全裸の少女と服を着た男。
半裸の少女と半裸の男。
服を着た少女と全裸の男。

どの状況が傍目に最も怪しいかを判断する術は、残念ながら彼の経験則からは大きく外れ過ぎて存在していなかった。
判る事と言えばとりあえず、どの選択肢を選んだとしても手が後ろに回ってしまう悲しい事実ぐらいだろうか。
それ以外、もといその先の部分など考えただけでも恐ろしくなるので、彼は考える事をほぼ意図的に止める事にした。
どれだけの時間を深慮思考に費やしたとしても、中空から衣服が産出される事など有り得ない。
どうせ好転しない事態ならせめて悪化しない様に尽力する事は、決して『諦め』ではないと、彼は思っていた。
生来の性格故にか、それとも流浪の日々を生きる内に身に付いた考え方か。
0か1かで生きていけるほど彼の人生は簡単なものではなく、0か1かで生きていけるほど彼の人生は幸福ではなかった。
そしてそれすら霞ませるほど、彼の『夏』は幸せな記憶に彩られていた。

―――沢山の思い出がある―――他には何も要らないくらい―――

『結果』で『過程』までをも否定する生き方をしていたならば、それは確かに『不幸』な結末だった。
もう二度と彼女は笑ってくれない、泣いてすらくれない。
彼女の作ってくれたラーメンセットは、とてもとても美味しかったのに。
あと一回くらいなら、神経を衰弱させる事を目的としたカードゲームに付き合ってやっても良かったのに。

まだ新しきに過ぎる痕を想う事は、薄く張り始めた皮膜を引っ掻く行為によく似ている。
どれだけ達観していようとも喪失はまだ記憶に生々しく、『考え方』なんて後付けの思考じゃ本能的な悲しみに抗えるはずも無かった。
『あの日々と俺達が歩んだ道は間違いではなかった』と、彼女が消えた後でも彼は確信を持って言える。
だが、それとこれとは話が別だった。
『後悔』と『悼み』は共に涙を伴うが、前者は主に自責の為に流され、後者はひたすらに彼の人へと向けられる。
鎮魂の調になどならない事は判り切っているがそれでも。
失った日々に想いを馳せれば声が震え、声が震えればそれは自然と『唄』となり、『唄』は哀しく大気を揺らす。

ああだから空はこんなにも涙の色に似た青をしているのかと、彼は今更ながらに天を仰いで一筋だけの涙を流した。

「………居候?」

ふと、彼の耳に聞き慣れた声が流れてきた。
半ば以上自失していた意識を地上に戻して、涙の後が頬に付いていない事を確認してからゆっくりと振り向く。
その声が最後に聞いた時よりもずっと弱々しく聞こえたのは、気の所為だと思う事にした。
クセの無い柔らかな髪を後ろで無造作に束ね、暑い最中にも関わらずスーツを着ている。
神尾観鈴の母、神尾晴子。

「なんや、まだこの町に居ったんか」
「……ああ」
「世話になるだけなっといて、サヨナラも言わんでふいっと消えてからに……少し薄情なんとちゃうか?」
「悪いな」
「謝るなら観鈴に謝りや………もっとも、もう何を言っても届かへんけどな」

晴子の言葉が暗に示す、神尾観鈴と言う少女の存在の消滅。
その事を知らないはずの往人に先を悟らせようとしてなのか、言葉の端には隠そうともしない含みが込められていた。
あるいは哀しすぎる『事実』を認めたくないが故に言葉を遠回りさせたのか、口に出して再確認などしたくなかったのか。
そんな事を往人が勘繰るそれほどまでに、晴子の声音は潮風に頼り無く震えていた。
いつも気丈に振舞っていた晴子の、今までで一番にか細い消え入りそうな声。
最も伝えたい『事実』が明確に言葉にされていないだけに、全てを知る往人の胸にその姿は痛かった。

「……何でや、居候」

伝えたい事

「そんなに……そんなに神尾の家は居心地が悪かったんか?」

否、伝えなくてはいけない事

「それとも、やっぱりウチがあんたを邪険に扱い過ぎたからか?」

往人の居ない間に観鈴の身体に何事かがあったのだと

「……せやけど……せやけどせめて後ちょっとだけでも待てんかったかなぁっ! なぁ居候!」

そしてそれは取り返しがつかないほど重大な事なのだと

「今更あんたが帰って来たって……あの子……もう此の世におらんやないか…」

往人の胸板に握り拳を二、三度叩きつけ、涙に詰る声を必死に絞り出す。
心の臓に直接ぶつけられる晴子の哀しみは、想像を絶するほどに強く深いものだった。
『母は強い』だなんて無責任な言葉、一体何処の誰が言い始めたのだろうか。
母が強いのは子への愛情だけであって、それすら喪失の暁には強さと同等だけの哀しみを齎すと言うのに。
涙に揺れる肩はこんなにも、折れそうなほどに華奢だと言うのに。

何を言ってやるべきか。
否、何か言える事が自分にはあるだろうか。
涙色の空の下で灼熱に焼かれながら、往人は苦悩を続けていた。
確かに自分は晴子の知らない多くの事を識っている。
だが、それを晴子に伝えて何がどうなると言うのか。
翼人、転生、記憶の継承、約束されていた結末。
説明し得る情報のどれもが一概には信じられるものではなく、下手をすれば晴子の心を今以上に掻き乱す恐れがあるものばかりだった。
馬鹿にしているのかと怒りを向けられるか、気が動転しているのではと憐れまれるか。
どちらの反応も望むべきものではないならば、いっそ何も告げずに時が全てを癒すのを待つのも悪くは無いだろうと往人は思った。
そう、これは諦めじゃない。
現状は限りなく悪いが、『最悪』ではない。
ならば罵りも蔑みも進んで受けよう、向かう鉾先が見えずに鬱積するだけの情動の矢面に立とう。
それが例え一時とは言え晴子の心を落ち着けるのであれば。
全てを知りながら何も言ってやれない俺が出来る事が、もしもそれであるのならば。

「なぁ晴子、観鈴は―――」
「―――まだ、死んではおらぬぞ」

全くの不意に発せられた第三者からの声は、音量以上の響きを持って二人の心に衝撃を齎した。