「久瀬、お茶」
「城を出て1kmほど走った辺りに久瀬家御用達の茶屋がある。 丁度茶の葉が切れていた頃だ、五分以内に買って戻って来るがいい」
「手前が行ってこいクソッタレ。 俺は客だぞ」
「生憎だが招いた覚えなど微塵も無い。 そもそも、伝書鳩如きが身分を越えてまでこの私に茶を請求するなど、滑稽話にも程がある」
「鳩? 今お前この俺の事を鳥類と同等に扱いやがったな?」
「恒温動物扱いしてやっただけ感謝してもらいたいものだな。 残念ながら哺乳類には一歩届かなかったようだが」
「っは、冷血爬虫類の分際でよく喋る」
「こんな明るい日中ですら人類と爬虫類の区別もつかないとは、悪いのは目か? それとも頭か。
 ああ、すまない、鳥目とは極端に視力が悪いそうだな。 つい人類の立場から物を喋ってしまった、これは失敬。
 クリフ、失言の詫びだ、大至急鳥の餌を買って来てはくれないか? どうせなら流用が利くように豆なんかを買ってきてくれるとありがたいのだが」
「お前、性格最悪だな」
「なに、君ほどではない」
「死ね」
「断る」

執事のクリフが頭痛を堪えながら部屋の片隅で溜息をついている、ある晴れた日の午後。
今日も今日とて【マーチ】国家執務宮庭内の応接室では、久瀬と祐一による非生産的な罵りあいが勃発していた。
時と場合によっては国家の代弁者たる二人が、言の葉も軽やかに互いを鳥類だの爬虫類だの扱いをしているこの現状。
これでも本当に【Kanon】と【マーチ】は同盟国なのだろうかと、クリフは今日だけで18回目になる溜息を人知れず吐いていた。

三国同盟締結から二週間が過ぎた。

祐一が久瀬に新書を渡した日からほどなく、【雪割】の使者が執務宮廷の門を叩いた。
そろそろ来る頃だろうと思っていた久瀬は何の気構えもなく、ただただ事務的にその使者を応接室に招き入れるよう衛士に指示を出した。
それから、今しばらくの間待っていてほしいと。
やりかけの仕事にケリをつけ、冷めきったコーヒーを一息に飲み、それからようやく会長室を後にする。
存外に待たせてしまったが、遊んでいた訳でもないので【雪割】の使者には勘弁してもらおうと、そんな事を思いつつ応接室のドアを開け。
そこで、久瀬は見事に凍りついた。

「お久し振りです、久瀬さん」
「……く、倉田さん?」
「はい、倉田佐祐理ですけど?」
「……何故、あなたが此処に?」
「それは勿論、【雪割】の使者としてです」

国家元首の娘が、99%決着のついている和議申し立ての特使として直々に来訪している。
今まで行なってきた外交政治のセオリーから35億パーセクほど掛け離れた不可思議な現状を把握するのに、さすがの久瀬の処理能力ですら5秒ほどの時間を費やした。
そして5秒後に出された結論すら、『理解不能』の一言だった。

「理解できないな……まさか現在の世界情勢を判っていない訳ではないでしょう?」
「ええ。 少なくとも女性の一人歩きが良い顔をされないぐらいに危険な状況だとは、把握しています」
「ならば何故」
「こんな状況だから、では理解していただけませんか?」

射し込む斜陽を照り返して輝く、美しいストレートヘアー。
穏やかな口調とは裏腹に憂いを湛えた瞳は、単純に『綺麗だ』と形容するにはあまりにも儚げに揺れていた。
こんな状況だから。
世界が戦禍に包まれようとしているから。
明日が約束されていない今日だからこそ、此処に足を運んだのだと彼女は言った。
一時とは言え同じ学び舎に籍を置いていた二人。
お世辞にも親交とは呼べないが、交流もそこには確かにあった。
今や有限になりつつある時の中で彼女が久瀬に直接会うと云う選択をしたことは、本来であれば無条件に喜んで差し支えのない事態に違いなかった。
だが。

「……止して頂けますか。 私には想い出話をする気もなければ、そんな時間もありません。
 まして私にそんな価値など無い事は、倉田さんの方がよくご存知だったと思いますが?」

過ぎ去りし青い日々に刹那のみ思いを巡らせ、それから久瀬は佐祐理の行動を真っ向から否定した。
声にも顔にも一切の情動を表す事無く、瞳は最後まで冷徹なままに。
そう云えばあの頃から自分は『会長』として生きてきたのだなと、久瀬は場違いにもそんな事を思っていた。
感情を捨て、不確定要素も排除し、求めたのは一体なんだったのか。
そんなものは決まっている、真面目な人間が損をする事の無い圧倒的な治世だ。

「こんな状況だと把握しているのであれば尚更、無駄な時間は省いて生きた方がいいですよ。
 少なくとも、私に会いに来るよりも有効な時間の使い方が他にあったはずです」
「この時間が有効か否か。 それは、佐祐理が決める事ですから」

それもそうだ。
これ以上は自分がとやかく言う事でもないと思い、久瀬はそれ以上態度を硬化させる事を止めた。
元々素直な感情のみで表すとするならば、彼女の来訪は一も二もなく『嬉しい』事柄なのだ。
見目麗しい年上の女性が自分に会いに来た事を喜べない男性など、世の中が広いとは言えそうはいないものである。
側近や侍女をして『淡白だ』と評される久瀬とてそこら辺に変わりはなく。
ましてその美しい年上の女性が学生時代に恋い慕っていた人であった日には、心中穏やかではいられない事など言わずもがなであった。
加えて、あからさまに抜刀したがっている倉田佐祐理の側近の女性が放っている殺意も、心中穏やかではいられない原因の一つであった。
やれやれ、どうにも我々は『あの頃』から抜け出せないままのようだな。

「川澄さんも座って、お茶でもいかがですか? 毒など入っていませんよ」
「………」

微動だにしなかった。
目線すら向けられなかった。
それは、まるっきり『あの頃』と同じだった。

鹿鳴殿の変。
川澄の乱。
睦月事件。
学園内で器物が破損される度に『前科』持ちの川澄舞が容疑者として生徒会室に呼ばれ、その度に久瀬は今と同じような舞の姿を数時間に渡り見続けるハメになっていた。
何を訊いてもとにかく無言。
視線すらも合わせない。
せめて「私じゃない」の一言でも喋ってくれれば弁護のしようもあったのにと、久瀬は今更ながらにそんな事を思っていた。
しかし全ては過去の事。
素敵に無敵な威圧感を漂わせる剣士・川澄舞の射程圏内に首を置いている現状では、あの当時に首が飛ばなかっただけ運が良かったと思うのが精一杯だった。

「学生時代で無視される事にも随分慣れたつもりでいましたけど……久方ぶりにやられると流石に来るものがありますね」
「す、すいません久瀬さん。 ほらー、舞もー」
「……断る」

一応、無視だけはしないと云う最低限の譲歩を見せたのだろう。
それからまた黙りこくってしまった舞の横で、久瀬と佐祐理は苦笑するより他にやる事を見つけられなかった。

まさか目の前の女性と同じ事で、同じように笑う日が来るとは思わなかった。
既にぬるくなった紅茶を唇が湿る程度に啜りながら、久瀬はそこにある時間の流れに淡く感謝した。
あの日求めていたものが、今ここにある。
それが苦笑と云うのが、何とも自分達らしい。
珍しく穏やかな表情を見せる久瀬の様子に、応接室の空気が少しだけ弛緩した。
その数瞬後に舞が剣の柄から手を放したのも、恐らく偶然ではなかった。