「兄上! 兄上はいずこか!」
「ど、どうした妹。 今日はまた一段と恐ろしい般若のような顔して」
「誰が般若か! 私が般若と云うのであれば、兄上は鬼じゃ! 鬼の子じゃ!」
「いや、俺が鬼の子だったらお前も鬼の子になるだろ。 兄妹なんだから」
「ええい、あー言えばこー言う! 兄上なんて糠に釘を打って死んでしまえば良いのだ!」
「一応突っ込むと、それも死なないからな」

糠に釘ってのはアレだ、暖簾に腕押しとかそんな意味の、要するに手応えがまるでないって意味の慣用句だろ。
まあ自分の怒りに対して俺が適当な対応しかしない事に関しての言葉だってんなら、あながち間違いでもないんだろうけど。

「で? お前は一体俺の何が気に喰わなくてそんなに怒ってるんだ?」
「……八年前」
「……はぁ?」
「覚えておらぬのか! 御自分が今を去ること八年前に、この妹に何をしたのかを!」

アニメとかマンガとかの世界なら結婚の約束でもしてたんだろうけど、残念ながら俺と妹はそんな約束をする間柄ではない。
もし仮に結婚の約束だったとしても、それで妹がぶち切れている理由が判らない。
しかし妹が思い出してぶち切れるような事をしていないかと問われれば、「やったかもしれない」としか答えられないのが当時の俺だった訳で。
八年越しに怒りを結実させるなんて、まるで柿の木みたいな妹だと俺は思った。
思ったのみならず、ぼそっと口に出してしまった。
お前、柿みたいな奴だな。

「……それじゃ」
「それ? どれ?」
「柿じゃ柿! 兄上は八年前の秋! 紅葉の色付いた庭を眺めるこの縁側で! 私に何と申したか!」
「八年前の秋……この縁側…」

* * *

『妹よ、妹』
『なんじゃー、あにうえー』
『確か、お前は柿が好きだったよな』
『うむ、あのようなかんろは果物の中でもめずらしいでの。 やたらすっぱかったりするミカンやイチゴよりずっと好きじゃ』
『そうかそうか。 なら、そんなお前に良い物をやろう』
『よいもの?』
『じゃーん』
『ふむ? ……かんじがむずかしくて読めぬ。 読んでくれあにうえ』
『これはな、カキのタネって書いてあるんだ』
『なんと、カキのタネとなっ』
『これさえあれば、”夕ご飯が食べられなくなるでしょ”とか五月蝿い母さんに頼らなくても、好きなだけ柿が食べられるようになるんだぞ』
『そ、そんな良いものをあにうえは私にくれると言うのかっ?』
『たーだーし。 世の中には”桃栗三年柿八年”と云う言葉がある』
『む…むずかしいじゅもんだのう。 まさかそれをおぼえなくては、カキが食べられぬと云うのか?』
『違うよ。 つまり、今からその柿の種を庭に埋めたとしても、じっさいに実を食べられるのは八年後になるって意味さ』
『なんだ、そんなことか』
『そんな事って。 今年でようやく八歳になったばっかりのくせに、八年と云う時間を”そんなこと”扱いかよ』
『べつに短いとは言うておらぬ。 まったく、何もわかっておらぬのう、あにうえは』
『何をだ』
『今年であれば八年後を、来年であれば七年後を。 そうしてかわらぬ楽しみをいだきながら秋をすごしていけるのは、むしろ喜ぶべきではないのかの?』
『……なるほどね』
『それに……』
『ん?』
『あにうえはそう遠くない内に、この家を出ていくのであろう?』
『………』
『かくさずともよい。 うすうすは気づいておった』
『あー、それはまぁ…いつかはって考えちゃいたけど』
『八年後、そのときはもうあにうえは私のそばにはおらぬかもしれぬ。 この家にあにうえがおらぬようになって、幾年もがたっているやもしれぬ。
 だがのう、そんなときでさえこの庭でりっぱに実をむすんでいるカキの木を目にすれば、あにうえのいない時間をさしょうなことと思える気がするのだ。
 生まれてからずっといっしょの八年間という時をすごし、八年目の秋に八年後をやくそくする木のたねをさずけてもらい。
 それからの八年間も、ちゃんと生きてきたと云うことの証にできる気がするのだ……』
『……そうか』
『むろん、かなうことならば、あにうえといっしょに八年目の今日をむかえたいと思っているのだぞ…』
『八年目の今日、か』
『木にのぼって実をとってくるのはあにうえのしごとじゃ』
『じゃあ、洗って皮を剥くのはお前の仕事な』
『おちゃも私がいれてやろう。 あにうえのいれるおちゃはどうにも温度かんりがざつでこまる』
『そりゃすまなんだ』
『ぜんぶのじゅんびがととのったら、二人でこのえんがわにこしをおちつけるのだ。 そしてあにうえは、八年分の私のくろうばなしを聞くのだ』
『…長そうだなそれ』
『なに、八年どころか八時間もかかりはせぬよ』
『充分長いだろそれ』
『楽しみだのう。 本当に楽しみじゃ――』

* * *

「その様子だと、完全に思い出したようだのう…」
「思い出したけど……普通に良い思い出話じゃなかったか? 何で俺は怒られてるんだ」
「……兄上」
「なんだ、妹」
「それは……あの頃の私は箱入りも箱入り、マトリョーシカの最小部分も驚嘆するぐらいの勢いで世間知らずであった事は認めよう」
「はあ」
「八年前の兄上が今よりも若干子供っぽくて悪戯に節操がなくて空気の読めないこと夜叉の如しであった事も、この際じゃから多少は考慮に入れるとしよう」
「あー、ありがとうございます」
「だがのう……だがそれでものう……」

ぷるぷると小刻みに震えている妹。
『寒いのかな?』なんて的外れな心配をした次の瞬間――
妹が、あの可愛かった妹が、もうこれは本当に安達ヶ原の鬼婆が乗り移ったんじゃないかってくらいの恐ろしい形相で。

「純粋無垢だった八年前の私に! お主は! ”亀田の柿の種”なんかで何を育てさせるつもりだったのだ!! 答えよ兄上!!」

ものの見事に、ぶち切れた。

「今日は芽が出るか明日は芽が出るかと期待して生きてきた八年間を返せ! 今じゃ! 今すぐにじゃあ!」
「お、落ち着け妹。 そもそも気付くのが七年ぐらい遅いんじゃないのかって言ったら駄目か。 駄目ですね。 はい、ごめんなさい、もうしません」
「楽しみにしておったのだ! 一日千秋と云う言葉に並々ならぬ共感を覚えながら生きておったのだ! それを! それを……」
「い、いもうと?」
「……ふ…ふぇ……うぇええ…」

泣いた。
あの妹が、マジ泣きした。
正直死ぬかと思うぐらい驚いたし、ついでに俺は死んだ方が良いんじゃないかとも思った。

「あにうえ、は、嘘をついた……ひぐっ…一緒に柿、食べようって、言った、のに…ううぅー…」
「ダッシュで買ってきます! 今まで手にした事のないような物凄い柿を買ってきます!」
「か、かきっ、柿なんぞ食べたくなっ……ただ私は、一緒が…一緒にっ、ふえぇええーん!」
「……ごめん。 久し振りに本気で謝る。 本当にごめんな、妹」

ぼかぼかと俺のことを叩く妹を、胸に抱いて謝った。
泣き止むまで、ずっと頭を撫で続けた。
日が沈む頃、ようやく泣き止んだ妹と、一緒に柿を買いに行った。
その後、中秋の大きな月を見上げながら。
約束とはちょっと違う形になったけど。
市販の柿と俺が淹れたお茶を挟みながら、俺たちは八年分の想い出を二人で語り合った。
ごめんなさいを、百回ぐらい言った。
妹は最後まで許してくれなかった。
そして最後に、庭の片隅に二人で、今度は本物の柿の種を埋めた。
八年後の今日が楽しみだと言ったところで、妹がようやく笑顔に戻った。

「八年間、兄上はこの柿の面倒を見る義務がある。 義務を放棄してこの家屋敷から出て行くことなど、この私が許さぬぞ」
「ならお前は向こう八年間、俺の柿の木栽培に伴う愚痴を聞くと云う義務がある。 辛い任務だけど、逃げ出すことは許さないぞ」
「無論だ、兄上。 私が兄上を置いてどこぞへと出立する事など、天地が裂けてもありえぬよ」
「いつまでそう言ってくれるんだかな…」
「む? 何ぞ言ったかのー? 兄上ー」
「何でもない。 それより、そろそろ冷えてきたから母屋に戻るぞ」
「了解じゃー」

ぱたぱたと前を走っていく華奢な背中。
あどけないと形容するには、そろそろ色香が邪魔をしはじめた。
せめて八年後までは一緒にいれたらいいなと思った、そんな秋の日のこと。
柿がとても甘かった日のこと。
妹が笑っていてくれた、秋の日のこと。