「会長? まだお帰りにならないんですか?」

午後七時半。
すっかり帰り支度を整えた沙紀が、未だもって帰ろうとする気配の全く見えない久瀬に、不思議そうに問いかけた。
一般生徒の下校時刻はとうの昔に過ぎ去っている。
部活動に携わっている生徒ですら、特別な許可を得ない限りこの時間まで残っている事はまず許されない。
流石に生徒会の役職持ちはその限りではないのだが、だからと言って理由も無く居座り続けていられるほど、夜の校舎は人の心身に優しくはなかった。
だが。

「ああ、私はまだしばらく残っていく」
「そんなに急いで片付けなきゃいけない仕事なんて、ありましたっけ?」
「別に急ぎの仕事という訳でもないが……」

そこまで言って、久瀬は僅かに言葉を濁した。
どうやら彼がこの時間になっても帰ろうとしない理由とは、何か相当に口に出すのが憚られる様な内容であるらしかった。
だが、そこで言い淀んでしまったからには、何もかもが手遅れであった。
何故なら、久瀬の挙動や表情に関する沙紀の洞察力は、学園内の誰よりも優れているとされている。
例えそれが、ほんの僅かな視線の泳ぎであったとしても。
生徒会書記長様のスペシャルフィルターを通して見れば、それは大きな大きな違和感となって空気を揺らしているのであった。
ふむう、怪しいなキミ。

「なるほど。 では、私も居残らせていただきます。 お茶でもお淹れしましょうか?」
「……いや、君は帰りたまえ。 私一人で事足りる程度の問題だ」
「一人で事が足りるなら、二人でやればもっと早く片付きますよ。 それに、執務に励む会長を置き去りにして、何の書記長でしょうや」
「外はもう暗い。 これ以上遅くまで女子生徒を拘束する訳にはいかん」
「あ、でしたら会長が送り届けてくださいませませ? 幸い、帰宅方向はご一緒のようですし、私も会長とでしたら安心ですから」
「……沙紀」
「お断りします」

退けない。
退かない。
退くものか。
他の生徒会役員をして『書記長名物”退かぬ三原則”』と恐れられている、沙紀のハイパー頑固モードが発動した瞬間だった。
普段は聞き分けの良い貞淑な文系女子を演じているくせに、一度スイッチが入ってしまうと”あの”久瀬ですら手に負えない。
むしろ、普段が物腰穏やかな書記長であるだけに、この状態の沙紀に逆らったら何をされるか判らない。
今日だけで何度目になるかも判らない溜息を吐きながら、久瀬は今夜の頼もしすぎるパートナーを真正面から睨み付けた。
まったく、こんな事なら多少面倒でも、一度帰宅して時間を潰すべきだったな。

「……幽霊と言うからには、夜にならないと姿を見せない物なのだろう?」
「はい?」
「………」
「……あ。 あー、あー、あー」

数秒の沈黙の後、何度も何度もこくこくと頷き、しきりに『納得です』と言う雰囲気をかもし出す沙紀。
それがあまりにも判り易い『納得』の所作であった事が、逆に久瀬のデリケートな部分をほんの少しだけ傷付けていた。
仮にも執行部会の会長が。
これまで幾多の真面目な執務をこなしてきた聖域でもある会長室で。
こんな時間まで居残りしつつその要因として口に出した言葉が、事もあろうに『幽霊』とは。
久瀬は憮然とした表情をその顔面に貼り付けたまま、沙紀に向かって冷たい声音を叩き付けた。

「納得したなら早く帰れ。 人手が必要な任務だとは思わん」
「なにを仰いますか。 『幽霊を発見する』だなんて過酷な任務、他のどんな仕事よりも人手が必要じゃないですか」
「……理解できんが?」
「錯覚、幻覚、作り話。 たった一人の証言する目撃情報なんて、主観に頼りすぎていて信頼できるレベルの物じゃありませんよね」

無論、久瀬が作り話をすると言っている訳ではない。
恐怖心に煽られて枯れ尾花を見間違う程度の人間だとも思っていないし、危ないクスリを服用しているとも断じて思っていない。
だが、それだって言ってしまえば『沙紀の主観』でしかないのである。
そして、顔も名前も知らない『誰か』を納得させるためには、何よりも客観的な事実こそが必要とされるのだった。

勿論、二人だから完璧って訳じゃない。
共謀してるって疑われたらそれまでだ。
集団ヒステリーとか言われだしたら目も当てられないし、夜の校舎に男女二人が居残りし続けているというシチュエーションも、問題がない訳では決してないけれど。
でも。
だけど。
それより何より第一に。

「面と向かって除け者扱いされるのは、幽霊に脅かされるより遙かに不愉快極まりないものでして」

やれやれだ、幽霊よりも手に負えない。
久瀬が心の中だけで呟いた言葉は、今度こそ沙紀に気付かれることはなかった。