午後八時。
職員室から最後の一人が居なくなった事を確認した二人は、まるで示し合わせたかの
様に小さな安堵の溜息を吐いた。
別に、身を隠す必要はない。
書類手続き上だって、居残り活動には何の問題もない。
だけど。

夜の校舎。
幽霊捜索。
男と女が二人きり。

口に出せないこと、出したくないことが複雑に絡み合った結果。
彼と彼女は暗黙の後ろめたさを共有し、『身を隠す』と言う不審者の取るべき最たる行動に至っていた。

「やっと居なくなったな」
「ええ、こんな遅くまでご苦労様な事です」
「今からでも遅くない。 こんな”ご苦労様な事”に付き合ったりせず、さっさと帰ったらどうだ?」
「お断りいたしますっ」

すっごい笑顔で言い切られた。
口調もやたらと柔和だった。
表面上の態度が天元突破レベルでおしとやかに設(しつら)えられているだけに、久瀬は恐ろしくて二の句を告ぐ事ができなかった。
とりあえず、この話を蒸し返すのはやめておこう。
恐らく、英断だった。

「さて、とりあえずは音楽室か」
「そうですね。 ピアノ自体は講堂と体育館にもありますけど、幽霊騒ぎの出自は音楽室らしいですから」
「となると、芸術塔だな。 鍵は持っているか?」
「抜かりなく」

そう言って、銀色に輝く鍵の束を指先でチャラ―、と鳴らしてみせる沙紀。
幽霊退治に赴こうとしている暗鬱な現状(久瀬主観)の中で、その仕草は不自然なまでに軽快だった。
気が付けば、沙紀は久瀬の少し手前を歩いている。
口元にも、ほんの僅かだが綻びが見え隠れしている。
だが、本人に問いただしてもどうせ「気のせいです」としか答えが返ってこないと判り切っていたので、久瀬は最後までその態度について触れる事はしなかった。

音楽室か、だって
鍵は持ってるか、だって
散々「先に帰れ」とか「さっさと帰れ」なんて冷たい言葉をぶつけといて、いきなりこんな風に私を頼りにしたりする
私が彼の隣にいて、彼にとって必要な物を準備していると言う状況を、全くの自然な物として扱ってくれたりする
もう――こんなんじゃ全然ダメダメだなあ
彼も、そして、私も

久瀬の半歩手前。
こんな安っぽい事で、こんなにも簡単に機嫌の良くなってしまう自分を、沙紀は少しだけ恥らう。
しかし恥らってみても自分に何の得もなさそうなので、沙紀はすぐさま自分の思考回路をスレッジハンマーで粉々に破壊した。
書記長である自分が、会長である久瀬に必要とされた。
これは喜んで然るべき事柄であり、その限りでは自分の感情も至極当然の物であるはずだ。
むしろそこに何らかの意図を挟んで意識的に憮然とし続ける方が、よほど卑猥で見るに耐えない。
そんな結論に達した沙紀の心は、まるで指先で弄んでいる鍵のどれかがカチリと当て嵌まったかのように、とても自由で素直な物となった。
少なくとも、自分達以外に誰の目も存在しない夜の校舎の中だけでなら、『いつもの沙紀』を捨てても良い様な気がした。

「ね、会長」
「ん?」
「何だかワクワクしません? ほら、小さい頃に参加した、サマーキャンプの肝試しみたいで」
「いや、別に」

全然、まったく、これっぽっちも同意なし。
それどころか、「何を言っているんだお前は」ぐらいの表情まで見せてくれやがる。
こんな人はいっそ魔王に喰われて死んじゃえばいいんだと、沙紀はかなり本気でそう思った