水瀬家では、四季の節目に普段よりも少しだけ規模の大きな『おかたづけ』をする。
それがこの家における大切な習慣なのだと云う事を、祐一は何故か真琴から教わって自分の知識としていた。
自分よりも後に『家族』となったはずの少女が、自分よりも圧倒的な速さで疑い様のない『家族』になっていく。
これで祐一が嫉妬とか焦燥とかを感じてくれればまだ物語にも起伏が誕生するのだが、残念な事に彼はそんな感情を抱くほど人生を真面目に生きてはいなかった。

水瀬家恒例の『おかたづけ』。
それは、別の言い方をすれば『衣替え』である。
季節物の洋服の出し入れは勿論。
靴や、食器や、室内の細々としたインテリアまでもが、水瀬家では一年に四回『衣替え』をする。
夏から秋に移行するこの時期。
それは例えば、玄関に置かれた金魚鉢の姿が見えなくなったり、牛乳を注ぐコップがガラス製の物から陶器の物に代わったり。
あるいはレースのカーテンが少しだけ厚手の物になっていたり、観葉植物が日当たりの良い場所に移っていたりする事で家の中に顕現する。
八割方が秋子さんのセンスで調律されるそれらの『衣替え』は、最終兵器朴念仁の祐一にすら感嘆の念を抱かせるほど、家族に安らぎを齎す素敵な代物だった。

「ねえ祐一、これなに?」

秋彼岸を二週間後に控えた、九月初旬のとある日曜日。
例に違わず『衣替え』をしていた水瀬家の中心で、真琴が不思議そうな顔をしながら祐一に走り寄った。

「どれだ?」
「これ。 真琴こんなの見た事ないんだけど」

そう言いながら真琴が広げた手の中には、一個のフィルムケースが鎮座していた。
そっと受け取り、ふたを開けて中身を取り出してみる。
斜めにされたケースから転がり出てきたのは、色とりどりで半透明の、小さな『何か』の欠片だった。

「ああ、これはガラスだ。 ガラスの破片」
「は?」
「波で角が削れてこんな形になるんだ。 浜辺ではよく見かけるんだけど、そうだな、この町には海がないから見た事ないのも当たり前か」
「ちっがうわよ。 真琴が言ってるのは中身じゃなくて外側。 肉まんで言う所の『まん』で、アレックスで言う所のチョバムアーマーよ」

その喩えは多分、物凄い勢いで違うと思うな。
サイドボードの上の埃をクイックルワイパーしながら、名雪は心の中だけでそう突っ込んだ。

「外側って、このフィルムケースの事か?」
「フィルム……ケース?」
「フィルムってのはその、なんだ、カメラに入れて使う記憶媒体で……って言うか、お前たしか自分のカメラ持ってただろ」
「持ってるけど、その『ふぃるむ』とか言うのを入れた覚えはないわよ?」
「んな馬鹿な。 フィルムも入れずに写真の撮れるカメラなんかある訳が――」
「祐一、祐一」
「ん?」
「デジカメ」
「でじ亀?」
「フィルム入れなくても写るカメラ」
「……おー?……お、おお! そうか、デジカメか! 名雪、お前頭いいな」

祐一は時々だけど、すっごく思考がアナログになるよね。
これもまた心の中だけで呟き、名雪はにっこりと微笑んだ。
その内容が何であれ、褒められて悪い気はしないものだ。
それと、『写るんデス』系のインスタントカメラでも自分でフィルムを入れる必要がないんだけど、話がややこしくなるから黙っておこうっと

今日も今日とて思慮深い名雪さんの優しさで、水瀬家はおおむね平和に回っていくのであった。

「で? 結局その『フィルム』ってのは何なのよ」
「そうだな……判りやすく言うと、キャンバスかな」
「は?」
「昔のカメラには、小さな画家が入ってるのさ。 で、フィルムって言うのはそいつのキャンバスって訳だ」
「……で?」
「どんなに腕の良い画家でも、キャンバスがなきゃ絵が描けないだろ? つまりフィルムってのは、そう云う役割を持ったモノなんだよ」
「……微妙にわっかりにくいわね、その喩え」
「あら、私は素敵な表現だと思いますよ?」

いつの間にそこに居たのだろう。
祐一の説明に対して難色を示す真琴の後ろ。
秋子さんはとても柔らかな表情をしながら、祐一の手の中のフィルムケースを見詰めていた。
「素敵なのは秋子さんの方です」とつい口走りそうになった祐一は、その衝動を抑えるのにとても苦労していた。

「山の中で見つけた不思議な石。
 工事現場で見つけたキラキラのナット。
 浜辺で拾ったガラスの欠片とか、とても綺麗な貝殻とか。
 祐一さんは昔から自分だけの『宝物』を見つけては、その小さなフィルムケースに隠して大切にしまっておく子でしたね」

秋子さんの口から唐突に語られる、幼い頃の祐一の姿。
とても楽しそうに紡がれる、今も色褪せない想い出の日々。
本質的には今も大して変わっていないのだろう、真琴と名雪が揃いも揃って『あー、わかるわかる』な感じの頷き方をしていた。
待て、俺はそんなに成長してないって事なのか?
祐一の無言の問い掛けは、秋子さんの昔語りに優しく消されていった。

「あまりにも頑なにフィルムケースを愛用するので、私は一度訊ねてみた事があるんですよ。 祐一さん、その時の事は覚えていませんか?」

まったく全然これっぽっちも覚えていません。
忘却の彼方どころか素粒子レベルで分解されている当時の記憶に、祐一は曖昧な苦笑いを顔に貼り付けるのが精一杯だった。
少しだけ残念そうな色を浮かべながらも、それならそれでと意味有り気に微笑む秋子さん。
その笑顔に若干の裏を感じ取ったものの、ソレが決して害意ではない事が判っていたので、祐一は大人しくされるがままに任せる事にした。
綺麗な年上のオネエサンの思惑に振り回されるのは、それはそれで心地の良いものなのだ。

「それじゃあ、今もう一度同じ質問をしてみたら、祐一さんは何てお答えになりますか?」
「……『なんでフィルムケースを――』、って質問ですか?」
「はい」

暫しの沈黙。
日光を透過して淡く滲ませる半透明の小さなプラスチックケース。
自分の指先で弄ばれるそれを見ながら、祐一は秋子さんの問いに対する答えを模索していた。
こんなにも小さくて頼りない円筒形の入れ物。
それでもあの頃の俺は、これを『宝物』を入れるに相応しい器として思い込んだらしい。
勿論、記憶としての『答え』なんかどこにもない。
不必要なまでに頼もしい俺のハイパー記憶デリート機能は、一切の慈悲なく当時の想いを消去している。
だから、答えは『今』の俺が導き出さなくてはならない。
『あの頃』の自分の行為に、『今』の俺が理由を与えるとしたら――

「これが……『想い出』を入れるために創られたケースだから。 ですかね」

呟くように、囁くように。
まるで失くしてしまった自分の過去がそこに詰められているかのように、祐一は掌の中のフィルムケースを優しく握り締めた。
陽光に透ける前髪。
艶のある声。
少しだけ伏せられた瞼。
こんなにもキザな台詞を平和な家庭のリビングで言ってしまえる祐一の横顔に、名雪は思わず「反則だ」と小さく口に出してしまっていた。
何がどう反則なのかは、誰にも判らなかった。

「……やっぱり祐一さんは流石ですね」
「はい?」
「今のその答え、昔の祐一さんに訊ねた時とまったく同じ答えなんです」

笑顔。
それも尋常じゃないくらいの、素敵に無敵な破顔一笑。
『昔と変わらない』と言う祐一の答えに対して秋子さんが見せたのは、それこそ超弩級の反則寸前な微笑みだった。
嬉しそうでもあり、楽しそうでもある。
可愛いと表現すれば確かに可愛くもあり、美しいと言おうと思えば間違いなく美しい。
そんな秋子さんの表情の真正面に立ちながら、しかし祐一は大きな疑問符を頭の上に浮かべたままだった。
自分の答えの何がそこまで秋子さんを喜ばせているのか、それが皆目見当つかない。
判らない事は素直に訊ねるのが得策だってばっちゃが言ってたような気がするので、祐一は素直に訊ねてみる事にした。
秋子さんは、どうしてそんなに素敵なんですか?

「え、ぇえっ? ゆ、祐一さんっ?」
「あ、いやっ、そ、そうじゃなくてその――ぅえっ? ちが、いえっ、違くありません! 秋子さんは素敵ですっ!


言葉の順序とか選択とかTPOとかを色々間違えた祐一の発言に、秋子さんの頬がにわかに紅く染まる。
リビングの端の方ではすっかり話の中心からはぐれてしまった真琴が、呪いの念を込めた瞳で祐一の事を睨みつけている。
名雪に至っては、「なんだまたか」とでも言わんばかりの諦観の様相で事態をぼんやりと眺めていた。
この程度の騒乱でおたついていたのでは、相沢祐一の幼馴染なんてやっていられないのである。

「……七年ぶりにこの町に戻ってきた時、祐一さんは色々な事を忘れてしまっていましたね」
「……はい」
「それから少しだけ時が過ぎて。 祐一さんは『あの冬』に起こった事はほぼ全て思い出して。 だけど、完全に消えてしまった想い出も幾つかあって……」

それは冬と夏の僅かな時間だけに許された、限定的な『家族ごっこ』だったのかもしれない。

だけど確かに自分達は、同じ屋根の下で同じ時を過ごしていた。
創りあげてきた想い出。

共有しているはずの大切な記憶。
半透明のケースに入れられた数々の光り輝く宝物のように、キラキラの日々は彼の中にも確かに在ったはずなのに。

それがある日突然、彼の中で”最初から何もなかった”事にされている。
忘却ではなく、封印でもなく、完全なる『消滅』を迎えている。
そこに至るまでの全てを把握し、それが詮無き選択であると理解していながらも、彼女の胸は確かに痛んでいた。
あの日交わした『フィルムケースについてのやりとり』すらも完全消去してしまわれたと言う事実に、酷く心が痛んだりもした。

だけど――

「だけど……忘れても、失くしても、祐一さんは変わらなかった。
 何も変わらない答えを、あの頃に聞かせてくれた答えと全然変わらない答えを私に聞かせてくれたから――」

まだ、大丈夫。
もう、大丈夫。
共に過ごした歳月は失われた訳じゃなく、こんなにも素敵な今のあなたを形作っているのだと気付かせてくれたから――

「だから、それが嬉しくて、私はつい笑顔になっちゃうんです」

祐一は後悔した。
今の自分がカメラを持っていないと云うその事に対し、生まれてこの方した事がないくらいの猛烈な後悔をした。
フィルムを持ってこい。
この世界にありったけのフィルムを持ってこい。
こんなにも素敵な秋子さんの表情を焼き付けるのには、百万枚撮りのカメラがあったって足りやしないじゃないか。

「……かと言って、お前に頼る訳にもいかないしな」

誰にも聞こえないように呟く祐一の手の中。
『想い出』を入れるために創られたケースが、我関せずと言った感じでころころと揺れる。
それはまるで、現在進行形で進んでいる素晴らしきこの日常を、『想い出』として切り取ろうとしている野暮な男の事を嘲笑っているかのようだった。