「なあ、沙紀」
「なんですか」
「お前は、【気狂いピアノ】――と云う言葉を聴いた事があるか?」
「……ありません。 古い映画のオマージュか何かですか?」
「名付けた人間にそう云う意図があったかどうかは知らないが……そうか、お前ですら知らなかったか」
「何ですか、その『お前ですら』って」
「言葉通りの意味だ。 他意はない」

だからその本意が知りたいんですってば。
難しい顔で紅茶をすすりながら、沙紀はその頬をぷーと膨らませた。
存外に、可愛らしい仕草だった。
無論、それに見惚れる様な人間は会長室の中には存在していなかった訳なのだが。

「そうだな……どこから説明すれば良いのか……」
「別にどこからでも構いません。 勝手に脳内で再構築させていただきますので」
「そうか。 そう言ってもらえると、こちらも助かる」

口先ばかりではなく、本当にほっとした様な表情を見せる久瀬。
そっけない態度で困らせてやろうとしたのに、そんな表情をされたって困る、と沙紀は思った。
主に、『会長をお助けする事ができている』と云う事実を勝手に喜んでしまう自分が居る事に。
その、なんだ。
すごく、困る。
自分が何だかご主人様に尻尾を振っている犬みたいに思えてきて、すごくすごく困るのだ。

と、そんな困ってしまっている沙紀はさて置き。
『どこから話してもいい』と云う許しを得た久瀬は、まずは机の上に置いてあったコーヒーで唇を湿らせた。
それから、話が長くなると確信しているのだろう、トレードマークとも云える眼鏡を外して脇に置いた。
窓の外の町並みを眺め。
風が雲をゆるやかに押し流しているのを眺め。
まだ勢いの弱い太陽が雲間に隠れてしまうのを見届けてから、久瀬は静かに口を開き――

「――時に昭和58年。 当時の第三学年に所属していた女子生徒が、不幸な事故で死亡した」

ぶー!
沙紀が、年頃の乙女にあらざる勢いで、口に含んでいた紅茶を噴き出した。

「ちょっ、けほっ、まっ、なっ、い、いきなり何の話ですかあっ!」
「いや……最終的には今回の一件に全て繋がる話なんだが」
「……ほんろに?」
「本当だとも」

じー。
まるで諸悪の根源を見るかのような眼差しを向けてくる書記長の姿に、久瀬は軽い罪悪感を覚えた。
やはり、もう少し順番を考えてから話し始めるべきだったか。
少なくとも、人死にの話題から入るのは避けるべきだったか。
久瀬にそんな事を思わせるくらい、ケンケンと咽(むせ)ながらテーブルの上を一生懸命に吹いている涙目の沙紀は、何と言うか凄く可哀想な感じだった。

「あー、続きを話しても大丈夫か?」
「……どうぞ」

口では「どうぞ」と言うものの、その顔に張り付いているのは警戒心以外の何物でもない。
その証拠に彼女は、紅茶のカップを既に自分の手の届かない場所に追いやってしまっている。
そんなに身構えられても困るのだがと、久瀬は再びコーヒーを口にした。
鋭い酸味が、喉頭を抉った。

「――とある夏の暑い日の事だったらしい。
 合唱部に所属していた『彼女』は、とてもピアノが上手だった。
 また、『彼女』自身もピアノをとても愛していた。
 始業式や終業式等でもピアノの伴奏は『彼女』に一任されており、言わば『彼女』は全校生徒公認の”ピアノの主人”の様な感じだったそうだ。
 だが、悲劇は突然訪れた。
 当時『彼女』が第三学年だった夏の日。
 いつもの様にピアノに触れた『彼女』は、調律が若干狂っている事に気付いた。
 別に直す知識や技術があった訳ではない。
 目で見たからと言って何がどうなる訳でもない。
 だが、それでも『彼女』は、弦の様子を間近で見てみたいと思ってしまったのだろう。
 ピアノの天蓋を開け、狂っていると目される弦に鼻先を突き合わせ。
 伸ばした指先で軽く白鍵を叩いたその瞬間――鉄製の弦が、弾けて切れた」

いたっ。
その瞬間の様子をありありと思い浮かべてしまった沙紀は、咄嗟に瞼を強く結んだ。
それは図らずも、当時の『彼女』が見舞われた悲劇を再現する、見事なまでの『正解』を導き出していた。