翌日の早朝。
校門が開くと同時に校舎内に滑り込んだ沙紀は、会長室に向かっての廊下をパタパタと走っていた。
人気のない廊下。
誰もいない学校。
誰にも打ち明けた事などなかったが、沙紀はこの『早朝の誰もいない学校の空気』が好きだった。
日中の喧騒で淀んでしまった空気が、一晩をかけてリセットされたかの様に清浄な物となる。
誰の足跡も付いていない新雪の上を歩いているかの様に、誰にも属していないニュートラルな空気の中を泳いでいく感覚。
視界の端に『廊下を走るな!』と云う環境整備委員の貼ったポスターが映りこんできたけれど、それでも疾走する書記長の足は止まる事はなかった。

昨晩のアレは、私の人生史に大きく傷跡を残す失態だった

思い出すだけで頬が熱くなっていく。
考えないようにしようと意識すればするほどに、昨夜の”あの”瞬間の事が脳裏に鮮明に蘇ってくる。
どちらにせよ羞恥の極みである回想から逃れられないのであれば、いっそ真正面から現実を受け止めてやろうじゃないですかと沙紀は決断した。
誰もいない廊下に立ち止まり、大きく深呼吸をして心身を平静に保つ。
瞳を閉じて世界を常闇と同化させ、昨晩の記憶を出来る限り詳細に思い出す。
思い出している途中でもうっかり気を抜くと床をゴロゴロ転げ回ってしまいそうなので、沙紀は両の足にしっかり力を込めて仁王立ちする事にした。

それは、昨晩のこと。
ピアノの音が聞こえ。
両膝から力が抜け。
まるで電源が切れるかの様に思考の連続性が途絶えてから、どれくらいの時間が経った頃だろうか。
次に意識が戻った時、彼女は自分が『何か温かなモノを抱いている』と云う事をまずは感じ取った。
それは、まだ記憶の統合性や思考回路の清濁が整っていない状況下でのこと。
『前後の状況から現状を把握する』と云うスキルが絶賛使用不可になっていると云う、年頃の乙女としてはかなり厳しめな状態の中。
その時の彼女に許された行動は、『情報を素直に受け取って反応する』と云う、極々シンプルなものでしかなかった。

頬に触れる、サラサラ。
身体全体で感じる、ぬくぬく。
一定のリズムで優しく揺さぶられる、まるでゆりかご。
それらは、およそ『ヒトとして好ましい類に分類されるアレやコレやの感触』の総集編とも呼べるモノだった
そんなモノが、未だ靄のかかっている彼女の思考回路に渾然一体となって襲い掛かったと言うのだから――

「んぅ……きもちぃ――」

彼女が何も考えられず、唇の端から濃縮還元120%な本音が艶っぽく漏れ出してしまうのも、無理のない事柄なのであった。
それどころか、本能の赴くままに『サラサラ』な部分をもっと触りたくなってクシャクシャにしてみたり。
『ぬくぬく』な部分に鼻先をこすりつけたり。
更なる『確かさ』を求めてぎゅーっと抱きつく力を強めたりするのも無理のない事柄だったんじゃないかと、沙紀は後々になってからもそう強く主張するのであった。

「目が覚めたか。 気分はどうだ?」

きぶんはどうだ?
遠く聞こえてくる耳慣れた声が、質問をしている。
質問をされたのだから、ちゃんとお返事をしなくてはいけない。
そんな風に思った沙紀は、これに対しても実に素直に『今の気分』を口に出した。

「きぶんは、とてもいー、ですよ?」
「……そうか。 もう少しで家に着くから、そのまま安静にしていろ」
「いえ?」
「ああ」
「だれの?」
「……私の家にお前を連れて行ってどうなると言うのだ」

なるほど。
と云う事は、今から私は私の家に連れて行かれるんだな。
そこまでをゆっくり把握した所で、沙紀の意識は急速に『自分』を取り戻し始めた。

連れて、行かれる?

おかしい。
それはおかしい。
私が私の家に帰るのに、一体何故にドナドナ的動詞が使われなくてはならないのだ。
私はちゃんと、自分の意志で帰宅できる。
自分の足で帰宅できる。
あれ、でもじゃあ何で私の足は、こんなにもぷーらぷーらと自由気ままに揺れ動いているのだろう。
「地に足をつけて生きなさい」
それは、父方の祖父が口癖の様に私に言い聞かせていた、人生の訓示だ。
幼い私は、「何を当たり前のことを」と思っていた。
何しろ重力に心と身体を縛られている私たちは、地面を蹴り付ける反動無しでは何処へも動く事ができないからだ。
そんな風に思っていた自分を恥じる事を覚えた頃には、祖父は既に他界していた。
しかしその事は、彼の遺してくれた言葉に新しい命を吹き込む糧となった。
祖父の言葉を守って生きていこうと思った。
そうすれば、祖父はいつでも優しく見守っていてくれると信じていた。
ああ、それなのに今の私ときたらどうした事か。
周りの景色はゆるゆる動き、歩行のリズムに合わせて身体も上下に動いていると言うのに、地に足が全く着いていないではないか。
それもホバークラフトなんて生易しい浮き方じゃない、これは既に反重力とか飛行石が関与している類の流暢さだ。
こんな不可思議な事ができるのは、神様かイカサマかのどちらかでしかない。
おや、そう言えばこんな感じの事をついさっきも考えていたような――

「ってぇ!? かっ、くっ、くじぇちょー!?」

思いっきり、噛んだ。

「どうした騒がしい。 お前の家なら、もう着くぞ?」
「ちょっ、なっ、何でこんなっ!? あぅ、お、とにかく降ろしてくださいなっ!」

若干、変な日本語になった。

「……倒れた拍子に頭でも打ったか。 まずいな、やはり私の家に運んで医師を呼んだ方が」
「は、話を大きくしないでくださいですよおーっ!」

結論から言うと、沙紀は久瀬におんぶされていた。
更に言うと、学校から枳殻家に至るまでの道のりをずっとおんぶされたままで過ごしていた。
これは言うまでもない事なのだが、さっきまで沙紀が『すりすり』したり『もふもふ』したりしていたのは、全て久瀬の髪の毛や首筋や耳元だった。

信じられない。
ありえない。
超絶ド恥ずかしいのは当然の事として、今もこの身体に残る彼の温もりとか感触が色んな意味でアリエナイ。

自室に帰ってからしばらくの間、沙紀は布団の中に頭を突っ込んで足をジタバタさせる行為をひたすら続けていた。