沙紀が涙目になりながらようやく第二音楽室に辿り着いた時。
そこには忌々しげな顔をした久瀬が、閉ざされたドアの前に立ち尽くしていた。

「はっ、はひっ、は……か、かいちょ?」
「……遅かったな」

アンタが速いだけです、異常なまでに。
息も絶え絶えな状況では流石に口に出す事はできなかったが、沙紀は視線だけでその思いを久瀬に伝える事に成功していた。
ついでに「暗闇に置いていかれた」と言う恨み言も添付して送ってやったら、そこに関しては完璧に無視された。
それどころか「だから最初から帰れと言っていただろう」みたいな反撃をされそうだったので、そこで沙紀は久瀬を睨み付けるのをやめた。
押し引きの機微を間違えたりしないのが、よく訓練された書記長なのだ。

「……沙紀、鍵を」
「へ?」
「鍵」
「あ、はい、コレですけど……」

何でこんなに不機嫌なんだこの人は。
余計な言葉を一つだって挟もうとしない久瀬を見ながら、沙紀は急いで鍵を手渡した。
ひょっとしてこの人は、『鍵がなければ音楽室の中に入れない』と言う事を失念していたのだろうか。
それを忘れて一人で先走った事を、今更ながらに後悔したり恥じ入ったりしているのだろうか。
もしそうだとしたら、何て間抜けで可愛い人なんだろう、と沙紀は思った。
完璧を装いながら無様に失敗するなんて、愛くるしくて仕方がないと、沙紀は暗闇の中で一人身悶えた。
だが。

「もー、会長ってば意外とドジですねえ」
「は?」
「か、ぎ。 私が鍵を持ってるんですから、会長だけが走って行ったって――」

当然と言うか、なんと言うか。
その性情の冷徹さゆえに一部の人間からは蛇蝎の如くに嫌われている”あの”久瀬が。
『鍵がなくちゃ音楽室に入れない事を失念してました、てへっ』みたいな間の抜けた失敗など、天地が分断されたってするはずがなかった。

「私は、幽霊など信じてはいない」
「……はあ」
「判らないのか、沙紀」
「え? な、何をですか?」

冷たい視線で、一瞥された。
溜息まで吐かれた。
ちょっとそれはあんまりなんじゃないかと、沙紀は思った。
無論、穏やかなる昼下がりの生徒会室で同じ質問をされたのであれば、彼女は即座に答えを導き出せただろう。
しかし今は穏やかなる昼下がりでもなければ、彼女が安心できる生徒会室の中でもない。
おまけに幽霊騒ぎの真っ最中だし、呼吸も脈拍も正常とは程遠い状況である。
だから、今の彼女を責めるのは少々酷と言うものなのだが、残念ながら久瀬は非常に酷薄な人間であるらしかった。
少なくとも、現状の沙紀の認識の中ではの話だが。

ピアノの音がした。
ピアノは音楽室の中にしかない。
そして、久瀬は幽霊を信じていない。
幽霊を信じていないから、鍵を必要としなかった。
鍵が必要でないと云う事は、音楽室に施錠がされていない事を確信していたと云う事だ。
つまり、それは。

「私は、夜中に音楽室に忍び込んでピアノの鍵盤を叩く変質者を捕らえるために走ったのだ」

相手が人間なら、鍵は必要ではない。
何故なら人間である以上、相手も鍵を使わなければ音楽室に入れないからだ。
鍵が開いていれば、そのまま突入して変質者を取り押さえればいい。
仮に鍵が閉まっていたとしても、それはつまり、相手がまだ音楽室の中に居ると云う事だ。
その場合は相手のランクが『ただの変質者』から『用心深い変質者』に格上げされる事になるが、それもまあ些少な事。
施錠が為されている時点で『相手は室内にいる』と云う事が確定するのだし、所在の割れた変質者如きに後れを取るほど、久瀬は自分の心身に疑いを抱いてはいなかった。

「廊下の明かりを全て点けろ。 もはや、こちらが隠れる必要などはない」

懐中電灯の切り取った情けない視界に頼る時間は、もう終わりだ。
ここから先は学園の秩序を守る法の番人として、正々堂々と見敵必殺の任務をこなすだけだ。
久瀬の指示通りに沙紀がてててっと走り、廊下の電気を全て点けた。
『白日の下』とまではいかないものの、明るい蛍光灯に照らされた廊下は、一切の『悪』を許容しない精錬な空間に思えた。

銀色の鍵が、扉の鍵穴に差し込まれる。
幾許かの呼吸の後に、勢い良く右に捻られる。
意外なほどに大きな開錠音が『ガチャリ―』と鳴り、それが沙紀の心に「あれ、でも、ちょっと待って」と言う逡巡を生み出した瞬間。

「執行部だ! そこを動くな!!」

空気を切り裂く久瀬の大音声が、廊下の向こうまで突き抜けた。