「もしも俺が面倒臭がり屋じゃなかったら大会!」
「……わー」

水瀬家のリビング。
夕食後のまったりとした時間。
ちぱちぱと緩慢な拍手をしながら、名雪は笑顔の裏でこう思った。
祐一はたまに変な事を言い出す発作さえなければカッコイイのになぁ、と。

「まず、お前は毎日遅刻します!」
「な、なんでー?」
「面倒臭がり屋じゃない俺は、お前が目覚めるまで根気良く声を掛け続けるんだ。 今みたいな実力行使なんて、いいともの時間にならないとまずやらないだろう」
「……さすがにタモさんの時間までには起きるよ…」
「更に!」
「さ、さらに?」
「お前は痩せます! 何故なら面倒臭がりじゃない俺は料理にも手を出し始めるので、それはもうアグレッシブな国籍不明料理がお前の胃袋にダイレクトアタック!」
「……強制ダイエットってこと?」
「要約すれば」
「ま、まぁ痩せるのはいいこと――」
「良いもんか! 今のお前のスタイルから減る所なんて胸しかないじゃないか! そんなのは俺が許さん! 断じて許さん!」
「褒められてるのか馬鹿にされてるのか判んない……って言うか、何で私の胸の事なのに祐一が許すとか許さないとか――」
「俺の 趣 味 だ !」

ビリビリビリ!
声の余波でガラス戸が振動するぐらい、物凄い勢いで言い切られた。
そのあまりの断言っぷりに名雪は、「趣味ならまぁしょうがないかな」とすら思わされてしまっていた。
げに恐ろしきは、勢いのみで全てを納得させられる祐一の人柄である。

「ほんっと……ここまで開けっぴろげにセクハラ発言されると、逆に怒る気も失せるわよね」
「なんだ、もう風呂から上がってきたのか、真琴」
「そりゃむっつりスケベよりかはマシかも知れないけど、あんまりオープンなスケベはただの変態よ?」
「安心しろ、お前のその在るか無しかの胸なんかには興味がない。 減らすなりえぐれるなり好きにしろ」
「沢渡ポセイドン!!」
「ぬぐはっ!!」

ありえない距離からの打撃―箭疾歩―を喰らった祐一が、これまたありえない勢いでソファーから転げ落ちた。
同時に、真琴の裸身を覆っていたバスタオルもはがれ落ちた。
生まれたままの姿。
すっぽんぽん。
形容する言葉は数多いが、手短に言えば全裸である。
ともすれば夜半の情事まっしぐらな光景に、しかし名雪は止めもせずにこう思った。
まぁ興味ないって言ってるし、別にいいかな、と。

「沢渡タイタン! 沢渡タイタン! 沢タン! さったん!」

げしっ! げしっ! げしっ! げしっ!

徐々に適当な掛け声になっていくのは、恐らく技名を叫ぶ事が面倒になってきたからなのだろう。
床をのた打ち回る祐一をげしげしと踏みつけている真琴の表情は、そのくらい真剣なものだった。
上気した頬。
仄かに赤味を帯びている太腿。
お風呂上りで汗を流してさっぱり爽快だったはずの真琴の全身は、既に激しい運動のためにうっすらと汗ばんですらいた。
まだまだ子供の雰囲気を残す華奢な手足はしかし、微妙ではあるが確実に育っている真琴の『女』の部分を、相対的に際立たせている。
どちらか一方が自己主張を激しくすれば途端に失われてしまう、成長途中の端境期にのみ許された、不調律故の危うい美しさ。
かつてロシアの文豪ウラディミール・ナボコフが魅せられた、幻惑の女性像。
要するに、とてもロリエッチな光景だった。

「まこっ! おまっ! せめてぱんつっ!」
「知るかあー!」

平和な一般家庭の居間において。
全裸の少女が男を踏みつけている様子を、もう一人の少女が止めるでもなしに眺めている。
ひょっとして自分はこの異様な現状から逃げ出すべきなのだろうかと名雪は思ったが、後で面倒な事になりそうだったので、とりあえずその場に留まる事にした。
普通に考えればその場に留まった方が面倒事が増えるかのようにも思われるが、そこはさすがの名雪さんである。
彼女はその鋭敏な感覚で、自分が立ち去る事によって『全裸の少女と健康な男が二人きり』と云うありえないシチュエーションが生まれる事を、瞬時に察知したのであった。
いや、ほら、口では「興味ない」なんて言ってても、祐一も男の子だもん。
じゃれあってる内に万が一って事があるかもしれないかもだし、て、テレビ見たいし、それから、えーと……

「ゆ、祐一さんっ? それに真琴っ? い、いったい何をし、し、シてるんですかっ?」

うん、これが一番面倒な事だよね、やっぱり。
あまりにも予想通りな展開に溜息をついた名雪が振り返り、改めて状況を確認してみる。
具体的に説明するとそれは、『真っ裸の真琴がマウントポジションをとって祐一の首を絞めている所を目撃した秋子さんが真っ赤になってあわあわしている』、と云う状況であった。
見ようによっては、いや、むしろ目にした光景をそのままに理解しようとすれば。
普通に生きてきた人間であればまず、『騎乗位』と云う単語に辿り着くだろう。
そしてその単語に直結させないために自分がここに居るのだと思いだした名雪は、そこで偶然にも助けを求める祐一の視線に気付いた。
困り果てて。
今すぐにでも泣きそうで。
まるで捨てられた仔猫がみゃーみゃー鳴いている時みたいに、一心に縋り付くような眼差し。
危険な恍惚を「まったくもう…しょうがないなぁ」の仮面に隠しながら、心の中で名雪は思った。
これだから、祐一の傍を離れる訳には行かないのだ。

「おかーさん。 落ち着いて」
「え? あ…な、名雪? えーと、名雪がいるって事は、その、祐一さんと真琴はその……あの……」
「いつも通り、だよ。 何も変なことなんてないよ、ね、祐一」
「そ、そうっ! いつも通りの喧嘩ですっ! 何も変な事なんてないですよ、秋子さんっ!」

全裸の女の娘にマウント取られるのがいつも通りだとしたら、それはそれで凄くアレな日常だなぁと名雪は思った。

「いつも通り……いつも通り……そ、そうよね。 いつも通りよね、祐一さん、真琴」
「真琴は嫌だって言ったのに祐一が無理矢理――っ! あうぅぅぅぅっ!」
「ゆ、祐一さんっ!?」
「真琴ぉおおおおおおお!!」
「ぴろーぉー!」
「にゃー」

何だろう、この空間。
なんだかもう全てが面倒臭くなった名雪は、とりあえずお風呂に入って全てを忘れ去る事にした。
私は頑張ったよね、うん、頑張ったがんばった。

「もしも私が面倒臭がり屋じゃなかったら大会。 ひょっとしたら祐一は助かってたかもしれない」

熱いお湯に首まで、リビングから聞こえてくる祐一の断末魔の声を聞きながら。
名雪は、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。
夜は賑やかに、しかしご町内単位で言えばどこまでも静かに、淡々と深けていった。