「決めた! 俺は戦国教師になります!」
「……が、頑張ってくださいね」

夏休みも残り僅かとなり、先祖の霊も再び彼岸へと帰って行ってしまった、残暑厳しい晩夏の午後。
閑静な水瀬家のリビングの片隅で三点倒立をしていた祐一が、唐突にそんな事を言い出した。
その声は真剣そのものであり、その表情は固い決意を秘めたものである。
本来であれば冗談云々と疑う余地もないくらいの状況なのだが、何しろ発言の内容が内容な上に、今の祐一は三点倒立の真っ最中だった。
胡散臭い事、この上ない。
事実、突飛な事態に関しては銀河系クラスの許容力を誇る最終兵器お母さんの秋子さんでさえ、その発言には若干どころじゃなく引いてしまっていた。
まさか受験ノイローゼ?
それとも暑さで思考回路がグラウンド・ゼロ?
様々な憂慮が秋子さんの脳裏を駆け巡ったが、しかしそれらは最終的に「相沢祐一」と言うネームバリューの元に一刀両断される事となった。
何故ならば、彼の言動の無軌道さは今に始まった事ではない。
祐一さんならこの程度の奇妙な発言、シラフのままでも言いかねませんものね。
傍目に見れば何ともアレな信頼のされ方だったが、兎にも角にも祐一は、ギリギリのラインで『正常』の側に踏み止まる事を許されたらしかった。

「ところで、その……戦国教師と言うのはいったい?」
「よくぞ聞いてくれました!」
「ひゃいっ?」

汗だくになりながら「カッ!」と目を見開いて叫ぶ祐一に、思わずびっくりして少女の様な悲鳴をあげてしまう秋子さん。
同じリビングにいるのにそんなに大声で叫ぶ事はないんじゃないかと、ドキドキする胸を押さえながら秋子さんはそう思った。
ちなみに、祐一はまだ三点倒立をしたままである。

「戦国教師とは! 全ての授業を戦国チックに行う教師なんです!」
「……えーと、それは歴史の先生なんですか?」
「NON!」

びくっ。
今度は英語で怒鳴られた。
ひょっとしたらこれも『戦国チック』の一環で、南蛮貿易がどーのこーのと言う話に繋がるのだろうか。
この期に及んでも一生懸命に祐一の言葉を理解しようとする辺り、やはり秋子さんの優しさは素晴らしい物であった。

「例えば! 数学の三角関数sin、cos、tanを! 織田、羽柴、徳川に置き換えて説明したりするんです!」
「……えーと?」
「元素記号は全て戦国武将の名に置き換えます! とりあえずCuは斉藤道三! Pは大友宗麟!」
「え、えーと、あの、祐一さん?」

それは逆に覚え辛いんじゃないでしょうか。
言おうとして、おろおろして、だけど秋子さんはついに最後までその突っ込みを入れる事ができなかった。
優しさとは、時に人の間違いを正すのに大きな障害となる。
ちなみに今現在の祐一の体勢は、三点倒立を通り越して一点倒立(首だけで全体重を支えている)に変化していた。
逆様で、腕組みをして、汗だくになりながら、戦国教師について熱く語っている高校三年生男子がリビングにいる。
何と表現したら良いのか判らないが、物凄くシュールな絵面だった。

「……と、ところで秋子さん」
「は、はいっ?」
「そろそろ……俺の首とか人としてのアレとかが限界なんですが…つ、ツッコミはまだでしょうか」
「え? あ、あっ、えぇっ?」
「いや、真琴とかなら最初の数秒で激烈なツッコミを入れてくれるんですけど…ぬぐぐ……こうも真面目に対応されると俺としても…ぐぅ…引っ込みがつかない訳でして…」

言っている先から、顔がどんどん真っ赤になっていく祐一。
いくら普段から鍛えているとは言え、流石に首の筋肉だけで全体重を支え続けるのは少々過酷な様だった。
だが、そんな事を言われても困ってしまうのは秋子さんの方である。
この家における『ツッコミ役』とは主に真琴の専売特許であり、秋子さんはその光景を優しい微笑を浮かべながら見守っているのが普段の役割なのだった。
それなのに、いきなり「ツッコミはまだか」と言われたって困ってしまう。
いくら最終兵器お母さんだって、苦手な事柄くらい存在している。
しかも現状は、ボケている人間から「さあ突っ込んでくれ」と催促されていると言う、芸人的ハードルで言えば成層圏ギリギリに位置する程の超高難度な代物であった。

右を見る。
誰もいない。
左を見る。
誰もいない。
正面を見る。
祐一の筋肉とか血管とか頚椎とかが、いよいよヤバ気なステージVである。

やるしかない。
秋子さんは、大きく一つ深呼吸をした。
これは人命救助だ。
秋子さんは、一生懸命自分にそう言い聞かせた。
ぎゅっと手を握る。
キッと祐一の目を見詰める。
もう一度大きく深呼吸。
そして――

「な……」
「……な?」
「……なんで…やねん…」

か細い声で。
顔を真っ赤にして。
たどたどしくて、思い切り恥ずかしがって、だけど律儀に裏手チョップの動作まで組み込んでくれた秋子さんの一世一代のツッコミが、相沢祐一のハートを直撃した。
あまりにも可愛すぎるその仕草は、冗談抜きで祐一の身体から全ての力を奪い去っていった。
腕も、足も、まるで言う事を聞かない。
自分の身体が自分の身体じゃないみたいな錯覚を受ける。
それどころか、首だけで倒立をしている祐一の身体から力が抜けきってしまうと言う事は、つまり早い話が――

ぐ き っ

「ぬ、ぐああぁっぁぁあああ!!」
「ゆ、祐一さんっ! 祐一さんっ!?」

そう言う事だった。

あくる日。
首にコルセットをはめた祐一が、秋子さんに「俺は普通の教師になります」と宣言した。
もう二度と他人にツッコミを入れたりしないと心に誓った秋子さんは、それを聞いてとても暖かな微笑を見せてくれた。
真琴が「普通じゃない教師って何よ」と軽いツッコミを入れ、名雪がそれに「熱血体育教師とか?」とゆるーい返答をする。
祐一が何も答えずに薄い苦笑いを見せ、秋子さんがそれを見てまた優しく笑う。
まったくもっていつも通りの、平和な水瀬家の日常。

こうして古今例のない『戦国教師』と言う新ジャンルは、若干二名の心の闇に葬り去られたのであった。