国崎往人は驚いた。
何に驚いたかって、まず彼は自分の姿に驚いた。
指がある。
五本ある。
試しにわきわきと動かしてみればそれらは完璧なまでの精度で自分の思った通りに動き、その事に彼は感動した。
何故なら彼が覚えている限りの自分の手は、大好きなラーメンセットを食べる為の箸すら握れぬ形だったのだから。

久方ぶりに物が握れる事に感動した彼は、暫くの間に渡って自分の手を結んだり開いたりしていた。
指が滑らかに動く事を確認し、常人よりかは逞しい二の腕を確認した彼が次にした事は、一筋の涙を流す事だった。

今更、こんなもの…

そう、彼にとって『人間』の姿に戻る事はあまりに今更であった。
無骨に過ぎる指ですら間に合っていたならば、彼女の涙を拭ってやれた。
柔らかくなど包んでやれない腕ですら『あの時』に持ち合わせていたならば、彼女を抱きとめてやれたのに。
全てはもう、遅い。
彼女は空へと環ってしまった。

しかし、と彼は考える。
炎天下の中で長考する趣味なんて欠片も無かったが、それでも微動だにせず彼は考えた。
真っ黒い服は苛烈な日光を全て吸収し、肌を天日に晒すよりも過酷な熱を身体に叩き付ける。
しかしそれすらも『今まで』を思えばまだ優しいものだと彼は考え、もう一度自分に備わった五本の指を見やった。
人間の、指だった。

自分の記憶が確かならば、俺はこの世から存在を消し去ったはず。
存在と言うか、肉体を失ったはずだ。
人間の身体を失い、時を逆巻きに流され、『あの日』観鈴が追いかけた小鴉に魂を宿し。
全てを思い出した瞬間に鴉の『器』が人間の記憶に耐え切れず。
それは丁度、観鈴の『器』が翼人の記憶に耐え切れず壊れたように。
俺は、魂ごと空に引かれてその存在を消したはずだ。

しかし現実には彼はその場にいた。
肉の身体を、望むべくも無かった人間の身体を持って、その場に立っていた。
大地の感触を足の裏で感じ、網膜を焼く陽射しに目を細め、何は無くともその場に立っていた。

人は経験を記憶として生きる生物でありながら、あらゆる記憶は現在の体験の前にあっけなく消え去る。
そうでなくてもこの国崎往人と云う青年、十年ならぬ十分を一昔として考えるような気質の持ち主である。
例えそれまでの記憶がどうであれ現実に自分が大地に立っているこの状況を思えば、彼にとって後はもうどうでもいい事だった。
そう、今の彼には他に気にかける事があまりに多過ぎた。
例えば―――

「……腹減った」

だとか

「……頭が痛い」

だとか

「……なんでコイツは裸で道端に転がってるんだ?」

とかだった。