八十八夜もとうに過ぎ。
梅雨時期を越えてより一層濃密になった草木の気配が、頬を撫でる風を旬夏の彩りに染めあげる、七月。
女子生徒の夏服から伸びる二の腕にも見慣れてきて、イマイチ日々に刺激が足りない今日この頃。
我等が相沢祐一の通う華音学園高校では、最近になってとある奇怪な噂話が、生徒間で実(まこと)しやかに囁かれるようになっていた。

夏の落日の遅さをいい事に、七時過ぎまで延々と部活動に勤しんだ、その放課後。
真っ暗な廊下の向こう。
誰も居ないはずの音楽室から、ピアノの音が聞こえてくるのだと云う。
始めの内それは、まるで音楽の体を成していない単音の連続でしかないらしい。
しかし不審に思った人間が音楽室に近付いていくにつれ、徐々にそれは『ある有名な曲』の導入部へと収束していくと云うのだった。
狂ったように連続で叩かれる、たった一つの白鍵盤。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ作詞。
フランツ・シューベルト作曲。
人気の無い校舎に響き渡るその曲の名は、『魔王』。
幻想的かつ猟奇的な歌詞と、鬼気迫る曲調が響く人気の無い校舎。
四方八方に反響する音の洪水が、まるで精神を直接抉り取っていくかのような不快感をもたらす。
急に恐ろしくなった『彼』は、一目散に音楽室とは逆方向に走り出した。
だが、遠ざかっていくはずのピアノの音は一向に弱まる気配が無い。
否、それは段々と迫ってくるようでもある。
音楽室の隅から。
廊下の奥から。
窓から、足元から、そして遂には背中から――

「『お父さん!!お父さん!!』って云う叫び声が、幾重にも幾重にも彼の鼓膜を殴打して――」
「くだらん」

たった四文字で切り捨てる。
追加攻撃として、蔑むような眼差しと絶対零度の表情まで付加してやる。
それは、華音学園生徒執行部会会長である久瀬が得意としている、完全に人を小馬鹿にした時の態度であった。

「く、下らないとは何ですか!」

氷点下の態度を見せ付ける久瀬とは対照的に、真っ赤に燃えて轟き叫んでみせる同書記長、枳殻沙紀。
普段はどちらかと言えば落ち着いた佇まいのよく似合う少女であったが、久瀬と並べてどうこうするには流石に分が悪かった。
もとい、彼女が憤慨している理由は他にもある。
そりゃ確かに久瀬の態度が気に食わなかったのもそうであるが、本質的には沙紀の怒りは其処に向けられてはいなかった。

「下らないで足りなければ『小学生レベル』と言う形容詞も付けてやろう。 満足したらさっさと仕事に戻れ」
「会長。 お言葉ですがこれは、れっきとした一般生徒からの投書による嘆願です。 無碍(むげ)に扱われるのは、どうかと思われますが?」

そう、これは何も『人並み程度には噂話が好きな少女』が暇潰しに口にした、ただの世間話などでは決してない。
それどころかむしろ、執行部会の役員として会長の御前で話題にするに相応しい、明確な理由を持った発言なのである。
だのにこの冷徹メガネときたら、話を最後まで聞きもせずに「くだらん」の四文字で叩き切って見せたりするものだから。
オマケに言うに事欠いて、「また噂話か」みたいな軽い溜息まで吐いてくれちゃったりするものだから。
沙紀の態度が見る見るうちに硬くなり、ついには冷蔵庫に裸で放置されて三日目ぐらいの切り餅レベルにまでなってしまうのも、致し方のない事なのかもしれなかった。

「嘆願?」
「はい。 近頃学園を騒がせている幽霊騒動に関して、実態の調査と事態の沈静を図ってほしいと、正式な嘆願書が提出されました」
「誰から」
「各種文化部部長と、その部員による連名です。 特に図書委員会と吹奏楽部の比重が大きいみたいですけれど、単に人数的な問題でしょう」
「生徒会とオカルト研究会の区別が付くようになったらまた来いと、書面でそう通達してやれ」
「言い忘れてました。 連名の筆頭は、オカ研会長の暮野君です」
「……東方呪術研究会は」
「外人の幽霊には興味ないそうです」
「西洋錬金術研究会は!」
「オカルトと錬金術を一緒にするな、だそうです」
「………」

一緒ではないのかこのマイノリティどもが。
眉間を押さえて苦悩する久瀬の姿を見て、ようやく沙紀の顔に軽い微笑みが戻った。
それが愉悦かどうかの判断は、誰にもつけられそうになかった。

「お仕事ですよ、会長」