「例えば、自分の生涯に一片の悔い無く死ぬ事ができた人がいたとします」

人差し指をピンと立てながら、いつに無く真剣な眼差しでそんな事を言い始める佐祐理さん。
そいつはまた随分と唐突な上に壮大な前提ですねと、祐一は思った。
最近見つけたコーヒーの美味しい喫茶店、二人が座っているのはその一番奥の席。
特に人目をはばかる逢瀬と云う訳でもなかったが、それでも祐一と佐祐理のツーショットと云うのは相当に珍しい光景だった。
偶然に商店街で互いを見つけ、偶然に互いが一人きりだったから、必然的に二人は『ふたり』になった。
偶然と必然とを上手に使い分けて得られた時間、大切にしたいと思うのは何も不思議な事ではない。
ましてそれが最近では互いの姿を見る事すら稀になっていた先輩と後輩の間柄なのだから、より二人きりになれる環境を求めるのも無理はない事なのかもしれなかった。

「一片の悔いもないんですか。 そいつはまた羨ましい死に様ですね」

何も考えず、と云う訳ではないが、あまり深く考えずに祐一はそう答えた。
悔いが残ると云う事は即ち、やり残した事があると云うこと。
悔いがないと云う事は即ち、やり残した事が何もないと云うこと。
極論すれば人は誰でも『死にたくない』と思いながら生きているはずなのだから、その執着すら超えて悔いがないと言えるのは素晴らしい事なのではないかと祐一は思った。
が、祐一の真正面に座っている佐祐理は、その答えがどうにもお気に召さなかったようである。
微かに俯く、仄暗い照明が長いまつげに影を落とし、憂いの表情をよりアンニュイな物に仕立て上げる。
その表情に違和感を覚えた祐一が視線で疑問を投げかけるのと佐祐理が顔を上げるのとは、刹那の違いを除けばほぼ同時だった。

「本当に、そう思いますか?」
「佐祐理さんは、思わないんですか?」

質問に対して質問を返す。
またしても若干の陰を帯びてしまった佐祐理の表情を見ながら、祐一は今のは卑怯だったかと軽く反省した。

「祐一さんは」
「はい」
「好きな人が居ますか?」
「目の前に」
「真面目に答えて下さい」
「秋子さんも好き、名雪も好き、舞も好き、佐祐理さんも好き。 そんな好きじゃ、駄目ですか?」
「そう言うのとはちょっと違う『好き』が知りたいんです」
「難しいな…」

薄い苦笑い。
軽いアメリカン。
祐一は冷めかけたコーヒーを飲むでもなくカップを手に取り、ソーサーがカチャリと音を立てた辺りで、再び会話が始められた。

「じゃあ想像だけでいいです。 祐一さんがいつか好きになる人を、思い浮かべて下さい」
「その相手に佐祐理さんを選んでも?」
「もぅ……怒りますよ?」
「佐祐理さんが目の前に居るのに他の女の事を考えるだなんて、そっちの方がよっぽど怒られそうだ」

薄っぺらな言葉。
軽い微笑み。
総称しても『軽薄』にならないのがこの人の不思議な所だと、佐祐理は冷めかけのアールグレイを口にしながらそう思った。

「じゃあ佐祐理でいいです。 どうせ死んじゃいますから」
「なにをっ!?」
「た、例え話ですよ……そんな身を乗り出さなくても…あはは…」
「びっくりさせないでくれよ……佐祐理さん死んじゃったら俺も死ぬぞ?」
「そこです」
「そこっ? どこっ?」
「佐祐理が死んだら、祐一さんも死んじゃうって所です」
「そこがどうかしましたか?」
「生涯に一片の悔いも無く死ぬためには、その最期を自分の意思で締めくくらなければいけないですよね」
「あー、まぁ他人に終わらされて一片の悔い無しってのは難しいかな。 大抵は自分が望んだ時と場所で死にたいと思うはずだし」
「でも、その人に好きな人がいた場合。 さっき祐一さんが言ったみたいに、好きな人の死が自分の死とリンクしちゃう事もある訳ですよね」
「……なるほど。 逆に好きな人を残して自分が先に死ぬ場合、悔い無しだなんて口が裂けても言えないだろうからな」
「ええ。 例え口では言えたとしても、愛する人を孤独に追い込む事に対して何も思わずに逝けるとは思えません」

先に死ぬも悔い。
置いて逝かれるも悔い。
それならいっそ――

「誰も好きにならずに――」
「――ずっと独りで生きていく。 それは本当に幸せなんでしょうか」

問いかける口調からは、佐祐理がその答えを持っていない事が感じ取れる。
しかし問われた祐一もまた、その問いに対する答えを持っていなかった。
幸せの在り方など千差万別だと切り捨ててしまえばそれまでの論議だが、それをしてしまうには二人きりの時間があまりに心地よい。
考えるふりをしつつ、半ば思考停止のままに互いの視線を絡ませあえば、少なくとも今の時間に対する悔いなど残りそうにはなかった。
そう、やはり。

「仮に、ですよ」
「はい」
「もし仮に、万が一、全然まったくこれっぽっちもそんな事を願ったりなんかしないし、もしそんな事になったらそれこそ死ぬほど悔やむんだけど!」
「は、はい」
「佐祐理さんがこの先、何かの拍子に死んじゃったとしたら」
「……はい」
「俺はそれでも……佐祐理さんに出会えて良かったと思いながら生きていくと思う。 事と場合によっちゃ後追いする可能性も充分にあるけど」
「ふぇ…あ、後追いはダメですよ…」

不意に真面目な顔でとんでもない事を言い出す祐一に、色白お嬢様の頬は薄く紅を指したかのように赤く火照った。
「死んじゃダメです…佐祐理は一人で死にます…」と、蚊の鳴くような声で混乱の色はなはだしき、恥ずかしながらの抗議の声。
掛け値なしに可愛いと思った祐一は、自らの言葉に責任を持てる日が来れば良いのか来なければ良いのか、思考を纏めるのにえらく難儀した。

「とりあえず今の一瞬、俺の人生に悔いはない」
「ふぇ?」

口元の緩みを隠すため、完全に冷めたコーヒーを口にする祐一がそこにはいた。





GOU☆SHOU☆HA!