久瀬が音楽室に到着した時、前後の扉の鍵は硬く閉ざされていた。
それは普通に解釈すれば、『担当教諭による最後の見回りで施錠が確認されて以降、誰も音楽室の中に入っていない』と云う事になる。
だが、二人は確かにピアノの音を聞いた。
無論、ピアノが勝手に音を鳴らすはずがない。
施錠された音楽室の中に鎮座しているグランドピアノは、『誰か』の手によって鳴らされたのだ。

でも、あれ、ちょっと待って――

沙紀の脳裏に、形容し難い不快な『違和感』が生まれた。
一度生まれてしまったその怪物は、物凄い勢いで彼女の心を喰い荒らしていった。

今、音楽室の中には『誰か』が居る。
夜の学校に忍び込んで独りきりでピアノの鍵盤を叩く、異常な精神を持った『誰か』がいる。

――でも、じゃあその『誰か』は、どうやって音楽室の鍵を開けたのだろう

首筋に怖気が走る。
舌の根が乾いてしまい、マトモな声が出せなくなる。
沙紀は、自分の鼓動が異常なまでに速まっていくのを感じていた。

どうやって。
『ソレ』はどうやって、音楽室の中に入ったのだろう。
正攻法ではとても無理だ。
何故なら学園に存在する唯一の鍵は、自分達が保有している。
可能性として考慮するに値する手段と言えば、放課後の時点で既に室内に侵入していて、教師の見回りをどうにかしてやりすごすくらいであった。
それならいい、と沙紀は思う。
むしろそうでなくては困ると、心の底から強く思う。

もしこれで『音楽室の中に誰も居ない』だなんて事態になってしまったら、沙紀は自分が正気を保っていられるかどうか判らなかった。

だって、音楽室には鍵がかかっていた。
『人間』が外側から施錠するためには、さっきまで自分が持っていた鍵の束が絶対に必要なはずなのに。
だからこの時点で、『ピアノを弾いていた犯人が鍵を閉め直して逃亡した』と言う線は消え去ってしまった。
残る可能性はただ一つ、『未だ室内に犯人が残っている』と言う状況だけである。

それなのに。
ああそれなのに、音楽室内に踏み込んだ久瀬の口からは、『犯人』に対する二の句が未だ告がれずにいる。
抵抗する『犯人』と争っているような物音もしなければ、援軍を要請する声も聞こえてこない。
彼は今、何を見ているのか。
そもそも、『見る事ができる何か』はそこに存在しているのか。
想像する事しかできない闇の向こう。
想像すらできない不定形の『恐怖』だけが、じわじわと沙紀の精神を蝕んでいく。
静寂が、苦痛だった。
声を出さずに居続けるのが、これ以上ないほどの拷問に思えた。

何でもいい。
どんな言葉でもいいから、とにかく『声』がほしかった。
冷たかろうが意地悪だろうが、久瀬も一応は人間だ。
例えどんなに優しくなかろうと、返事があればそれだけでいい。
だってそれは曲がりなりにも三年間を共にし続けた、恐らく今までの人生の中で最も耳慣れた声のはずだから。
尋常ならざる状況の重圧【プレッシャー】に負けた沙紀が、既に半泣き状態になりながら何事かの声を発そうとしたその時――

ポロ――ン

第二音楽室の中から、ピアノの音が、再び聞こえてきた。
今度こそ沙紀は、問答無用で気を失った。