『彼女』は、すぐさま病院に運ばれた。
生命に別状こそ無かったものの、『彼女』の水晶体は完全に破壊され、視力の回復は絶望視される状態だった。
そしてそれは、『彼女』の人生から『ピアノを弾く』と言う権利を永久に剥奪する宣告でもあった。
無論、世に盲目のピアニストが居ない訳ではない。
逆境をバネにして成功を収めた人間など、集めようとすれば掃いて捨てるほどこの世には居る。
だが、逆境に押し潰されてそのまま朽ち果てていく人間の方が、この世の中には余程多いのであった。
不幸な目に遭った人間の全てが、皆同様に精神を強く保てるとは限らない。
『自分が出来たのだから他人にも出来るはず』と言う克服者の言葉は、ただのエゴイズムでしかない。
そして『彼女』は残念ながら、後者に含まれる人間だった。

視力を失い。
ピアノを失い。
闇に閉ざされた世界の淵で、『彼女』の精神は緩やかに、しかし確実に腐食していった。

そんな『彼女』を、更なる悲劇が襲う。

包帯とガーゼに覆われた眼球の痛みが、どれだけ経っても一向に引かなかったのだ。
医学的な治療は施したと主張する医師は、その痛みを幻肢痛(ファントムペイン)の一種、つまり『精神的なものだ』と決め付けた。
実際、『彼女』の精神は相当に病んでいた。
まるで食事を取ろうとせず。
眠る事さえ気絶するようにしか行わず。
暇さえあれば虚空を鷲掴みにする様に指を動かして、目に見えないピアノと戯れてばかりいた。
そして時折、狂った様に哂(わら)いだした。
眼球の痛みを激しく訴えながら、しかし彼女は全身を痙攣させるほど激しく、そして醜くゲタゲタと哂うのであった。

数日後。
『彼女』は病院を脱走し、通学路途中にある川に身を投げ、自殺した。
『彼女』の手には、白い長方形の物体が握られていた。
調査の結果、『彼女』が握っていた長方形の物体は、件のピアノから毟り取られた白鍵盤だと判明した。
だが、判ったのはたったそれだけの『事実』でしかなかった。
全盲状態の『彼女』が、どうやって病院を脱走したのか。
どうやって学校まで行ったのか。
どうやって音楽室に侵入し、どうして白鍵盤を毟り取り、どうしてそれを握り締めたまま自殺したのか――

「どうして、『彼女』の死体は歪んだ笑みを湛えていたのか。 それらは未だもって謎のまま――って、どうした、沙紀」
「……な、な、なんでもありませんなのだよ?」

平静を装ってカップに伸ばした手が、カタカタと震えている。
幼稚園児だってもう少しマトモな作り笑いをできるだろうと言うくらい、引き攣った笑みが蒼白な顔に張り付いている。
そもそも、どもりながら口にした言葉が日本語として壊滅的なまでにおかしすぎる。
久瀬は溜息をつきながら、気遣いの言葉を口に出した。

「別に、無理して聞く必要はないぞ」
「む、無理なんかしてないです! ただちょっと――そう、この部屋がちょっとだけ寒いだけです!」

まあ、お前がそう言うなら仕方がない。
ここで話を止めたら余計に沙紀の機嫌が悪くなりそうだったので、久瀬は慎重に言葉を選びながら先を続ける事にした。

「当時は今の様に他人に責任を押し付ける風潮はなかった為か、それとも娘の精神が正常ではなかった事を公にするのを嫌ったか。
 今となってはどちらの理由が主かは判らないが、『彼女』の両親は学園側に『備品の安全管理義務を怠った』と言う訴訟は起こさなかったようだ。
 だが、それは学園側にとっても僥倖だった。
 何しろ当時の我が校は財政状況が困窮を極めていたらしいからな。
 悪い噂が流れる事を恐れて、『彼女』の死に関しても不審な部分や奇怪な要素は一切語られる事はなかった。
 どうやら、学園側と両親は『この事件を隠蔽する』と言う方向で双方の利害が一致し、手を結んだと解釈するのが妥当らしいな」

なんか、さっきからやたらと語尾が伝聞もしくは推量で締め括られているなあ。
三流ホラー路線まっしぐらなストーリーに脅えながらも、文系少女の思考回路は今日も元気に稼動していた。

「ただ、学園側としても同じ様な事故が起こっては困ると云う事で、何らかのアクションを起こす必要があった。
 そこで、件のピアノの天蓋を硬く封鎖してしまったらしい。
 無論、修理と調律はその前にちゃんと済ませたようだがな。
 それから暫くは特に問題もなく使用されていたらしいが、ある日突然、一つの白鍵から音が出なくなったそうだ」
「……それってまさか」
「ああ。 『彼女』の目を潰し、『彼女』が最後に毟り取った、曰く付きの白鍵盤だ」

ぞわり。
得体の知れない嫌な予感が、沙紀の背筋をマッハ3ぐらいの速度で駆け抜けていった。

「それを機に、ピアノの調律は恐ろしい勢いで一気に狂い始めた。
 だが、事故防止のために硬く封印された天蓋は、それを直す事を許さなかった。
 狂った調律で奏でられる音曲は、聞く者の精神を非常に不安定にさせた。
 遊びで弾き続けた男子生徒の一人が、引き付けを起こして保健室送りになった事例まで発生したと言う。
 そして遂に、件のピアノは学園の表舞台から姿を消した。
 一人の少女の人生を狂わせ、また音楽を奏でれば聴く者の心を狂わせる、【気狂(きちが)いピアノ】と言う異名を残してな」