星の明かりすら見えない夜だった。
灯された火が無くては、仲間の顔すら確認できない夜だった。
濃密な草いきれに咽返りそうになる。
虫の声が質量を持って押し寄せる。
そしてそんな夜に、彼らの命は一つ残らず摘み取られた。


* * *


GC.0188 5/3 AM03:44 マーチ西域国境防衛隊本部

初めに異変に気付いたのは、西方守護分隊の中では最も魔力探知能力に秀でていると言われている、ある一人の男だった。
精悍とは呼びがたい、まだ幼さを残した面立ち。
守るよりも守られている方が良く似合う、痩身を通り越して華奢と言っても良い体躯。
しかし、元より法力の高い家系に生まれ育った彼は、その一族の中でも更に法力を扱う術に長けていた。
血と才が絡み合い、環境と努力が萌芽をより確実で力強い物へと押し上げる。
事実、高等修練学校の課程を終える前に実戦部隊への編入が許可されたのは、ここ数十年では彼を除いて他には居なかった。
退魔覆滅のエキスパート、天田四郎。
姓に『天』を抱く一族の血統は、伊達ではなかった。

「……?」
「どうしたい、小娘。 敵襲か?」
「だ、誰が娘ですか! 何度も言わせないでください、僕は男です!」
「そりゃ失敬。 後姿からじゃその可愛いケツと黒髪しか見えないもんでな、どこの迷い猫かと思っちまった」
「……呪い殺しますよ、室田分隊長殿」
「そんなカリカリすんなよ。 生理か? 鉄分補給しとくか?」
「鉄分補給がお好みですか! そうですか!
 上等です! 都合よくここには鉄製の矢尻も鉄製の剣もありますので、どちらでも好きな方を直接体内にぶち込んで差し上げますとも!」

肩ほどまである黒髪をざわりと揺らし、怒り心頭といった体で髭面の分隊長を睨み付ける天田。
しかし分隊長のおっさんも慣れたもので、天田の怒りなどどこ吹く風。
「はいはいそうそう」とでも言わんばかりに笑いながら天田の頭をぐりぐりと撫で回すその様は、まるで『父親』のするソレの様であった。
無骨に、荒々しく、だけどどこか優しく。
そしてそれが感じられるだけに、こうなってしまってはもう自分の負けだと思ってしまう天田がそこにはいた。

「髪、ばっさり切っちまえば少しは男らしくなるんだがなぁ」
「……髪は呪力の象徴とも言える媒介です。 別に趣味で伸ばしている訳ではありません。 そして、この説明は今日で通算65回目です」
「そりゃすまなんだ。 ところで……」
「はい?」
「さっき、『何』を感じていた?」

不意に『分隊長』としての顔付きになった室田に、天田も意図的に表情を引き締める。

「感じる、とまではいきません。 いきませんが――」

では、この意識の上に薄絹をかけられた様な感覚をなんと呼べばいいのだろう。
あまりに微細な違和感だけに、天田はそれ以上を口にする事を躊躇った。
室田が『分隊長』としての表情を見せている以上、天田もまたその口から発する一言一句には『隊員』としての責任を負わねばならない。
軽挙妄動の類はできるだけ避けるべきである守護隊生活が染み付いたせいか、天田は二の句が告げずに佇むばかりであった。

「おいおい、黙るなよ。 何でもいいから喋っちまえ、ここは軍法会議の場じゃねーんだからよ」
「ですが本当に……言葉にするのも難しいぐらいの些細な感覚なんです」
「敵か?」
「いいえ、殺気とか指向性を持った魔力ではなく……これは……」

精神を研ぎ澄まし、空間に紛れ込んだ差異を探り出そうとする天田。
それを感じ取った室田もまた、邪魔をしないようにと口を噤む。
耳が痛いほどの静寂。
盲目を思わせる漆黒。
五感の内二つまでもが狂ってしまったかのような感覚の只中で、だからこそだろうか、その声はやけに鮮やかに二人の耳に飛び込んできた。

「これは驚いた。 まさか俺の【結界】に気付きかけていた存在が、こんな小僧だったとは」
「――なっ!? だ、誰だ!」

驚愕。
天田の脳内をそればかりが駆け巡る。
索敵能力においては絶対の自信を持っていた自分が、ここまでの接近に気付けなかった。
それも安穏としていた状況下ではなく、空間の違和を捕らえようと神経を研ぎ澄ましていたにも拘らずだ。
今までの人生の中でただの一度でも、こんな事態が起こった例がない。
そして、何よりも――

「【結界】……だと?」
「これでも隠密性を重視したつもりだったんだけど、ひょっとしてキミは物凄く勘の良い子かな?」

否定の言葉は無かった。
つまりそれは、肯定と同義であると捉えて良い事になる。
見た目には青年と呼ぶのが最も相応しいであろう目の前の人間、否、人間であるかどうかも疑わしい存在であるが。
その『彼』が口にした言葉は、同じく術を使役する天田にとって、俄かには信じられない物だった。

【結界】
ある特定の存在の意志が一定空間内を満たしている状況、そしてその範囲内を指す
高度な術式、魔符の使用、魔法陣の形成、地理的条件と目的意志の合致などの方法によって発現が可能だが、非常に難易度が高い
実戦レベルの規模と精度で【結界】を発現させる事が出来る人間は、【第参次聖戦】後の現在、世界でも十指にも満たない

「馬鹿を言うな。 いかに未熟とは言え、【結界】の只中に居てそれと気付かぬほど、僕は愚鈍ではない」
「勘違いするなよ坊や。 お前は賞賛に値するほど鋭敏な感覚を持っているし、そもそも【結界】で括ったのは此処じゃない」

ニヤリと、天田の主観からすれば物凄く癇に障る笑い方をする男に、天田の不機嫌度数は一気に高まった。
坊や扱いされたのも頭に来れば、敵である男に褒められるのも頭に来る。
何よりも、自分の推察が真実に到達していないのが一番頭に来る。
室田分隊長をして「小娘」と言わしめるほどの麗人的容姿を持っている天田だが、本質的な部分での彼は国家守護隊に自ら志願する事に代表されるように、非常に激烈な部分を持っているのだった。
ましてそれが空気に違和を感じた夜に、所属が不明な怪しい男と対峙し、尚且つバカにされたような口調と表情を見せられているのだから、これはもう激昂するなと云う方が無理な状況だった。
だがしかし。

「……此処じゃない、だと?」
「ああ。 正確に言えば『此処が中心じゃない』って事になるけどな」

情報収集能力を買われて守護分隊に参入した天田には、何を差し置いてもまず『現状把握』をする必要があった。
そのためであれば、自らの心を押し殺すくらいは朝飯前。
判り易すぎる挑発や冗長な言い回しなんかに釣られるようでは、自分の存在意義すら失われる。
既に職業病の域にすら達しかねない責任感の強さでもって天田が選んだのは、『我慢』と『熟考』の二手であった。

【結界】を張ったと眼前の男は言った。
にわかには信じがたい発言である。
しかしそこを否定してしまっては、この先に在るいかなる思考も『キチガイの世迷言』と云う結論に帰結してしまう。
百歩譲ろう、この男は【結界】を張れる法力を持っているのだと。
相応の法力を持ち、そして【結界】を張った。
そうだと仮定すれば、先程より自分が感じていた大気を満たす薄衣のような違和感の説明は一応のところで着くだろう。
だが、だがしかしだ。
男は言った、「【結界】で括ったのは此処じゃない」と。
なるほど確かに括られたのが此処、具体的に言うならば西方守護分隊駐屯地でないのであれば、違和感の些少な事の説明は着く。
要するに、違和を違和として感じるためにはそれ以前の空気との境界線が必要と云うことだ。
だがそれを仮定として容認してしまうには、譲るのがたとえ一万歩であったとしても足りはしないだろう。
何故ならば、その仮定を認めると云うことはつまり――

「【結界】で包んだのは……まさかこの国全土か」
「正解。 坊やが感じたのは、言わばその余波だな。 流石にこれだけ巨大な【結界】を張るのには骨が折れたぜ」

馬鹿げている!
声を荒げようとして、天田は寸でのところでそれを思い止まった。
頭ごなしの否定は思考停止と同義である。
同じく否定するのだとしても、否定するだけに充分な条件と云うものがなくては、全く意味を為さない。
頭の片隅に追いやられた冷静な思考がかろうじてそんな事を叫んでみたりしているが、今の天田にとってそれは単なるノイズにも等しかった。

多くの有能なる者を失った【第三次聖戦】以降のこの世界では、実戦レベルの【結界】を張れる人間など、世界でも十指に満たないとされている。
事実、血統的に法力を操る術に長けた家に生まれ、その中でも稀有の才有りと言われている天田ですら、満足な【結界】を張れた例がない。
記録ではGC:0174、【第三次聖戦】終結の間際に、当時の聖天騎士団団長である松原宗司が発動させたのが最後とされている。
しかしその松原宗司すら【第三次聖戦】以降は消息が全くの不明であり、技術自体が失伝に陥る可能性があると云う見方が強い。
つまりは、【結界】と云うものがそれくらい難易度の高い術であると云う事である。

自分の中にある【結界】に関しての情報を再確認し、そこでまた天田は眼前の男がただの奇人である可能性を疑うはめとなった。
戦術的結界なら、まだ多少の信じる余地はあった。
欠片ぐらいではあったが、便利な言葉を使わせてもらうならば『懸念する』ぐらいの可能性として考えておいてやってもよかった。
しかしながら一国家を包括するほど広域の、云わば戦略的結界を張ったと言われてしまっては、これはもう信じろと言う方が無茶な話だった。
それでも。
それでも、もし仮に万が一だ、国家全土を覆い尽くす【結界】を張れたとしての話だが――

「……首都には久瀬会長が居られる。 あの方が【結界】の存在に気付かない訳がないだろう」
「あー、ムリムリ。 そのためにわざわざ首都に対してだけは積層型重複結界を張っといたんだから、気付ける訳がない」
「積層…なに?」
「一番内側には対外的魔力因子不干渉の結界、第二層に内在魔力因子不干渉の結界、そして第三層にようやく本命の結界を張らせてもらった。
 第一層の結界にて外側からの干渉を遮断し、第二層でさらに内側からの干渉も断ち切る。
 結果、その二層の中に取り込まれた人間は相対的な空間魔力干渉指数が殆ど感じられなくなり、第三層の結界に気づく要因が消え去る、と」

先ほどから一体何の話をしているのだろうか、この優男たちは。
頭の先から爪先まで完膚なきまでに武力一辺倒の室田分隊長は、最早隠そうともしない呆れ顔のままに、対峙している二人を見比べた。
結界とか魔力とか、マジイミワカンナイ。
さすが法力に頼らずして分隊長と云う位置にまで上り詰めた室田である、彼の頭の中にあるのは至ってシンプルな考えでしかなかった。
つまるところ自分はこの怪しげな優男を両断すれば良いのか、否か。
知識でしか知らない結界云々の事を憂慮して顔を青くしたり赤くしたるする暇があるのなら、その時間は愛する妻と娘の事を考えていた方がよほど有益である。
もしくは、素早く次の一手を打つための行動を――

「室田分隊長」
「ふむ、人が必要か?」
「お願いします……できれば精鋭を、小隊レベルで」
「……おーらい、奴らは低血圧だから時間が掛かるけど、一人で大丈夫か? 子猫ちゃん」
「無駄口を叩く暇があればっ!!」
「別にそこの奴も止める気ないみたいだし、急がなくてもいいと思うんだがなぁ…」

「って言うか俺のほうが階級上なんだがなぁ」とかブツブツ言いながら、本営の方へと歩いていく室田。
その姿が見えなくなるのを待たずに、天田は怪訝な視線を目の前の男へとぶつけた。

「何故、止めない」
「必要がないからさ」
「……余裕か」
「ただの事実だ」
「……僕に向かって【結界】の事をぺらぺら喋ったのも、秘密にしておく必要がないからか?」
「ああ、その通り。 時計の針は既に分水嶺を軽くまたぎ、全ての情報は塵芥ほどの意味すら持たなくなって久しい。
 それに、例えお前が手に入れた情報の全てを首都へと送ったとしても、あのヒヨッコがこの【結界】を自力で解ける訳がないからな」
「ヒヨッコ? 貴様、会長をヒヨッコと言ったな?」

馬脚を現した男の言葉に、天田の口角がそれとは気付かぬほど薄く歪む。
無知の者を蔑む目つきとなる。
何故ならば、稀代の能力者と言われている天田四郎を持ってしても『次元が違う』と言わしめるただ一人の能力者こそ、久瀬光臣その人であるからである。
少なくとも天田が知る限り、久瀬を超える能力者になど出合った事がない。
ただの一度でも彼と邂逅した事のある者なら、口が裂けたって『ヒヨッコ』等と形容できるはずがない。

「貴様がどれだけの法力の持ち主かは知らんが、あまりあの方を甘く見ない方がいい」

全幅の信頼を置く久瀬を語る天田の言葉に、隠しきれぬ希望が浮かぶ。
眼前の男による全ての想定しうる『最悪』を条件としてもまだ、久瀬であれば眉一つ動かさずに消し去ってくれる確信が持てる。
あまりにも不気味に過ぎる不審な男との対峙でいつの間にか気弱になってしまっていた天田の心に、強過ぎるほどの明確な灯りが燈った。

しかしその言葉を聞いた男の口元は、敵対している相手の前であるにも拘らず、本当に愉しそうに歪んだ。
まるで歩き始めたばかりの幼児を相手にしているかのような、慈悲の念さえ垣間見える暖かな微笑み。
反射的に「馬鹿にしているのか」と口走りそうになった天田は、しかし次の瞬間、全ての感情が奈落の底へと突き落とされる感覚を味わう事となった。

「ならお前も、あまり俺を甘く見ない方がいい」

静かに告げられる言葉。
裏腹に、男の纏う雰囲気が一変した。
その身から溢れ出す強大な魔力が大気を凍り付かせ、相対する天田の声帯をも握り潰す。
やがてあまりの高密度な魔力が光子に干渉し、その実態をヴィジョンとして彼の周囲に浮かび上がらせた。
いつの間に浮かび上がったのだろうか、空に真円を描く月が無慈悲なまでに彼の存在を印象付ける。
さながら、『死』が意志と実体を持って現れたかのようにも思える。
見るも禍々しき深遠なる『黒』を携えた皇帝の君臨は、闇の深き夜に断首を知らせる鐘となりて、全ての命在る者の心臓を打ち砕いた。

「折原浩平、と言えば判ってもらえるかな? つまり早い話が、お前たちの敵だ」

そしてそれが、天田の聞いた最後の言葉となった。