「……今のは」
「ぴ、ピアノの音…だよね……」

月の蒼い夜。
誰も居ないはずの芸術棟。
『聞こえるはずの無い音』が、闇に支配された廊下の奥から響いてきた。

沙紀の心臓が、早鐘を打つかの如くに鼓動を激しくする。
首筋の辺りに悪寒が走り、思わず久瀬の制服をぎゅっと握り締めてしまう。
『聞こえるはずの無い音』が聞こえてきたのだから、その先にはきっと『居るはずの無いモノ』が居るに違いないと、沙紀の直感が騒ぎまくっていた。

「く、久瀬君……」
「ああ……判っている」

沙紀が仰ぎ見た久瀬の表情は、今まで見てきた中でもかなりの上位にランクインするぐらい険しい物だった。
だから沙紀は、久瀬にとってもこの現状がイレギュラーであるのだと確信した。
そりゃそうだ、誰が『本物』に出くわすだなんて想定するだろうか。
もしも久瀬が本気で幽霊対策をしながら深夜徘徊していたのなら、それはむしろそっちの方が問題になるくらいであった。

現状は、予測不能域【イレギュラー】。
速やかに撤退して今後の対策を練るのが、どう考えても最上の一手である。
何しろ今の自分達は『ピアノを弾く幽霊』に対する有効な対応手段を持っていないし、『ピアノを弾く変質者』に対しても為す術を持っていない。
そもそもどちらの場合にせよ、兎にも角にも恐ろしい。
久瀬も、「判っている」と言っていた。
これで恐らく、満場一致で戦略的撤退が決議された。
後は、焦って転んだりしないように足元に気をつけながら、互いを励ましあいつつ学校を飛び出せばいい。
そんでもって最寄のコンビニで人工の強烈な光に照らされながら、ゆっくりと精神の均衡が戻るのを待ちつつ明日以降の動向を論議すればいい。
そう考えていた時期が、沙紀にもありました。

「行くぞ沙紀! 音源は第二音楽室のはずだ!」
「ふぇっ!? ぅえぇっ? ちょ、ちょまあっ!」
「私はこのまま直進する! お前は戻って階段方向からの逃げ道を塞いでくれ!」
「やっ、いやぁっ、お、置いてかないでくださいーっ! かいちょおーっ!」

沙紀の悲鳴にも似た哀願の声を無視し、驚嘆に値する速度で漆黒の廊下を爆走していく久瀬。
置き去りにされた沙紀がほんの二、三度瞬きをしている間に、その背中は闇に侵食されるかのように遠く消え去っていった。
直後。
自分の身に降りかかった圧倒的な『恐怖』に延髄を蹴飛ばされて、沙紀は物凄い勢いで久瀬の背中を追い始めた。
無駄に発達している久瀬の運動神経を本気で呪ったのは、恐らくこれが初めての事だった。

『面と向かって除け者扱いされるのは、幽霊に脅かされるより不愉快極まりないものでして』

過去の自分の発言が、鼓膜の奥で反響する。
うっかり何処かで気を抜いてしまえば、即座に涙が溢れそうになる。
足音だけが彼の存在を証明してくれる暗闇の中、沙紀はひたすらに第二音楽室を目指して脚を動かした。
走る。
自分が『走っている』のかどうかも認識できないけど、とにかく右足と左足を交互に前に出す。
だが、沙紀は運動が苦手な女の娘だった。
まるで筋肉の付いていない華奢な脚は、すぐにその動きを鈍らせた。
肺活量だって平均よりも遙かに少ない上に、今の彼女の心理的状況は海で溺れた人のソレに非常に酷似している。
息が深く吸えない。
酸素がうまく取り込めない。
呼吸が苦しい。
膝が震える。
怖いのか、寒いのか、疲れているのか、もう判らない。

――面と向かって除け者扱いされるのも幽霊に脅かされるのも嫌だけど、暗闇に独りで取り残されるのは最悪だよっ! このバ会長っ!

そんな彼女にできる事は、久瀬を罵倒する事で自分の心を勇壮に保つと言う、ただそれだけの事だった。