしてあるまじき大いなる愚考。
それが、大正四年の本家会議で決定された三つの事柄の意味する全容であった。

母体を『祭祀執リ行イタル分家』の中の一派としながらも、『忌部』として選出されたのは、前述の『奉納』に直接携わっていた人々のみ。
つまり、『綿貫』の家の者がそっくりそのまま、『忌部』として扱われるようになったのであった。
『奉納』と称して赤子の腸を神木に吊るしてきた、おぞましき血塗られた分家、腸抜。
しかしその『奉納』の儀式とて大本を正せば、『畸形が生まれた事を受けて、本家が綿貫の家に”奉納”を依頼する』と云う形で行われていたのであった。
自らが望んだ訳でもなく、しかし分家が本家の依頼を拒否する事など断じて許されなかった時代の、穢れ多き『奉納』の因習。
己を殺してまで任務を執り行ってきたと云うのに、与えられたのは『忌部』としての更なる蔑視。
いかに本家会議による多数決の結果とは言え、この『忌部』としての選出は、彼らにとって事実上の裏切り行為に等しかった。
無論、そこに将来の禍根を残すほど本家筋の人間も馬鹿ではない。
賤民としての侮蔑と引き換えに、彼らには旧神原家の所領の3/4が与えられた。
また、彼ら住む一帯は『伊部の下に閉ざされる(支配される)群落』と云う意味でもって、『下閉伊郡』と名付けられた。
だが、他の分家の人間は当然の如く、その土地に足を踏み入れる事を拒むようになった。
忌部の人間もまた、賤民として扱われる事が判っていたので、余程の事が無ければ群落から外へ出ようとしなかった。
交通の便悪く、人の心荒み、気温環境甚だ厳しく、寄り付くモノは気違いと獣のみ。
こうして、前代未聞の排他的被差別部落が、東北の片田舎に誕生した。
無論、この件に関する住民の移住や苗字の変更等と言った出来事は、公的な記録には一切記述されてはいない。
全ては闇から闇へと葬られ、村人の中に僅かに知る者が居るのみであった。

本題に戻るとしよう。
そもそも何で『忌部』の事なんかに触れたかと云うと、その理由は至って簡単。
簡単簡潔に結論から言ってしまえば、あの当時の俺は、忌部の里に幽閉される一歩手前だったと云う事である。
五親等以内の親類縁者を集めて行われた本家会議での議題も、徹頭徹尾その一点のみ。
特に俺の親父様なんかは、『処断すべし派』の最右翼であったそうだ。

「幽閉などでは済まさぬ! 獄死など待たぬ! 社会的にも肉体的にも、此の世から抹殺してくれる!」

鬼の形相で、そう息巻いていたそうである。
世が世であったなら、それこそ『奉納』も止む無しだったのだろう。
しかし皮肉な事に、親父一人が激昂し冷静さを欠いていると云う状態は、逆に親族会議全体を慎重論へと向かわせたらしい。
もっとも、あの当時の俺は本家地下牢に投獄されていたし、後になってからだって詳しい様子を教えてくれる人間なんかいるはずもなく、真相は今だ闇の中である。
だが今もこうして俺が生きていると云う事はつまり、全て事の運びが『そういう事』になったからに違いなかった。
棚から牡丹餅、と云う言葉を使うのには若干の語弊が生じるだろう。
とは言え、順当に会議が進行していたのなら、俺の処断は止むを得なかったはずである。
何を隠そう、主犯であり被告であり投獄されている状況であった俺自身ですら、『何らかの処罰は順当である』と思っていたくらいである。
つまりはそれくらい『家長に歯向かう』と云う行為は大それた事であり、まして本家でそんな事態が起こるなど、前代未聞の事柄だと云う事であった。
実際、俺が引き起こした『妹の物忌みぶち壊し大作戦』は、親父の趨勢にとんでもない大打撃を与えたらしい。
随分後になってからだが、風の噂でそんな話を聞き及んだ事もあった。
確かまだ、100円でジュースが買えた頃の事だった。

誰も表立っては笑わぬものの、権力の上に胡坐をかく者は、木陰からの嘲笑にこそ敏感に反応する。
常に自分が『裸の王様』と紙一重である事を知っているだけに、親父は誰よりも自分の足元を固めるのにご執心だったと聞く。
まして我が家には『家督を継ぐ者は直系女子に限る』と云う、何処の誰が決めたのかも判らないような不思議な仕来りがあるのだった。
本質的な権利者ではない入り婿の親父は、元々が本家筋ではない事に対して非常なる劣等感を抱いている。
実質的な支配こそしているものの、究極的には『余所者』である事に、朝な夕なに悩んでいる。
そんな所に俺のようなロクデナシが誕生し、家訓の一つも復唱しないような餓鬼に育ち、勘当同然に家を飛び出し。
あまつその馬鹿が帰郷し、そうかと思えば枳殻と門馬の家を巻き込んだ物忌の最中にあんな事をしでかしたのだ。
息子に牙を剥かれるなど前代未聞。
それも由緒正しき本家の家長がである。
更には本家に歯向かった小僧一人を、本家会議に召集をかけてまで抹殺し得なかったと云う、厳然たる事実が親父に追い打ちをかける。
いかな理由があれど実の息子を幽閉、獄死させようとするなど正気の沙汰ではない、と判断されたのであればまだ上等。
例えばそれが分家の者共の、傲慢な本家に対する嘲笑の機会を得たと云う意味での議事否決だったとしたら。
それはもう、本家瓦解の危機が間近に迫っている事をも意味する。
そして本家瓦解とは、親父の死とほぼ等式で結ばれる。
誇張や比喩表現一切抜きで、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた親父。
俺が生きているだけで砂を噛むような気がしていたのだろうし、俺と同じ屋根の下に居るだけで針の筵に坐らされているような心持ちだったのだろう。
だから――

「……なあ妹」
「なんじゃ?」
「親父の好きな酒とか、判るか?」

――だから、殺したくなるのも、死にたくなるのも、今なら少しは理解できそうな気がした。
殺されるぐらいなら、死ぬくらいならばいっそ一思いに馬鹿息子を殺してやろうと思うのも無理はないんじゃないかとすら、二十歳を超えてようやく思えるようになってきたのだった。
だけどやっぱり殺されるのも死なれるのも御免なので、せめてもの詫びとして好きな酒でも買ってやろうかと。
自分でも『柄にもない』と自嘲したくなるような孝行心。
柄にもないが故の照れくささ故に、多少ぶっきらぼうな声音で妹に告げる。
だが案の定、それを聞いた妹の顔が見る見る内に怪訝な物へと変わっていったりした訳で。
それだけならまだ想定の範囲内であったにも拘らず、この妹ときたら言うに事欠いて。

「……兄上」
「なんだ?」
「毒殺はいかん、毒殺はいかんぞ!」
「……はぁ?」
「父上の好みそうな酒に毒を盛って殺そうだなんて、そんな卑劣な真似は許さぬからなっ」
「…いや、別に毒を盛ろうだなんて気は…」
「い、一升瓶での撲殺もダメじゃぞ! まして静脈に直接アルコールを注入しようなどと――」
「待て待て待て! さっきからお前は一体何の話をしてるんだ!」
「…兄上が酒で父上を殺そうとするから…」
「するかっ!」

どうやら妹の考える『兄と父』と云うのは、何が何でも殺し合いを演じなくてはいけないほど仲の悪い間柄のようである。
だが、ほんの数年前まではあながち間違いでもなかっただけに、俺としては殺意の否定ぐらいしかやる事が残されていなかった。
まったくもって、剣呑な屋敷である。