空梅雨による渇水が深刻に心配され始めた、六月も下旬のとある水曜日。
四時間目の中頃から何やらブツブツ言っていた祐一が、終業のベルと同時にダッシュで教室を出て行った。
隣席に座っている名雪の証言によれば、祐一は「竜巻を作りにいく」とだけ残して去っていったらしい。
あまりにも不審な彼の行動はしかし、例によって例の如く『相沢だし』の一言で皆にスルーされている。
クラスメートの視線がそろそろ諦観から達観にシフトチェンジしている事実に、はたして当の本人は気付いているのだろうか。
なに、どうせ気付いていたとしても、彼の行動はきっと何一つ変わらないに違いない。
どうせ何も変わらないのであれば、この思考回路はもっと有意義なこと、例えば今日の昼食のメニュー選別などに向けられるべきだと、香里は至って論理的な結論に達した。
事それが祐一に関する何がしである限り、『論理的』なんて思考が何の役にも立たない事を、彼女は今までの経験から誰よりもよく知っているはずだったのに。
知っているべきだったのに。
昼休みが終わり。
予鈴が鳴り。
五時間目の開始を告げる本鈴が鳴り、それから数分ほどして教師が教室内に入ってきてもまだ、祐一は3-Bに帰ってきてはいなかった。
代わりにと、言っては何なのだが。
今現在の彼の席には、本来の主の代わりにと3-B男子の総力を結集して作られた、『擬似相沢祐一』こと『α-FAFA』が鎮座していた。
※α-FAFA(アルパ-ファファ)
α-FAFAとは、『試作第一号 フルアーマー・フェイク相沢』の略である。
本人のジャージを外部装甲として用いられたこの機体は、腕部骨格に箒を、マニュピレーター部分にはトイレ掃除用ゴム手袋をそれぞれ使用している。
さらに頭部には室内遊戯用バレーボールと簡易着脱式モップの穂先部分を使用し、一見では本物の相沢祐一と区別が付かないほどの完成度を誇っている。
と、あくまで開発陣は言い張っている。
肩部にはF.T.B(フレキシブルちりとりバインダー)を装備し、大幅な推力の向上が計られている。
背部に四基の蝶番型バインダーを装着。
これは開発陣内部では『フェアリーテイル(以下、FT)』と呼ばれ、主に大気圏内での飛行時における揚力発生を主目的としていた。
可変機体でこそないものの、『F.T.B』と『FT』の相乗効果が齎したスラスター推力に比しての機動力及び旋回能力は、当時としては破格の物であった。
『3-B時事録より抜粋』
「水瀬」
「はい?」
「これはなんだ」
「祐一です」
言い切った。
ただの一度の躊躇いもなく、ほんの少しの戸惑いもなく。
英語教師の気難しげな表情を眼前に見据えながらも名雪は、ありえないほどの笑顔でさらりと言ってのけた。
豪胆な気性なのではない、それは呆れるほどの優しさの権現である。
3-B面々が後の世に言う、『空気読むこと水(名雪の苗字の暗喩)の如し』の語源であった。
「……美坂」
「出来の悪いガラクタです」
言い切った。
ただの一度の容赦もなく、ほんの少しの慈悲もなく。
かつてないほど手厳しい美坂さんの一撃に、『α-FAFA』製作に関わったクラス男子全員が心の中で涙を流した。
冷血な性格なのではない、それは奮えるほどの高潔さの象徴である。
3-Bの面々が後の世に言う、『心手折ること花(花は香里の名前の暗喩、折るは語感に起因)の如し』の語源であった。
「水瀬」
「はい、よく見るとガラクタでした」
「いや、そうじゃない……ああいやいや、ガラクタはガラクタでいいんだが」
「ガラクタガラクタって連呼しなくても良いじゃないですか! これでも俺達は少ない物資をやりくりして一生懸命――!!」
「北川。 廊下に立っとれ」
「出資者は無理難題を仰る!」
ショックを受けているようなセリフを叫びつつ、何故か指示されてもいないバケツを小脇に教室を出ていく北川。
今どき漫画の中でしか見られないような『立たされ小僧』を演じる機会に恵まれた事が、どうやら嬉しくて仕方がないようだった。
「さて、水瀬」
「はい」
「相沢は、どこに行った?」
「どこに、かは判りません」
「なら質問を変える。 相沢は『何を』しに教室から出ていったんだ?」
「えーとですね。 「俺は竜巻を作る」って言って出ていったきり、帰ってきていません」
「………」
「………」
「……竜巻?」
「竜巻です」
「恋はツイスター! 全てを巻き上げ壊すまでー!」
「やかましいぞ北川! 黙って立っていろ!」
『愛もついすたー♪』
まだ廊下から微妙に聞こえてくる歌声に苛立ちつつ、英語教師が外を見やる。
今年が空梅雨である事を何よりも雄弁に物語るほど、彼の見上げた空は雲一つない晴天であった。
「美坂」
「何ですか」
「竜巻の発生要因を、学の無い俺に判りやすく説明してくれるか?」
「無理です」
「無理なのか?」
「積乱雲が関係している、上空のジェット気流が関係している、までは判明しているようですけど、明確な発生メカニズムは未だ検証されていないようです」
「……少なくとも、人為的な発生は不可能なんだろ?」
「竜巻を人口的に発生させる事ができるとしたら、真っ先に軍事転用されているはずですけど、今のところはそんなニュース聞いた事も――」
「そうとも! 地震に始まり台風、落雷、津波などと言った超自然的な災害の多くはスカッドミサイルなんか比じゃない位の戦略的大ダメージを他国に対して――!!」
「熊谷。 廊下に立ってろ」
「サー! 上官の命令は絶対ですサー!」
そして熊谷も居なくなった。
少しだけ寂しくなった教室の中、少なくとも祐一個人の力では竜巻を発生させられない事が判って安心したのか、英語教師の表情は幾分か穏やかなものとなっていた。
「「そして二人はツインスター どぅーわー」」
しかし廊下から二人分の歌声が聞こえてきた辺りで、その表情がまた深い苦悩を抱えたものへと逆戻りした。
学校を飛び出した問題児に頭を抱えたかと思えば、教室の外に放り出した問題児にまで苦労する。
当然、教室内に居られてもその厄介さには変わりがない。
『神は時として最低と最悪の二択をもって君に迫る』と著書の中で言っていたのは、確か民俗学者のアリスト・D・ブロンクス=サミュエル博士だったはずだ。
いつまで経っても始まらない英語の授業に早々に見切りをつけて文庫を開き始めた香里は、若干の同情の念を抱きながらしかし冷酷にもこう思った。
将来、教師にだけはなるまい。
* * *
それから三日後。
三陸海岸に面した小さな漁村から、疲労と衰弱でぶっ倒れていた祐一を保護したとの知らせが水瀬家に舞い込んだ。
事前に祐一の父親から『何があっても心配する必要はない』との連絡を受けていた水瀬家の面々であったが、これには流石に驚いた。
そして家に帰ってきた祐一の姿を見て、彼女達は二度驚いた。
肌は日に焼け、髪は海風に晒され、岩肌で作ったらしき無数の傷跡をこしらえた祐一の、あまりにもボロボロな姿に。
そして何よりも、家を出る前とはまるで別人のような、生気のまったく感じられない瞳に。
『何があったのか』
水瀬家に住む誰もがそれを知りたがったが、祐一は決して口を開こうとはしなかった。
古今無双の”最終兵器お母さん”である秋子さんをもってしても、祐一の口から何があったのかを聞き出すことはできなかった。
彼女達が知りえたのはただ一つ。
祐一が、遠く沿岸の地で『何かに敗北してきた』と云う、たったそれだけの事でしかなかった。
何に、とも。
どのように、とも知れないが。
彼は何かに挫折し、自らの力の無さを憎み、世界に絶望して倒れ伏した。
家族として過ごしてきた時間が彼女達にその事を理解させ、そしてそれだけにこの事件に深く言及する事を躊躇わせたのだった。
時には『何もしない』事こそが、彼の傷を癒す最も良き手段である事を知っている。
若干一名ほど「馬鹿につける薬なんてないわよ」と言って、落ち込む祐一に対して完全放置を決め込んでいたが、それもきっと彼女の優しさの裏返しだったのだろう。
多分。
恐らく。
めいびー。
* * *
「だから言ったでしょう。 竜の落とし子なんてそうそう簡単に捕まえられるものではないと」
「……根性で何とかなる範囲だと思ったんだ」
「根性で漁獲高が変わるなら、漁師ほど良い職業もないでしょうね」
呆れがちな溜息を吐きながら、温かいお茶を差し出してくれる天野。
特に運動をしなくてもうっすらと汗ばむ六月下旬の気候とは食い違うが、まだ少しの疲れと寒気が残る体に、天野のくれたお茶はとても温かかった。
無言のままに優しさと労わりをくれたその心遣いまでをも含めて、とても。
「竜巻を作りにいく」と残して教室を飛び出したあの日。
相沢祐一が猛烈ダッシュで向かったのは、何を隠そうまずは図書室の一画であった。
冷戦時代の米ソに求めるよりも難しい、『相沢祐一』と『図書室』の和睦。
流石の美坂さんや名雪ですら脳内でそのラインを結びつける事は不可能だったらしく、結果として美坂チームは四時間目終了時点で相沢祐一をロストする事となったのだった。
論理は時として、人を裏切るものである。
時は流れ、突然の失踪から一週間後。
沿岸の村で保護されたと云う一報が入ってから、三日後。
水瀬家に強制送還され、死んだように眠る事二日。
ようやっとの事で体力を回復した祐一を待っていたのは、常ならぬ冷たい目をした後輩との一騎打ちだった。
現在位置、作法室。
相対距離、僅か一畳。
祐一は思った。
あれ、何この生徒指導に呼び出された時の職員室の雰囲気。
「六月の、それも太平洋に。 ウェットスーツもなしに。 朝から晩まで日がな一日潜り続けて、それを三日もなさったと聞きましたけど?」
「……まぁ特に否定する部分はないが」
「自殺したくなったのなら素直に私に言えばいいじゃないですか。 何を好き好んで入水自殺だなんて七面倒臭い真似を――」
「待て待て待て」
「はい?」
「なぁ天野……一つ訊いていいか?」
「どうぞ」
「もしも俺が『自殺したくなった』ってお前に打ち明けたら、一体何がどうなるんだ?」
「拉致監禁の上拘束して身体的自由を奪った後、相沢さんが改心するまで連日連夜に渡って懇々と生きる素晴らしさを説き続けるつもりですけど」
うん、絶対打ち明けない。
『対天野美汐における相沢祐一的タブーランキング』の第一位に、『自殺したい』と云う言葉が堂々ランクインした瞬間だった。
「壮絶なる覚悟をしている天野には悪いが、俺はまだ死にたくもなければ拉致監禁プラス洗脳されたくもない」
「……自殺志願者ではない、と?」
「……なんでそんなに意外そうな顔をする」
「ああ、判りました。 相沢さんは真性のマゾヒストなんですね。 それも臨死の状態まで自分を痛めつけなければ気の済まない末期的重度のマゾヒス――」
「断じて違う!」
「……え?」
「待て待て待て! なんでそこで『今明かされる驚愕の真実!』みたいな顔をするんだ! って言うか今日は表情豊かだなお前」
「自殺志願者でもマゾヒストでもない、と?」
「ああそうだ! 心身おまけに性癖までも含めて、俺は至ってドノーマルだ!」
「またまた相沢さん、ご冗談ばかり」
「あんですとっ?」