「――ところで、最初の質問にまだお答え頂いていないのですが」
「最初の質問、とは?」
「どうして会長がここに居らっしゃるのか。
 正確に言えば、どうして夜半過ぎから会長室に篭り切りになられなければならなかったのか、と云う問いです」
「ああ、その話か」

お前の説教が長すぎたせいで、すっかり忘れていたよ。
口に出したらお説教がさらに長引きそうなので、久瀬は黙って質問の答えのみを口に出した。

「昨日の件で少し、気になった事があってな」
「少し、ですか?」
「ああ、少しだ」

誰が『少し気になった』程度の事で、徹夜なんかするって言うんですか。
問い詰めたってどうせ本音の部分を語ってくれるはずもないので、沙紀は黙って久瀬の言葉の続きを待つ事にした。

「とは言え、流石に授業開始前の30分やそこらで調べ上げられるとは思えなくてな。 何しろ私は要領が悪い」
「当たり前です。 調べ物の類まで完璧にこなされてしまっては、副会長以下役員の仕事がなくなってしまいます」
「そうだな。 そう言われると思ったからこそ、私は夜の学校に忍び込まざるを得なかった」
「……へ?」
「私はまだ、この一件に関して執行部その物を動かすつもりはない。 つまりはそう言う事だ」

要領が悪く。
調べ物がヘタクソで。
誰かの手を借りねば徹夜作業になってしまう事を確信した上で、翌日になれば誰かが確実に助けてくれるだろう事を判っていた上で。
それでも久瀬は、『誰の手も借りない』事を選んだ。
幽霊騒ぎがあったばかりの夜の学校に、ただ一人で舞い戻る事を選んだ。
そして沙紀には、そんな久瀬の孤独な決意が、どうしようもなく寂しく感じられていた。

――そう言えば昨日の夜も、一人で残ろうとしてたよね

沙紀の胸が、ちくりと痛む。
手にしている通学カバンを、思わず投げ付けてしまいそうになる。
ひょっとしたらこの人は根本的な部分で『生徒会/私たち』を必要としていないんじゃないだろうかと、沙紀は心の片隅でそう思ってしまっていた。
そりゃ、彼の言いたい事は判る。
私だって全権を握る立場の人間だったら、こんな流言飛語の類に貴重な労力を投入したいとは思わない。
他に成すべき事がある。
我々はこんな事をするために結成された部会ではない。
責任感とプライドを足して二で割って意固地な心で煮詰めたような感情は、私にだってよく判るのだ。
私にだって、よく判ってるつもりなんだけど――

「そう言えば、昨夜の結末をまだお前には言ってなかったな」
「結末?」
「音楽室に踏み込んだ後の、事の顛末だ。 恐らくはお前の想像通りで間違いはないのだろうが、一応はちゃんと説明しておく事にしよう」
「……はあ」

それ、私が聞いて意味あるんですか。
完全に拗ねてしまった沙紀の返事は、彼女が想像していたものよりもかなり冷たい響きを纏っていた。
「今のはちょっとまずかったかな」と、不安を抱きながら久瀬の事をこっそり覗き見る沙紀。
しかしそこには普段と全く変わらない様子の久瀬が居たりして、沙紀はまた更に不機嫌度数を高めていくばかりであった。
この、鈍感。

「結論から言うと、音楽室の中には誰も居なかった。 そして、何も居なかった」
「……え、でも」
「肩透かしを喰らった気分でな。 手持ち無沙汰にピアノの黒鍵を叩いてみたら、廊下でお前の倒れる音がした」
「――っ!」

あ、あのピアノは会長の仕業だったんですかあっ!
瞬時に頬が赤く染まっていくのを感じながら、沙紀は非難の意を込めた視線で久瀬を睨みつけた。
しかしそこにも普段と全く変わらない様子の久瀬が居たりしたので、沙紀は怒りを通り越して呆れの境地に入りかけていた。
ひょっとしたらこの人は、すごく有能だけど色々とダメな人なんじゃないだろうか。

「そこから先は語る必要もないから割愛するが……どうした、沙紀」
「……なんでも」

そう言いながら、沙紀は通学カバンをソファの上に投げ捨て、備え付けの電気ポットにお湯がまだ残っている事を確認した。
こんな気分じゃ上手に葉を蒸らす事なんて出来るはずがないと確信し、安物のティーバッグが入った箱に手をかける。
カップを暖める事もしない。
ソーサーを用意する事もしない。
そうして、ポットの蓋をベコベコと叩きながら荒々しく注いだお湯で抽出されたティーバッグの紅茶は、やっぱりちっとも美味しくなんかなかった。