「ブルマでもパンツでも構わないが、生憎とこっちはガキの遊びに付き合ってる暇は無いんだ」
 
低く響く、アニキの声。
犯罪者がその現場に踏み込まれたにしては、その声はいっそ不可思議なくらいの余裕に満ち溢れていた。
 
『証拠』であるクヌギ食品のトラックがその場に存在し、犯人であるアニキと平史が此処にいる。
何処の馬の骨とも判らないが、『真実』を知っている者が踏み込んできている。
彼等も馬鹿ではないだろうから、警察への連絡ぐらいはとうに済ませているだろう。
しかしこの場から即座に逃走する事は、『正義』である彼等が許すはずがなかった。
女二人を完全に除外して考えたとしても、人数的には五分と五分。
こんな事に喜んで首を突っ込んでくるくらいだから、彼等の身体能力は決して悪い方ではないだろう。
下手をすれば対イチでも負けかねない。
位置的に考えて女を人質に取る事もできそうにない。
 
だが、これだけの悪条件を付きつけられてもまだ、アニキの声音からは余裕の色が消えなかった。
 
美汐と香里がその余裕に違和感を感じたのは殆ど同時。
そして二人がそれを口に出す前に、祐一と北川は既に行動を起こしていた。
北川は自分の背に香里の身を守り、それを受けた祐一は美汐の前に自身でもって盾を作る。
圧倒的な戦慄でもって彼等の身体を突き動かしたのは、電流の様に背筋を駆け巡った一瞬の怖気だった。
理屈で動いた訳ではない、考えるよりも先に身体が動いていた。
直感に身を委ねる事ができる人間とは非情に稀で、そう云った意味での彼等はまさに常人離れした感覚の持ち主だった。
 
「ちょ、なに? どうしたの?」
 
あまりにも唐突に自らの視界が塞がれた事に、香里の声が意図せずに上ずる。
それから数秒経ってようやく自分の目の前にあるのが北川の背中である事を確認した香里は、今度はその更に数秒後に北川の行動の真意を知る事となった。
意外と広い級友の背中越しに垣間見えた、妹の口癖を借りて言うならば『まるでドラマのような』光景。
この世に生を受けてから初めて見たその物体は、香里が思っていたよりもずっとずっとオモチャみたいな外観をしていた。
 
「ほう…男のガキどもの方が察しが良いな。 どうやらただの馬鹿じゃないみたいだ」
 
アニキの余裕の正体。
圧倒的不利を全て水泡に帰す事ができる『力』の象徴は、その脅威とは裏腹に存外と陳腐な姿をしていた。
懐からゆっくりと取り出され、今はアニキの右手の中に鎮座している、一丁の拳銃。
ぱっと見で判断する限り輪胴式弾巣【リボルバー】ではないようだったが、さりとて模型屋やドラマでよく見るような自動式【オート】でもなさそうだった。
トカレフでもベレッタでもデザートイーグルでもない、それこそ何と言うか、まるで出来の悪いオモチャのような外見。
だがアニキの手に握られているソレを玩具だと決めつけてしまうには、祐一達の直感は余りに優れ過ぎていた。
 
こめかみの辺りがチリ…と疼く。
自然と眉間に皺が寄る。
今までに一度たりとも彼等を裏切る事の無かった直感は、どうやら今回もまた裏切る事など微塵も考えてもいないようだった。
本物だろう、恐らくは九割九分。
リスクが低ければこそ死中に活も見出せようが、今のようなケースで残りの一分に賭けるには、それこそ言葉通りに分が悪かった。
 
「人質は一人で充分だ。 そこの髪の短い女、ちょっと来てもらおうか」

特に彼女の髪がショートカット、と云う訳ではない。
ただ、今この場に限定すれば女性は二人しか存在せず、その二人の内彼女の髪の方が短かったと云うだけの事だった。

「……駄目だ、絶対に行くな、天野」
「………」

人質は一人で充分。
アニキが口にしたこの言葉を、相沢祐一は瞬時に二つの意味に大別した。

一つ、死体は少ない方が楽である。
例えば逃亡の安全を図るために散々連れ回した挙句邪魔だからと殺すのであれば、連れて歩く死体は一人で充分だろう。

一つ、人質に危害を加えるつもりはない。
例えば途中で一人を殺して追手側に脅迫をしかけるつもりであれば、事後の保険として人質は二人必要である。

乱れがちな思考ながらも考えてみれば、その言葉の意図は受け取り様によっては全くの両極であった。
殺すから一人でいいのか、殺さないから一人でいいのか。
『なにどうせ後者であろう』と生来の楽観的な思考が脳裏で喧しく騒ぎ立てたが、本能はそれを頑として受け付けようとはしなかった。
元より、前者であろうが後者であろうが『そんな事』、受け入れられるはずがなかった。
 
「聞こえなかったのなら、もう一度言おう。 髪の短い女だけこっちに来い。 他の奴等は動くんじゃない」
「人質なら俺がなる、だからコイツは―――」
「三度目を言わせるなよ、クソガキ。 ただでさえ手前等みたいなのに引っ掻き回されて頭に来てるんだ。 交渉の余地なんか欠片も無いと思え」
 
冷静さと灼熱が紙一重で均衡を保っているアニキの口調からは、『行動』に対する躊躇いの気配など微塵も感じられなかった。
『撃つ』と思った時には、既に撃ち終わっている。
意志が行動に反映されるまでのタイムラグを消し去るこの力を、有史以前より人は『覚悟』と呼んだ。
善である必要はない、悪である必要もない。
全ての決定権は己の心の内にのみ存在し、それ故に彼を縛る力は何処にも存在しない。
祐一の記憶が正しければ、過去にこう云った眼をした奴等とやりあったのは数回しかなく、そしてそのいずれの場合もがとんでもない苦戦を強いられてきたはずだった。
 
動いたら撃たれる。
逆らっても撃たれる。
撃たれたら血が出るし多分だけどめっちゃくちゃに痛いだろうし、場合によっては死んでしまうかもしれないだろう。
それは怖い。
如何しようもなく、おっかない。
 
でも。
銃口を向けられるのはすごく恐いし痛いのは苦手だし血が出るのも勘弁してほしいし、死ぬのなんかそれこそ死んでも御免なんだけど。
それでもやっぱり、相沢祐一は相沢祐一だから。
 
「守ってみせる。 だから天野、アイツの言う事なんか絶対に聞くな」
 
引けない、引かない、引けるか。
既にアニキが心胆に据えているモノが『覚悟』だとしたら、今この瞬間に祐一が抱いたモノもまた『覚悟』だった。
撃たれる覚悟ではない。
痛みに耐える覚悟でもない。
無論それは己に課した命題を遂行する為に必要な代償であるかもしれなかったが、本質的な覚悟の場所はそんな所に存在してはいなかった。

覚悟とは、暗闇の荒野に進むべき道を切り開く事である。

拳銃を付きつけられた現状は、まさに暗闇の荒野。
進むべき道が見えない。
打開策が浮かばない。
だがしかし、座して死を待つ事のできる男ならそもそもこんな事に首を突っ込んだりはしなかっただろう。
道を切り開くためにはつまり、そこより先に道が存在していない事が前提として必要なのだ。

相沢祐一は、覚悟を決めた。
天野美汐をその背に守る、その覚悟をしっかりと心に決めた。
相沢祐一の覚悟の本質は、天野美汐を守る事。
だからその為にはあらゆる苦痛に耐えられるだろうし、あらゆる苦痛に苛まれたとしても『耐える』ことが目的ではない以上、その心は折れる事がないようにも思えた。
だが、そうはならなかった。
 
「相沢さん……いいんですよ」
「へ? あ、天野っ!?」

涼しい顔をして祐一の背中を離れ、短いスカートが翻る事に頓着もせずトラックの荷台から飛び降りる。
全ての現状に対して明らかなる達観を見せる彼女の仕草は、さながら天界に羽根を忘れてきた天使の様だった。
怯えず、屈せず、歪まず、美しく。
あまりにも『普通』に行なわれたその一連の動作は、張り詰めた緊張感をもっていた祐一の反応すらをも大きく遅らせる事に成功していた。

「それでは、ちょっといってきます」

今日は5時から魚政でサバが安いので。
あとにそんな言葉が続きそうなくらい、振り返って告げた時の美汐は穏やかな表情をしていた。
そして美汐が呆れかえるほど穏やかな表情をしていたからこそ、逆説的に祐一はとてつもなく恐ろしい想像に身を震わせる事となった。
まさか。
まさか天野、お前!

「戻れ天野! そんな事許すか!」

そんな事。
人身御供。
ついさっきまで自分が考えていて今からまた更に実行に移そうとしている事だけど、そんな事は絶対に許さない。
俺達から銃口を逸らす為に進んで人質になろうだなんて思っているとしたら、俺はお前をぶっとばすからな。

「動くなクソガキ! 風穴開けるぞ!」
「おう撃ってみやがれクソッタレ! 今すぐだオラ! 早く銃口こっちに向けやがれ!」

もうメチャクチャだ、と北川は思った。
あいもかわらず相沢は『自分以外』が加えられそうな危害に関して沸点が低過ぎるし、天野さんは天野さんで態度が落ちつき過ぎている。
唯一マトモであると信じたい自分の思考ですら、妙に冷静な辺りに信用が置けなかった。
自分の背中で声も出せずに居る、現状に対して最も一般的であると思われる美坂の反応は、一般的過ぎてそれこそ頼りにならない。
むしろしてはいけない。
この状況で頼られるべきは自分である。
しかし迂闊に動けばその背中に守っている香里が危険に晒されてしまうと云う事で、やはり北川には荷台の上でアレコレと思案する以外にやる事がないのであった。
恐らく今は、まだ『機』ではない。
動くべき瞬間が必ずあるはず。
そう自分に言い聞かせでもしなければ、動けない歯痒さに耐えられそうにもないのだった。

自分に銃口を向けさせようと、必死にアニキの気を引こうとする祐一。
祐一の思考を借りれば『人身御供』であるはずの美汐は、何故かその光景をとても穏やかに見詰めていた。
まったくもってこの二人の行動は、いわゆる『普通』の範疇から逸脱している。
だがそれよりももっと不可解に思うべき事柄が、今の廃車置場には存在していた。

ありとあらゆる罵倒をたかが高校生のガキに受けておきながら。
傍目にも判るほど確固たる決意を心胆に据えておきながら。
その手には喧しくさえずる小僧を瞬時に黙らせる事ができるだけの力を持っておきながら。

それでもアニキの銃口は、一瞬たりとて祐一に対して向けられてはいなかった。

人質優先だと考えれば何も不審な事ではない。
事実、祐一はそう思いこんでいた。
だからこそ必死で自分の方へとアニキの注意を引こうとしていたのだし、美汐から銃口を外させようとしていたのだ。
だが、よくよく考えてみればやはりおかしい事に気付くだろう。
何故ならば、相沢祐一と天野美汐が同様の行動を見せた時、どちらを脅威に思うべきかは、論ずるまでもない事柄なのだから。

機動力、腕力、耐久力、胆力。
最後のは美汐の方に軍配が上がりそうだったりもするが、それでもやはり動き出してしまえば厄介なのは祐一の方だと考えて間違いはなかった。
だのにアニキの銃口は、やはり依然として祐一に向けられてはいない。
銃器類の所持すら法律で厳しく規制されているこの国の成人男性が持っている射撃スキルなど、某射撃大国の小学生にだって劣っている。
ましてそれが瞬時に対象を変えて、しかも動く相手を撃つと言った行為に達した場合、もはや的中させる事など不可能だと言ってもいいほどだった。
だからこそアニキは、初めから祐一に照準を合わせている必要があったはず。
もしくは対峙した段階で大腿部でも撃ち抜いておくのが、『覚悟』を決めた人間の行動であるはずだった。

なのに現実は、『そう』はなっていない。
ならば何故。
何の意図があって。

仄かに見え始めた綻びが、北川の思考を燻らす。
背中に感じる学年主席の体温までもが、涌き出る泉の如くに理論構築の手助けをする。
現実にはありえない類の妄想だと笑われても構わないくらいに今、北川の深慮は香里のそれと酷似するレベルにまで高められていた。

撃たない。
違う、撃たないのではない。
撃ちたくない。
論外と言うほどでもないが、的は得ていない。
少なくとも奴は、確実に相沢を撃ちたがっている。
死体を作る事に対する躊躇いは既にその瞳から消え失せて久しい。
だが、撃っていない。
何故。
ここまでくればもう確信に足る。
核心には遠いが、確信は得た。
奴は恐らく撃たないのではなく―――

「一四年式、ですか。 随分とアンティークな趣味をお持ちなんですね」

それは、どこまでも透明度の高い呟きだった。
一種のトランス状態から覚醒した北川が『真実』を叫ぼうとした瞬間。
相沢祐一が今まさにトラックの荷台から飛び降りようとした瞬間。
天野美汐は、たったそれだけの言の葉で廃車置場内部の全ての時を凍らせた。
一四年式。
恐らくは拳銃の名称。
高校生組はその言葉の耳慣れなさに沈黙を守り、アニキは驚愕をもってこれまた沈黙を守るより他に術を持っていなかった。

「その表情を見る限りでは、あなたも一応はご存知なんですね?」
「……何の事だ」
「その拳銃の、短すぎる射程距離と低過ぎる殺傷能力。
 それから実装当時ですら装弾不良などのトラブルが絶えなかったと言う不名誉な逸話を、です」

勿論、多少の語弊はある。
低過ぎる殺傷能力とは他のオートマ、例えばそれこそ44マグに比べての事であるし、低かろうがなんだろうが当たってしまえば痛い事に変わりはない。
短い射程なんて、それこそ素人が扱う上ではどうでもいい。
しかし単純にその事を『識っている』と云うただそれだけの純然たる事実が、アニキにとっては驚愕に値する事柄なのだった。
成人男性の歩幅でおよそ20歩ほどの距離から一目見ただけで。
しかも見た目にはやたらと可愛いイチ女子高生が。
およそ冷静でいられる状況とは真逆に存在しているにもかかわらず、この銃が皇紀一四年に南部の手によって造られた銃だと見抜いた。
『正義』を語ってこんな所に来るくらいだから普通の女じゃないと予想はしていたが、さすがに今の美汐はアニキの予想を大きく飛び越え過ぎていた。

「なるほど……それがキミの切り札か」

古今、東西、大小問わず。
個人的な闘争から国家単位の戦争に到るまで、全ての争い毎のジョーカー【鬼札】とはいつだって『情報』だった。
敵を知り己を知れば百戦危うからず、とは誰が残した言葉だっただろうか。
時に情報が何の意味も持たないほど彼我の戦力差が歴然たる場合も存在するが、それ以外の部分では概ねこの鉄則に揺るぎはないのだった。
だが。

「たしかにアンタの彼氏は射程範囲外だ、それは認めよう。
 だが、それでキミ自身の安全が保障されてる訳じゃないって事を忘れてるんじゃないのか?」
「ああ、それでしたらご心配なく」
「あ?」
「だってこれ、スペクトラ製ですから」

天野美汐はそう言って、制服の裾をつ―と摘んで見せた。
スペクトラ繊維―――水に浮く比重でありながらもケブラーより防弾・防刃効果に優れた、新世代のスーパー繊維
そんなバカなとその場に居た誰もが思ったが、同時に『いやしかしコイツならあり得る』とも思っていた。

「貫通力が高く初速の速いトカレフ7.8mm弾でも、この制服は貫通しません。
 まして殺傷能力が低い旧式の一四年式8mm弾では、私を行動不能に追い遣る事なんてできません」
「なら足を―――」
「狙えますか? この距離とあなたの腕とそのアンティークで。
 一部業界では『絶対領域』とも呼ばれているニーソックスとスカートの間にのみ露出しているこの私の大腿部を」

白い。
細い。
しかし柔らかそうだ。
個人的な感情のみでモノを言えば『ものすごく触ってみたい』だったが、最後の理性でアニキはそれを口に出さなかった。
もとい、その『絶対領域』は本来の意味(がどんなものであるかは不明だが)から500マイルほど離れた意味で、今のアニキにとってもまさに『絶対領域』だった。
身体の中心線を狙えば、少なくとも身体のどこかに当てる自信はある。
しかしそれは、同時に二つの危険性を孕んでいた。

一つ、美汐の言葉が虚偽だった場合。
一つ、美汐の言葉が真実だった場合。

前者の場合、掛け値無しに彼女は死ぬだろう。
失血だろうがショックだろうが死因はどうでもいい、とにかく彼女は死ぬだろう。
必要であれば撃つ覚悟はしていたが、アニキとて喜んで死体を製造したい訳でもなかった。
脅しで済めばそれが一番いい状況だった。
だがその選択肢は、彼女の知識によって完全に封殺された。
撃つしかない、しかし撃てばその瞬間に全てが終わる。
恐らく彼女は今の場所から一歩たりとて前に進まないだろう、しかし後ろにも下がらないだろう。
有効射程ギリギリで己の身を銃口に晒す彼女の姿は、自らの言葉が真実である事をまさに身体で表しているようにも見えた。

ならば後者の場合、つまり美汐の制服が本当にスペクトラ繊維で作られた物だった場合に起こる危険性とは何か。
言うまでもない、発砲した瞬間にアニキ側は一気に『詰み』の状態に陥るのだ。
不意をついた状況であれば兎も角、今の美汐は既に覚悟を決めている。
しかもそれはアニキや祐一に勝とも劣らないほどの、強靭な覚悟だった。
今すぐ現実の物になりそうな例えであえて表現するならば、防弾制服の上から着弾した際の消しきれぬ衝撃に絶え得るほどの覚悟。
脂肪も筋肉も極端に薄い美汐の体躯である、どこに着弾したとしてもそこに骨があった場合、まず亀裂骨折は避けられないだろう。
骨折は痛い。
物凄く痛い。
しかしそこに意志の力が介在する余地を与えられているとすれば、その負傷は行動不能と完全な等式では結ばれなくなるのだった。
そしてついに発砲が為されたその瞬間。
祐一と北川の縛は、その刹那をもって一気に解き放たれる事となるだろう。
怒れるクソガキ二人に対し、冷静な犯罪者二人。
加えて美汐と香里が連絡要員に回ってしまった時の事を考えれば、やはりアニキ達の勝ち目はどうやったって薄くなるのが目に見えていた。

何て事だ、気がつけばどちらの選択肢を選んでも結末が見えてしまっているではないか。
改めて自分が置かれた状況を鑑みて、アニキは額に深い皺を刻み込んだ。
拳銃を片手に相手を追い込んだ気になっていたら、何時の間にか立場はすっかり逆転している。
己の持っている切り札を過信したつもりなど微塵も無かったが、まさかここまで無効化されるだなんて思ってもみなかった。
汝、亡霊を装いて戯れなば、汝、亡霊となるべし。
畜生、なんて可愛い顔したザミエルだ!

「………」
「観念して、いただけますか?」
「……まだだ。 まだ、こんな程度で投了なんかしてたまるか!」

アニキが吼える。
一介の犯罪者が吐くにしては驚くべき質量を持った咆哮は、決して誇張などではなく廃車置場内の全てを大きく揺るがした。
赤茶色に錆びたミニバンの車体を、眼前に立つ美汐の制服を。
そして何より、彼に相対している全ての人間の心胆を震わせた。
何がここまで彼を、彼の犯罪成就への願いを強くさせるのか。
こんなにまでも一途で愚直な姿勢を目の当たりにしてしまうと、さすがに物怖じもしようと云うものだった。

「平史! 今すぐ金を持てるだけ持って逃げろ!」
「でもアニキ!」
「俺は大丈夫だ。 どんなに悪く見積もっても状況は五分【イーブン】。 それより良くもならなければ、悪くもならない」

鋭い、と北川は思った。
現に自分も天野さんの態度があまりにも超然としているからこちらが有利だと錯覚しかけたが、現実はそんなに簡単なものではない。
五分だと思ってもらえただけラッキーだったと考えなければならないほど、現状は一言で表してしまえば『ヘヴィだぜ』な感じであった。
まず、自分たちの思う『最悪』とアニキ等が思う『最悪』のレベルが違う。
彼等にとっての最悪とは単純に捕縛される事にのみ語り尽くされるが、こちらの『最悪』は考え出せば切りが無いほど深い奈落を形成していた。
そりゃ全員死亡ENDが考え得る『最悪』の結末なんだろうけど、天野さんが殺されるってだけでも充分過ぎるBAD-ENDだ。
彼女が人質として拉致られるなんてのも勿論アウトだし、怪我を負わせる事態だって考えれば気が狂いそうなエンディング風景に違いない。
じゃあ、どこまでが譲歩できる線か。
そんなのは決まってる、こっちは兎にも角にも『全員の無事』が最低条件だ。
そして向こうの最低の要求がつまり、『無条件逃走』の権利。
しかし犯人の逃亡を許してしまうって事態を考えれば、俺達に付きつけられるのは圧倒的な『敗北』の二文字だった。
背に腹は代えられない。
そんな事は判り切っている。
だがそれでも、ここまで来ておきながら、悠々と廃車置場を後にする犯人の背中を黙って見送れと―――

「残念ですが……」

美汐が呟く。
それは、ある意味では北川の心情を肯定しているかのようなタイミングだった。
まさか思いを読まれたのかと驚きの表情で美汐を見やる北川。
しかし美汐の視線はそれとは一切絡み合わず、透明なコバルトはただただアニキの瞳を見据えて微動だにしていなかった。

「なんだ、まさかまだ切り札が残ってるとでも言うつもりか?」
「ええ……残念ですが、この切り札によって貴方達の状況は更にもう一段階、それも悪い方へと傾きます」

切り札がある。
この期に及んでまだ。
どこまでも底が見えない後輩に、今や祐一の時は完全に止められていた。
第一の刃、拳銃の知識。
第二の刃、防刃防弾繊維。
味方陣営である自分ですら、それは知り得ない隠し刃だった。
敵を欺くにはまず味方から、それが定石だと云う事は知っている。
特に今回のような場合、切り札を持つが故の弛緩した空気を相手に気取られるなんてのは愚の骨頂である。
だが、だがしかしだ。
無知は罪だと昔の偉い人が言っていた。
切り札を持つ者は自然、事態の矢面に立つ必要が出てくる。
そして今まさにこの時、相沢祐一は、無知の代償として守りたい存在を危険に晒してしまっているのだった。
誰が裁く訳でもない、当然の如く罰など存在しない。
しかしそれは、己を責め立てるには充分過ぎるほどの罪だった。

何故、俺は何も知らない。
何も知らないのにどうしてこの場所にいる。
せめて盾となれたならまだ存在意義もあっただろうが、今の俺はただ立ち尽くすだけのカカシじゃないか。
持ってる切り札なんかただの一つだってありゃしない。
知っている情報なんか、俺が持っている『真実』なんか―――

「―――あ…」

思わず漏れる、小さな声。
鮮明に蘇る、図書室でのやりとり。
相沢祐一はようやくこの時、自身がその手に全てを貫くグングニルを持っている事を思い出した。

「なるほどな、確かにコイツは必中必殺の神槍だ」
「何をブツブツ言ってんだ。 頭おかしくなったか?」
「おいオッサン!」
「んっ、んだ固羅クソガキ!」

一撃で灰燼と化す。
後に骨すら残しはしない。
因果を紐解き経過を素っ飛ばし確実に『結末』のみを抽出する能力を備えた神の槍。
封印を解くべきは、今!

「あんた一体、『何』を盗んだ気でいる?」

美汐が、微笑んだ。
北川が数瞬の後に全てを理解し、その背中にいる香里もほぼ同時に『それ』を理解した。
美坂戦隊カオリンジャー最大の切り札、そもそもの事件の発端。
平凡なイチ高校生である自分達が、何故こんな事件に首を突っ込む事になったのか。
そして、自分達はこの事件をなんと呼んでいたのか。

「『何』の為にあんたはその銃口を無抵抗な女の娘に付きつけている? 答えろよ、悪党」
「お前の……お前みたいなクソガキの知った事か!」
「ならいい、答えなくても構わない、俺にはそんな『理由』なんかどうだっていい。 だが、あんたには知る必要がある筈だ、そうだろ?」
「………」
「調べろよ。 確認しろ。 そして思い知れ。 自分が一体『何』を盗んで、『何』を守る為にそんな必死になっているのかを」

本当に目の前の男は高校生なのか。
老練とも云えるほどの強い眼差しで自らを射貫く祐一の姿に、アニキは今回の一連の動きの中で初めて『恐怖』を味わった。
『真実』から始まった行動は、必ずや『未来』に辿り着く。
まるでそれを意図的に裏付けるかのように、今のこのガキは揺るがない。
だが、だがしかしだ。
発端のみを論点とするのならば、自分の願いとて一点の曇りも無い『真実』である。
目的の為に手段をこそ選ばなかったものの、そんな事であればクソガキの分際で探偵気取って事件現場に顔を出す奴等とて同罪だ。
状況は、未だ傾いてはいない。
王手【チェックメイト】なんか、されてたまるか。

「何を……何を盗んだかって?」
「ああ。 本当に『それ』は、あんたの願いを叶えてくれる物なのか?」
「決まってるだろクソガキが! 金は神だ! 力だ! 出来ない事なんか何一つだってありはしない!」

アニキが激昂する。
そして遂に彼は、その銃口を美汐から遠ざけた。
事態に対応しきれずオロオロする平史を押し退け、自らの手でトラックの荷台に手を掛ける。
折れよ外れよと言わんばかりの勢いで両開きの扉をぶち開け、そのままの勢いで冷蔵仕様を施された荷台に飛び乗る。
周囲との温度差によって白い靄がかかったその場所に存在していたのは、うずたかく積まれたダンボールの山だった。
何も驚くべき事ではない。
ここまでなら彼等は、強奪した時点で確認している。
だが逆に言えば、確認したのはそこまでだった。
積荷が載っている。
この車は食品配送車のカモフラージュをされた現金輸送車である。
二つの方程式は簡単に『積荷は現金』の答えを導き出したし、彼等もそれを疑わなかった。
そしてそれこそが―――

「な…ん、だ………なんだコレはぁあああ!!」

そりゃ、イチゴムースだろう。
荷台より聞こえたアニキの絶叫に北川は心の中でそう思ったが、決して口に出したりすることはなかった。
特にこう云った場合、必要以上に相手を刺激するのは徒に危険性を増やすだけでしかない。
なにしろ窮鼠は猫を噛む。
旧ソだって大戦末期には日本を噛んだのだ、塵殺が目的じゃないのならここは黙っておくべきだ。
今はまだ時じゃない。
機を見ろよ北川潤。
ってかさっきもこんな事を思ってた気がするんだけど、ひょっとして最後まで俺の出番ナシ?

「さて……そろそろいいでしょうか?」
「………」
「ご確認の通り、あなたが強奪したのは現金ではありません。 イチゴムースです」

アニキからの返事は、ない。
荷台から降りてくる様子もない。
しかしそれすらも予定調和であるかの如く、美汐は淡々と話の先を続けていった。

「あなたがイチゴムースの為に私に銃口を向け、命と残りの人生までをも賭けるのだとすれば、仕方がありません、応戦しましょう。
 ですがもし、あなたが今ここで全てを諦めるのだとしたら―――」

そこで美汐はいったん言葉を切り、

「私はその対価として、あなたの拳銃所持と脅迫、拉致監禁未遂を不問にします。 どうですか? 悪い条件ではないと思いますが」

最終結論を、叩き付けた。

全てを諦める、つまり自首するのであれば、自分達がこの場に来た事すらも『無かった事』にする。
それは確かに、アニキ側にとって現状における最高の選択肢だった。
時間を吹き飛ばし、自分に有利な状況まで戻す。
まるでバイツァ・ダスト。
だがそれを発動させる為には、他ならぬ自分自身の手でそのボタンを押す必要があった。
悪党としての意地も大人としての誇りも何もかも捨てて。
Bites The Dust。
負けて死ね。
そしてこの場合、負けて死ぬのは自分である。

「……どこでだ」
「………」
「教えてくれよお嬢ちゃん。 俺は、どこでジョーカーを引いた?」
「強いて挙げるとすれば……そうですね、全ては『思い込み』が歯車を狂わせたのではないかと」
「思い込み?」
「ええ―――」

この町に住む人間の感覚を一般化して捉え、この廃車置場に留まった事。
前情報のみを全ての指針とし、銀行を訪れた車を即時現金輸送車だと判断した事。
現金輸送車であるのだから、積んでいる荷は当然現金だと誤認した事。

「私達を『高校生』と云うカテゴリで簡単に括り、個々の能力を判別もしないままに画一的な脅しに出たのも―――」
「そうか……それも、俺の勝手な思い込みだったか」
「はい。 そして最終的な敗着手も、結局はあの時点でした」
「と、言うと?」
「ゲームによっては全てに打ち勝つJOKERですが、一度その扱いを誤れば大きく湾曲した死神の鎌は己の身を裂きます。
 拳銃と云うあなたにとって最強の脅しの切り札は、場に出された瞬間に今度は私にとってもの脅しの切り札に姿を変え、そして今」

誰の味方をするでもなくただひたすら状況を嘲笑う死神の鎌は。

「あなたを、討ち取りました」

びしっと。
ばしっと。
美汐は、断言した。
ひょっとしたらアニキが悪足掻きをするかもしれない。
存在すら忘れられてる平史が突如として一人前の悪党に覚醒するかもしれない。
そんな諸々の危惧が未だに残っているにもかかわらず、天野美汐は討ち取りを宣言した。
勇み足、はやとちり、そんな軽率なミスを犯すほど彼女は拙くない。
むしろ考えられるそれらの可能性を全て潰す為に、彼女はきっぱりと断言したのだった。

「……完敗だ。 お手上げだよ、お嬢ちゃん。
 そんな可愛い顔で完璧な勝利宣言されちまった日には、みっともなくて悪足掻きすらできやしない」

そう言ってアニキが見せたのは、憑き物が落ちたかのような穏やかな表情だった。
一四年式の銃口を自分の方に向けて握り、グリップを美汐に向けて手渡す。
受け取る事に多少の躊躇いを見せたものの、アニキの表情に他意が全く無い事を見止め、それから美汐はそっとその銃を掌に受け取った。

「俺の最低限の譲歩だ。 この銃はお嬢ちゃんに保管していてもらいたい」
「秘密を守らせる為には共犯化しろ、と云う事ですか?」
「いや、そうじゃない」
「では……?」
「いつになるかは判らないが、次にキミに会う時の口実が欲しいんでな」

なに言ってんだコノヤロウぶち殺すぞ、と祐一は思った。
こんな状況でナンパするなんてお前はイタリア人か、と北川は思った。
そりゃないですぜアニキ、と平史は思った。
そんな、期待と不安と嫉妬と殺意の交じり合ったような三者三様の眼差しを一身に受ける天野美汐。
いわゆる『普通』の女子高生であれば一も二もなく慌てるような場面であったが、ところがどっこい美汐さんはそんなに野暮な女性ではなかった。

錆び付いたり半壊してたりするスクラップが所狭しと並んでいる廃車倉庫で。
古くて殺傷能力には欠けているとは言え立派に銃刀法違反に該当する物騒なブツを持ちながら。
ついさっきまで他でもない自分に向かってその銃を突きつけていた相手に対して。
彼女は。
美汐は。
それら全ての状況がどうでもよくなるぐらいの流麗な微笑を浮かべ。

「ではその時は、おいしいイチゴムースを出す店に連れて行ってくださいね」

この事件の幕を引くに相応しい、最高の台詞を言ってのけた。
その言葉と笑顔に一瞬だけアニキは時を忘れ、それから少しだけ自虐的に笑った。
もう少しだけ早く、出来ればこんな事に手を染める前に、キミと出会いたかった。
アマノ、天野か。
くそったれ、最高にイイ女だ。

「それじゃあ、またいつか」
「ええ、どこかで」

去っていくアニキの背中。
慌てて追いすがる平史の横顔。
見るともなしにそれらを視界の端に収め、美汐はそれからようやっとの事で祐一達に視線を戻した。
「終わりましたよ」と言外に知らせているような、穏やかな瞳。
安堵に緩む口元。
その場にいた誰もが身体の内に溜まっていた緊張をはふっと吐息に乗せた瞬間、美汐の腰がぺたんとその場に崩れて落ちた。

「なっ! 天野っ!?」

咄嗟にトラックから飛び降り、美汐の元に神速で駆けつける祐一。
着地の際に足がすごく痺れたりしていたが、そんな事に構ってはいられなかった。
まさか怪我でもしていたのか、それとも受け取った音も無く銃が暴発したか。
有り得ないとは判っていながらも完全否定が出来ないだけに、その表情は既に蒼白にまで近付いていた。

「天野! どうした!」
「あ、いえ、あの……」

背中に優しく手が添えられている。
強く手が握られている。
真剣な顔が、すぐ近くにある。
たったそれだけの、命には全く関わりの無い、人によっては些少すぎて笑いの対象になるような事態。
銃を付きつけられてもナンパされても全く動揺の素振りすら見せなかった少女は、しかしそんなありふれた状況に、ひどく赤面した。

「どっか痛いのかっ? クソあの野郎ひょっとして擦れ違いざまにどっか秘孔をっ?」
「ち、違うんです。 ただ、その、緊張が解けたら腰が抜けてしまって……」

緊張。
してたの?
自分を抱き留めている祐一の表情がすごく納得いかなさそうなものに変換されるのを見て、美汐は少しだけ頬を膨らませた。

「なんですかその表情は。 私だって女の娘なんですよ?」

だがしかし、言及するのはそこでストップ。
強く咎めてしまえばきっとこの人は、本気で自己嫌悪に陥ってしまうだろうから。
『女の娘』の私を、前面に立たせてしまった事を。
そしてそれを一時でも忘れてしまっていた自分がいる事を。
だから、この話はここでおしまい。
後はただの私のわがまま。

「あー、その件については言い訳のしようも無いくらい――」
「相沢さん」
「――あい?」
「抱いてください」
「「んなっ!?」」

どこからか、声がハモった。
一つは勿論祐一の声であるが、もう一つは女の声だった。
今のこの場には女性は二人しかいない。
それ以前に今の声には聞き覚えがある。
消去法を使って他の選択肢を否定するまでもなく、その声は美坂さんのものだった。
カオリンジャー総帥、遅すぎた復活である。

「だ、だ、抱くって天野さんっ?」
「できれば優しくお願いします」
「ふ、二日モノですが宜しくオメガします」
「相沢君もっ!」

喧騒の外側。
いつも通りの傍観者の位置に立ち戻りながら、北川は『いつも通り』に戻りつつある空気を感じていた。
意図的だろう、恐らくは。
どうせ『抱いてください』の意味だって『腰が抜けて動けないから』ってオチなんだろうとは思っていたが、それでも口に出したりはしなかった。
思った事を心の中に留めておくのは、今日の一日だけでも充分に慣れた。
ただ一つだけ、背中に感じる温度が、近過ぎるだけに心を揺らすけど。
いつかパンクしやしないだろうかとも心配になるが、それならそれで問題無い。
破裂して宙に飛散したならば、弾けて混ざって月にでもなればいいだけの話だ。
ま、何はともあれ。

「イチゴムース欠損事件、犯人の自首をもって、一件落着」

呟いた北川の言葉は、喧騒に塗れて誰の耳にも届く事はなかった。