と、言うか。

「な……なんで居るんですか、会長」
「質問の意図がよく判らないが、ここが会長室で私が生徒会長だからと云う理由では、納得できないのか?」
「そうじゃなくてですね……」

どんな裏技を使えば、開門ダッシュを敢行した私よりも先に会長室にゴールインできるんですか。
新しいタイプの忍者ですか、貴方は。
勢いに任せて突っ込もうとして、沙紀は寸前で思い留まった。
それは『本能』なんてご大層な物ではなく、言うなれば経験の賜物としての危機回避能力であった。
危ない危ない。
ここで不用意にツッコミなんか入れたら、久瀬君から「なんでお前は開門ダッシュなんか決め込んだんだ」と云う恐ろしいブーメランが返って来かねない。
何しろ彼の切れ味鋭いカウンター弁論ときたら、口頭弁論部部長の勝俣君ですら打ち負かした事があるほどだ。
李下に冠を正さず。
君子危うきに近寄らず。
しかし一方的に脅えてばかりいるのも何やら負けたような気がして悔しいので、沙紀は自分なりに現状を軽く推理してみる事にした。

どことなく淀んでいる室内の空気。
お世辞にも淹れたての物とは言い難いコーヒーの薫り。
昨日の放課後には存在していなかった、乱雑に積み上げられている冊子やファイルやコピー紙の束。
沙紀は、ほとんど射殺すような目付きで久瀬の事を睨みつけた。

「……会長?」
「……何だ」
「まさかとは思いますが、一応お訊ねします。 昨日、私を送り届けてくださった後は、ちゃんとご帰宅なさったんですよね」
「……勿論だ」

ぷいっ。
目線を逸らし、気まずそうな表情でぼそっと呟く久瀬。
それでも一応「嘘は言っていない」と主張している辺り、どうやら帰宅したと言う部分は本当であるらしかった。
だが、そんな程度で納得してあげるほど、今日の彼女は優しくはなかった。
事それが会長である久瀬の体調管理に関する事態である限り、沙紀の思考に『優しさ』なんて要素が入り込む余地は欠片も存在しない。


「では、ご自宅に戻ってすぐさま学校にとんぼ返りなされたと、こう仰る訳ですか?」
「……食事はちゃんと摂ったぞ」

言いながら、久瀬の目がほんの僅かに泳いだ。
それを意識の端で確認するか否かと云う刹那の瞬間に、沙紀の手がゴミ箱の淵を掴んでいた。

「……カップラーメン……それもフライ麺の…それに保存料まみれのコンビニおにぎりっ…」
「あー……いや、その、それはだな…」
「会長。 そこに座りなさい」

もう座っているのだが。
口に出したらお説教の長さが『底辺×高さ÷沙紀』な感じになってしまいそうだったので、久瀬は黙って神妙な顔付きをする事にした。
無論、それがポーズだけであると言う事は、怒れるお母さん書記長の目にはまるっとお見通しだった。

こうして、久瀬と沙紀の長い一日は、まずは場違いなお説教から幕を開ける事となる。


健康は大事です。
特に成長期である今の私たちの身体は、後の十数年分の寿命を司(つかさど)っていると言っても過言ではないのです。
それなのに会長ときたら、ちょっと目を離した隙に『夜更かし+ジャンクフード+カフェイン』の三連コンボを達成なさったりしてからに。
ひょっとしてアレですか、それは新しい感じの緩やかな自殺行為ですか。
それとも、ただ単に重度のマゾヒストなだけですか。
まったく、会長は私に何度同じ事を言わせれば気がお済みになるのですか?
生憎と私もこう見えて忙しい身の上でありますから、傍らに侍り続けて壊れかけのレイディオみたいな御役目をするのにもある程度の限界と言う物がございましてですね――

「判った、判ったから。 すまなかった。 反省している」

延々と続く沙紀のお説教を、スルーするのにも疲れ果てたのか。
どんよりとした表情で謝罪の言葉を口にする久瀬は、どう贔屓目に見ても『健康的』とは呼べなかった。
なあ、沙紀。
確かに夜更かしもジャンクフードもカフェインも寿命を縮めそうな要素だ、そこの所は認めよう。
だが、ストレスを溜めるのも心身に非常に宜しくない等と、何処かで聞いた事はなかったか?
そうは思いながらも強く反論したりしない辺り、久瀬は意外と優しい人間なのかもしれなかった。


「本当に、反省してます?」
「勿論だ」
「もう二度と同じ過ちを繰り返さないと、誓えますか?」
「ああ、誓おう」

半ば投げやりな感じで。
しかしもう半分くらいは真剣に誓ってみせた久瀬に対し。
沙紀がその双眼に、形容し難い剣呑な光を宿らせた。

「………ねえ……久瀬君」
「な、なんだ?」

沙紀は普段、久瀬の事を『会長』と呼んでいる。
特に生徒会の用事で動いている場合でなくても、久瀬を呼ぶ時は自然と口が『会長』と言葉を紡いでしまう。
だから、沙紀が優しい声で『久瀬君』なんて口に出したりした日には、それはもう九分九厘の確率で意図的であると言わざるを得なかった。
何を意図しているのかまでは判らない。
しかし少なくとも嬉しかったり楽しかったりする用事でない事だけは、今までの経験が嫌と云うくらい教えてくれている。
思い出せる限りでは、あの日も、あの時も、あの瞬間も。
沙紀は、こうして自分の事を『久瀬君』と呼びながら――

「今のとまっっっったく同じやりとり、去年の生徒総会直前にもしたんだけど、覚えてなーい?」
「………あ」

久瀬は、緩やかな死を覚悟した。