暮れ落ちた夕日の残滓が校舎を紅く染める。
それはさながら、血塗れた鈍器のように。
濃淡もなく、陰陽もなく。
壁面の微細な凹凸すらも一緒くたに塗り潰す、のっぺりとした粘質の紅-あか-。
建物自体が噎せ返るような赤錆の中に沈んでしまった中で、その中にいる彼等がそれでも自らの血を流したくないと哀願する様は、まさに滑稽としか言い様がなかった。
机も、黒板も、床も壁も外界に向き合ったガラス戸までもが真っ赤なのに、何を今更紅く染まるのが嫌だなんて――
だってほら、隣にいるトモダチの顔を見てごらん。
「一緒にいよう」って誓ったトモダチの、握った手をもう一度良くご覧?

それ
   は
すでに   まっかに
   そまってい
        る
          の に

「あああああぁぁぁぁああああああああああ!!」
「ひぃぃやあああああああああ!!」

午後四時四十五分。
旧校舎一階、家庭科室。
名実共に『鬼のような』叫び声をあげながら教室に押し入った祐一は、それに本気でビビった気の弱い佐伯さんがあげた泣き声とも悲鳴ともつかぬ声を確かに耳にした。
そして、にたりと笑った。
声の方向から推測する。
隠れている場所は恐らく、掃除用具箱手前のガスレンジの下。
教室後部のドアと窓と云う二つの逃げ道を考慮に入れての、戦略的にはまずまずと言った隠れ場所だった。
『だった』。
獲物が狩人の前でわざわざ鳴き声をあげたのだから、その先にあるのはただただ一方的な虐殺のみ。
まして先の一声で腰が砕け落ちてしまっている気の弱い少女の事だから、尚更である。

「グゥゥゥッドイィィィイブニング佐伯夕菜ぁああああ!!!」
「☆×□○※!!??」

もう日本語にすらならない。
いつの間にか涙まで溢れている。
地獄の底から響いてくるような声で突如自分の名前を呼ばれてしまった夕菜は、できる事なら今すぐに気を失ってしまいたいとすら思っていた。
だが、現実とはいつも非情である。
善人のそれも罪人のそれも分け隔てなく、この世界のあらゆる願い事は万人に共通に却下され続ける。
今現在、この時も、何一つ変わる事無く、却下され続ける。
却下、却下。
却下!却下!却下!却下!却下!却下!却下!却下!!
却下!却下!却下!却下!却下!却下!却下!却下!!

「羊は沈黙する。 死の間際にあっても羊は沈黙する。 何故か。 判るか? 佐伯夕菜」

ある一定ラインまでであれば、恐怖と云う感情は人の神経を混乱に追い込む。
前後不覚、俗に言うパニック状態である。
しかしそのラインを超えるほどの圧倒的な恐怖心は、逆に人の思考回路を冷静になるようにと仕向けるのである。
理性を理性として保ったまま。
恐怖を恐怖として認識する思考回路を持ったまま。
気を失うより、我を忘れるより、何よりも凄惨で酷薄な仕打ちを、超越した恐怖は人に与えるのである。
それは例えばそう、耳を塞ぐ事も目を閉じる事もできず、ただただ涙を流しながら震えるより他に術を持っていない哀れな子羊、佐伯夕菜のように。

「答えは、簡単だ」

ぺたし…

「羊は知っているんだよ」

ぺたし…

「もう、とうの昔にな」

足音が迫る。
ぺたし、ぺたしと近付いてくる。
リノリウムの床と中靴のゴム底が接触するだけの音が、まるで死神の笑い声のように聞こえる。
ふと逃げ道を求めて周囲を見渡せば、椅子が赤い。
机が赤い。
「手をきれいに」の張り紙、赤い。
誰かが忘れていったルーズリーフ、赤い。
目に映る何もかもが、血塗れみたいに真っ赤だよ。
怖い。
怖い。
助けて。
助けて。
誰か――

ぺたし…

「た…すけ……」
「そう、その涙ながらの願いが却下される事を知っているから、羊は沈黙するのだ」

却下!
却下!
却下!

「涙までもが血に見える。 存外と綺麗な死に化粧になりそうだな、佐伯」

もうダメだ。
まるで『いつも通り』に聞こえる優しげな祐一の声を耳にした夕菜はしかし、だからこそ祐一は『いつも通り』のような感じで自分を×××××のだと確信した。
床に崩れ落ちた姿勢から見上げた祐一の顔は、逆光のせいでよく見えなかった。
だけどその分だけ、周囲の何よりもどす黒い紅を身に纏っているように思えた。
ごめんなさい、芹ちゃん、菘。
私、ここで相沢君に――

ジャカッ

「そこまでだ、相沢」
「……なんだと?」
「佐伯さんの声がしたからこの教室には佐伯さんしかいないと? 声がしなければ他に人は居ないと? お前の頭の中ではいつから獲物って奴はそんなに親切になったんだ?」
「初めから……この教室の中に潜んでいたと云うのか」
「恐怖に震える女の娘を追い詰めて楽しかっただろ? 強者である自分に酔い痴れていたんだろ? なら、それがお前の敗因だ」

声が、した。
夕菜と、祐一と、それ以外のもう一つの声。
いつまで経っても訪れない『その瞬間』が不可思議で、恐る恐るながらうっすらと目を開けた夕菜は、そこに信じられない光景を見た。

「北川…くん」

つい数瞬前までは狩猟者としての優越に満ち満ちていた祐一が見せている、苦悶の表情。
その脳髄に宛がわれている大口径の拳銃。
そしてそれを握っているのは、祐一の親友である北川潤その人であった。

「話は後だ。 佐伯さん、今すぐこの教室から撤退してくれ」
「え…あ…」
「早く!」
「無駄だ」
「ひぅっ!」

北川の存在は確かに一筋の光明だった。
少なくとも夕菜は、北川の言葉によって幾許かの希望を得た。
いくら戦闘系の知識に乏しい夕菜とて現状は九割九分まで北川に優勢だと判断できるし、更に自分はこの場から撤退しても良いと言われている。
非戦闘員である夕菜にとってそれは、まさに最上とも言うべき現状のはずだった。
だが。
祐一が発したただの一言が、夕菜の動きを凍りつかせた。
言葉に魔力を付与させる事のできる人間を、夕菜はこの時初めて知った。
抗えない。
否定できない。
どれだけ心情や状況が彼の言葉を否としても、言霊がそれを許さなかった。

「終わりだよ相沢。 チェックメイトだ」
「なら、何故彼女を逃がそうとする?」
「………」
「何故お前の指は、その引鉄を引こうとしない?」
「……余計な口を――」
「無駄だと言った!!」

叫ぶ。
瞬間、祐一の身体がその場に沈み込んだ。
右足首を四十五度に開き、捻挫覚悟で床を踏みしめる。
左足首、左膝、左股関節、全て連動させて得た加速を背中と肩に全て預ける。
奥技、鉄山靠。
零距離から爆発的な上昇ベクトルをもった一撃を叩き込まれた北川は、調理台の上を滑る形で思いっきり吹っ飛ばされていった。

「ぐぅっ!」

調理台の上に乗っていた全ての椅子や器具をなぎ倒しつつ、しかし即座に体勢を整える北川。
その念頭には当然追撃が来る事がおかれていたのだが、意外にもそれは、言葉によるものでしかなかった。

「さて、いい距離だな北川」
「なん――だと?」
「元々拳銃ってのは中距離戦闘における支配力が売りの武器だろ。 さっきみたいな近接戦闘には何かと不向きだ。 あれならまだ刃物の方が役に立つ」
「………」
「撃てよ。 ご自慢の拳銃だろ? この距離ならそうそう外す事も無いだろう」

両手を広げ、発砲を促す。
明らかに形成不利な状況に置かれていながらも、祐一の表情から笑みが消える事はなかった。
それは、絶対的な優位性の証。
種としての上位にある者が見せる歪んだ悦の色。
自らの手の届かない位置に相手を置き、その相手が一方的に自らを攻撃する術を持っているにも拘らず、彼は笑っていた。
何故ならば。
そう、何故ならば彼は――

「鬼が、豆鉄砲【そんなもの】で死ぬと思っているのなら、幾らでも撃つがいい」

絶対上位種。
狩猟者。
捕食者。
現世最強の存在である、鬼なのだから。

「撃っていいんだな」
「何を今更」
「本当にいいんだな」
「くどい」
「後になってから卑怯だなんだって――」
「しつこいぞ北川! 何をもったいぶって――」

ゴバッ!!

風を切り裂く轟音。
後、何か硬質の物が炸裂する破裂音。
既知の『それ』とは全く異質である現象の唱和に、祐一の顔から一瞬で笑みが消えた。

「……それは!」
「千葉県産落花生、天日乾燥させて作った13mm爆裂硬化弾だ。 こいつ喰らって平気な鬼【オーガ】なんかいねぇよ」

空気の壁を引き裂く流線形の豆は、初速を殺さずに標的の顎を喰い千切る。
肉に穴を穿つのに最適な突起は、鬼の皮膚をすら易々と貫通する。
大豆を克服した鬼の種族に対する最強にして最高の武器の存在に、今度は北川が笑う番だった。

「くたばれ、化物」