授業中の緊張感に満ちた廊下は、美坂香里にとって未知の世界だった。
高校に入学してから現在までの通算遅刻回数、ゼロ。
高校に入学してから現在までの通算早退回数、ゼロ。
そりゃ3年間の内に数回ぐらいは授業中の廊下を歩く事もあっただろうが、流石に『見つかってはいけない』と言う状況だけは今回が初だった。
大義名分など何処にも無いが、後ろ指を指される理由なら山ほどある。
仮にも『優等生』として生きてきた香里にとってそれは、自分でも驚くくらいの緊張感を伴っていた。

「…って言うか何でアンタ達はそんなに平気な顔して歩いてるのよ」

自分の声が響き過ぎやしないかと、おっかなびっくり呟く美坂さん。
しかしそれに対する不真面目生徒+1は、逆に美坂さんにこそ「何を言ってるのかねキミは」とでも問い質さんばかりの視線を投げかけるのだった。
な、なによっ。
言っておくけど変なのは絶対にそっちだからねっ。

「時に美坂先輩」
「はい?」
「先輩はどうして、そんなに挙動不審なのですか?」
「んなっ?」

挙動不審。
この世に生を受けて十と七つばかりながら美坂香里、そんな不名誉な形容詞を頂いたのはこれまた産まれて初めてだった。

「ど、堂々と歩いてる方がおかしいでしょ? この場合」
「いえですから、どうして堂々と歩くのがおかしいのですか?」

おかしい、と香里は思った。
自分の記憶が正しければ、この後輩は相沢君の知り合いの中では最も常識と良識を兼ね合わせた娘であったはず。
少なくとも、授業をサボって廊下を歩いている状況を『普通』と捉えるような娘ではなかったはずだった。
この後輩は、現状を『異常』だとしっかり認識している。
そしてその上で、私に何事かを言わせようとしているのだ。
…試されてるって訳?
ふん、上等じゃない。

「今は授業中。 この学校の生徒であれば特別な理由が無い限りは授業を受けて然るべき。 だのに私達は廊下を歩いている。 これは不自然じゃないの?」
「でも、それを不自然だと思うのは学校教育と云う枠組みの中に存在している人間だけですよね」
「それは……」
「いえ、すいません。 美坂先輩が言っている事には間違いなんて無いんです。 ただ―――」

気が付けば、四人は昇降口にまで来ていた。
短いスカート丈を苦にもせず、流れるように内履きを脱ぎローファーに履き代える美汐。
つま先を二、三度トントンと地面に触れさせる仕草が、妙に可愛らしかった。
どうしたらこんなにも普通の様相で授業をサボれるのかと香里が思うほどに、『それ』は何事も無かったかのように。
ひょっとしたら自分が真面目に過ごしてきた時間は凄くもったいない事をしてたんじゃないかと香里の頭を疑念が過った所で、美汐はようやく言葉の続きを口にした。

「その場に存在する『何か』に違和感を感じると言うのは、現状を把握している人間にのみ許される感覚だと云う事が言いたかったんです」
「……ごめん、天野さん。 もう少し判りやすく」
「同じく」

諸手を挙げて降参の意を示す馬鹿二人。
そんな二人を尻目にして、香里だけは一人静かに頷くのだった。

「なるほど。 だからわざわざあんな事を?」
「ええ。 事態を判りやすく説明するのに、何か好例が必要だったものですから」

ちっとも判りやすくないんだが。
もの凄くそう言いたそうな顔で自分を見詰める先輩二人に対して若干のため息を吐きながらも、概ねの所で美汐は涼やかな表情を崩さなかった。