「なぁアニキ、そろそろ逃げた方がいいんじゃないですかい?」
「だからお前はバカだって言われんだよ。 今動く事がどれだけ危険だか判らないのか?」
「で、でも…このまま動かないでいるってのは不安でしょうがないんですよ」
「だからこそ、だろうが。 『普通』の人間と同じ思考回路で動けば、それこそ警察の思うツボだろ」

呆れたような、って言うかメチャクチャに呆れているのであろう事が手に取るように判るアニキの声が、午後の三笠の廃車置場に小さく木霊した。
放火や爆破などに代表されるような余程の愉快犯でもない限り、犯人が犯行現場に舞い戻る事などは滅多に起こらない。
それは、現在の犯罪心理学の父とも呼べるアリスト・D・ブロンクス=サミュエルの研究からも明らかな事実だった。

『多くの人間は犯罪を犯す事に罪悪感と怯えを同時に抱き、犯してしまった『現実』から少しでも遠くへと逃げようとする習性を持つ。
 人間とは、体系付けられた倫理と法律との中でしか生きる事の出来ない社会的生物である。
 社会的生物とは往々にして他との共生を糧として生きる物であり、共生の為にはある一定の侵されざるルールが存在しなくてはならない。
 つまり犯罪とはこのルールを侵す行為であり、それは同時に社会的生物である自らの存在をも否定する事となる。
 故に『人間』は、犯罪の結果として訪れる『罰』よりも先に、生物としての根源から訪れる恐怖としての『罪』に怯えるのである。
 人間である以上はやはりその習性からも逃れられない物なのであるが、その罪悪感こそが人間の証明でもあるように思われる。
 まったく、皮肉としか言い様がない。 (A・D・ブロンクス=サミュエル著 『人間と犯罪』より抜粋)』

「平和ボケしたこの町の警察だ。 こんな小さな事件だろうが、今頃は大ハッスルで検問でも張ってやがるだろうよ」
「俺達がまだこんな所に隠れてるとも気付かずに、って訳ですか。 な、なるほど。 さすがはアニキだ、そこに痺れる憧れる!」
「……お前はちょっと黙ってろ」

溜息を吐きながら、しかし、とアニキは考えた。
まさか時効になるまで廃車置場でのたくっている訳にもいかないだろう、いくらこの町の警察がザルでもそこまで呆けはいないはずだ。
幸い今は現場検証と市外逃亡への警戒にのみ力を入れているようだが、それもいつまで持つか。
いずれは俺達(犯人)が地元に潜伏している事に気付くだろうし、そうなってからじゃ市外逃亡も手遅れになるだろう。
機は一瞬。
奴等の目が外から内に向こうとする、その刹那だ。
斜めに見ただけでも大量に積まれていた荷物(金)の大半はここに捨て置く事になるが、欲をかいて失敗するのは阿呆のやる事。
俺達の仕事は、やろうと思った時には既に終わってるのがベストなんだ。
だから、『盗んでやる』なんて言葉は使わない。
『盗んでやった』なら使ってもいい。

「平史(へいし)、次の仕事を教えるからよく聞け」
「へ、へいっ」
「俺達は今からトラックの中に積まれている金を小分けにして、この町の至る所に隠す。
 目安は、積まれている総額の1/3程度だ。 なんでこんな事をするか判るか?」
「え? えーと、えーと……なんでですか?」
「……なぁ平史、平史よぉ。 そんなんだからお前はいつまで経ってもママっ子って呼ばれるんだよ。
 たまには自分の頭で正解を叩き出してやろうとは思わないのか? お前がその気になれば俺なんかよりも数倍すげー悪党になれるんだぜ?」
「ご、ゴメンよアニキ……俺、ちゃんとやるからよ」
「いいか平史。 『ちゃんとやる』なんて言葉は俺達の間じゃ使わないんだ。
 何故なら、『やってやる』って思った時は既に行動は終わってるんだからな。 だから、『やってやった』なら使ってもいい」
「わ、判ったよアニキ」
「なら、説明を続ける。 金を隠しておくってのはな、俺達の行動の選択肢を増やす為にやるんだ。
 もちろん全ての金を持って逃げる事がベストなんだが、移動手段が調達できない場合、俺達は公共の乗り物を使ってこの町を出るだろう」

だがその場合には、傍目に怪しくない程度の金しか持って逃げれない事になる。
旅行鞄や大きな紙袋なんかは論外だし、場合によってはアタッシュケースすら人目につく。
そう、アニキの考えたこの計画の最重要足る部分は、全てが『人目につくか否か』に重点を置かれて考えられていた。
そしてそれは言いかえれば、『どれだけ人に違和感を抱かせないか』になるのだった。

現金奪取が成功したその瞬間に市外へと逃げていれば、検問に引っ掛かると云った事態からは逃れられただろう。
だがそれでは、『クヌギ食品のトラックが市外を走っていた』と云う、人々の記憶に容易に残るだろう違和感から逃れる事は叶わないのである。
レンタカーを借りれば足がつく。
自家用車なんか持ってない。
仲間を増やせば分け前が減る。
兎角に犯罪はやりにくい。
やりにくさが嵩じると全てを投げ出して部屋に篭りたくなるのだが、結局は犯罪に手を染めないとどうしようもない事に気付かされるだけなのである。
後にも先にも進めないのであればと半ば身投げの気分でしかし綿密に計画を立てれば、やはり最後までいけそうな気がしないでもない。
行けそうなのであれば行くしかないと思うのは、果たして勇猛なる男の性か、それとも余裕無き心境が為せる蒙昧ぶりか。
至極どうでもいいので追求はしない事にする。
追求はしないのだが(以下70行ほど省略)なのだった。

「しかし予想外だったな。 まさかこれだけの量の金が積まれてるとは」

言いながらアニキが、もう一度だけトラックの荷台を覗き見る。
保冷処理が施されているその中に悠然とした佇まいを見せるのは、少なく見積もっても億は下らないほどのダンボールの山だった。
現金輸送に食品配送トラックを使う用心深さにも感心したが、まさか金を積むのにもジュラルミンケースとかの類じゃなくダンボールを使うとは思わなかった。
なるほど、クヌギ食品二代目社長、椚将門。
なかなかに喰えないタヌキぶりだが、どうやら俺達の方が一枚上手だったようだな。

「さぁ行くぞ平史。 思いつく限り、ありとあらゆる場所に金を隠すんだ」
「了解だぜアニキ!」

計画の成功を目前にして、意気揚揚と声をあげるアニキと平史。
しかしその燦爛たる鋭気は、所詮は悪党の抱く卑小な物でしかなかった。
創生以来の法則として、悪の抱く野望は正義の剣に両断される物。
今回の事件もその例に違う事はなく、彼等の抱きし邪悪な野望は次の瞬間、天(廃トラックの上)から突如として響いてきた声に木端微塵に砕かれる事となるのだった。

「そこまでだぜ悪党!」
「だ、誰だっ!」

全くの驚きを隠せずに、声のした方を振り向くアニキと平史。
と、そこには何と―――

「ひとーつ、人より力持ち」
「ふたーつ、ふるさと後にして」
「……何よその目は。 だから間違ったって『みーっつ』なんて言わないわよって言うかそのフレーズに三つ目とかあるの?」
「そもそもいなかっぺ大将の方を唱える所から間違ってるんですよ。
 本来なら『一つ人世の生き血を啜り、二つ不埒な悪行三昧、三つ醜い浮世の鬼を〜』です」
「かなり昔のアニソンはおろか桃太郎侍の決め台詞までをも完璧に暗唱できるとは……どこまでお前はイマドキの高校生離れするつもりだ、天野」
「相も変わらず失礼極まりないですね、相沢さんは。
 それに、この決め台詞はセンター試験の国語の問題で出題されてもおかしくないくらいの名台詞なんですよ?」
「やべ。 俺、『一つ人より力持ち〜』の方しか知らなかった。 なぁ、マジで? マジでテストに出る?」
「出ないわよ、バカ」

全然まったくこれっぽっちも緊張感の無い彼等の会話に、アニキの邪悪な野望は、別の意味でも木端微塵に砕かれる事となっていた。