誰に発見される事もなく学校と云う名の監獄からの脱走に成功した、穏やかに過ぎる昼下がりの通学路。
自分が教室で授業を受けていようがいまいが世界は変わらず動いているのだと、美坂香里は今更ながらにそんな事を感じていた。
学校を休んでおきながらも、大好きな妹と一日中お喋りをできる事が楽しくてしょうがなかった、まだ幼い頃の風邪を引いた日の記憶。
窓の外に流れている『平日』の空気は、それをその日限りの物として味わうだけならば、背徳感と云うスパイスがよく効いた上等の味付けがされていた。
あれから10年。
哀しみと諦めに慣れすぎた私の舌は、生活に含まれる過度な刺激を好まなくなった。

「例えば北川先輩は、どんな時に『違和感』と云うものを感じますか?」
「違和感?」
「はい、違和感です」
「……そうだなぁ」

ふーむと腕組みをして考えこむ北川。
ともすれば簡単に答えが見つかりそうな質問だったが、どうやらその実は違うようだった。
よくよく考えてみればそれもそのはずで、違和感とはその瞬間にのみ存在する事が許された特殊な感情なのである。
怒りや哀しみのように持続性がある訳でもない突発的な感情を改まって思い出そうとする行為は、過去のある時期にのみ存在していた遺跡を発掘する作業によく似ている。
ましてそれが違和感のカケラも無い平和な昼下がりであれば、日常に埋もれてしまった感情を掘り出すのに時間がかかるのも無理はない事だった。

「やっぱりありきたりだけど、普段と違う物を目にした時じゃないかな」
「お前、それは『違和感』って言葉の説明にしかなってないだろ」
「んな事言ってもだなぁ―――」
「いいんですよ、相沢さん。 結局の所、最終的にはその答えが欲しかったんですから」
「……えーと、今の答えにもなってない答えでよかったのかな?」
「はい。 ちょっとだけ一足飛びされてしまった感もありますが、むしろ説明の手間が省けて助かりました」

この娘が喜ぶならそれでいいや。
世界中の誰もがそんな感じで納得してしまいかねないくらい、何て言うか美汐の「助かりました」は破壊力に長けていた。
ちっとも質問に答えてない気がするけど、この娘が助かったんならそれでいいや。
ああ、なんだか判らないけど天野がその答えを求めてたんならそれでいいや。

「北川先輩の言葉通り、違和感とは『普段と違う物』を見たり聴いたりした時に感じるものです。
 それは例えば美坂先輩にとっての授業中の廊下だったり。
 そう、例えばAランチのデザートにイチゴムースが付いていなかったように」

美汐の言を受けて、香里がやや憮然とした表情ながらも納得の意を示した。

「美坂先輩の記憶に、今日と云う日は確実に強く残るでしょう。
 恐らくは、『イチゴムースが無かった日』として多くの生徒にも同様に。
 日常を逸脱した現象と対峙した時に抱く『違和感』とは、それだけ鮮烈な記憶になり得るのです」

埋もれてしまった違和感は遺跡。
思い出す作業は発掘に似ている。
だが、そのどちらもが確実に存在しているのだ。
記憶は日常の中に。
遺跡は土の中に。
堆積した『何か』に多少の違いはあれど、確固とした存在を過去に築き上げたモノはいつか甦るのが世の常であった。

「極狭い地域に密着した営業を主とするクヌギ食品のトラックが、市外を走る。 皆が受ける違和感はどれだけのものになるでしょうか」

中小企業でありながらバブルの崩壊を耐え抜いたクヌギ食品。
その成功の秘訣は、早くからの地域密着型企業の道を選んだ事にあった。
現にこの雪の降る町においては、クヌギ食品のトラックを見かけない日など無きに等しい。
もはや風景の一部にまで溶け込んだ食品配送トラックは、しかしそれだけに別の側面をも同時に持っていた。

「違和感を感じる事ができるのは、その現状を把握している人間のみの特権です。 つまりこの場合―――」
「犯人が市外に逃走していたとすれば多数の証言が得られる?」
「逆、です」

祐一の言葉を即座に否定して、美汐が先を続けた。

「配送順路を違えたトラックが市外を走っていたら、それは嫌でも人目に付きます。
 ですがその認識自体が、既にこの町に長く住んでいる私達のみにしか通じない固有のものなのです」
「……そうか、市外の人間ならそもそも違和感なんて感じないって事だな」
「違和感を感じるかどうかは判りませんが、少なくとも『クヌギ食品のトラックが走るのは市内だけ』と認識しているのは私達だけです。
 しかし今回の事件の犯人は、『市外をクヌギ食品のトラックが走ることはおかしい』と云う認識を世界共通のものとして捉えていたと思われます。
 ありもしない共通認識に怯え、逃走経路を市外へと延ばす事無く現地に留まる。
 おかしいと思いませんか?
 誰かにバレないようにと選んだ行動全てが自分達を丸裸にしている事に気付かないなんて、まるで子供が拙い嘘を吐いてるみたいで微笑ましくすら感じます」

現地の人間しか持たない違和感を共有している犯人。
一刻も早く現地から逃げ出したいだろうに、何故か地元に留まり続ける犯人。
地元に、隠れ続ける事ができる犯人。

「北川先輩、美坂先輩。 直感で構わないので、質問にお答え願えますか?」

意図的に祐一が外された意味を、二人は瞬時に理解した。

「この町で、あまり人目に付かず、尚且つ昼の日中から車が停止していてもまったく違和感の無い場所と言えば、それは何処になりますか?」

美汐の質問に、生粋のこの町っ子は、近年稀に見る精度で声をハモらせた。

「「三笠の第三廃車置場!」」
「偶然ですね。 私もそこが思い浮かんでいました」

蚊帳の外に居る祐一が寂しそうだったのが、とても印象的だった。